05 Si nous devenons deux chats.


   ◇

 本当に、これが死んだ姿なのか、と疑わずにはいられなかった。

 乱れた様子も傷ついた様子も見当たらない彼女の体は、ただ眠っているかのように静かに横たわっている。白いワンピースから伸びた両足の爪には海のような蒼い染色が施されていた。

「こちらが、その……発見時の写真です」

 手渡されたものを見る。

 広い寝台で、彼女が見知らぬ男と抱き合っている。揃って白い服を着て、整ったシーツの上には白百合が散らされていた。

 これは本当に人の死に様なのか。こういうアート作品なのだと説明されたら納得してしまいそうな光景だ。並んで横たわる男女の顔はどちらも穏やかで、転寝うたたねをしているようですらある。

「これが本当に……?」

 信じられずに呟くと、写真を渡してきた男が深く頷いた。

「私も驚きましたよ。死んでいるようには見えないでしょう?」

 写真を握りしめたままぎこちなく首を縦に動かす。台上に寝かされた彼女と写真に映る女は確かに同一人物だ。彼女には以前から捜索願が出されていた。無断欠勤が続き心配した同僚が自宅を訪ねたところ、そこはすで引き払われており、実家にも連絡を取ったがそちらにも帰っていなかったことで行方不明が発覚したのだ。

 彼女の居所が判明したのはほんの数日前。

 近所の住人がもう数日犯人の姿を見ていないと証言したとき、捜査にあたった者たちは皆、嫌な予感がしたという。それは見事に的中してしまい、彼らが発見したのは死後数日経った男女の遺体だった。

 部屋の中には、荒れた様子はなかったという。

   ◇

 一緒に死んでほしい、そう言われたのは深夜のことだった。

 昇りたての月がまだ色濃く、鼈甲べっこう色に光っていた。彼の雪のように白い顔も輪郭りんかくしか見えないほど暗く。氷河のような碧眼だけが闇の中でほの明るかった。

「――どうしたの? 急に」

 あたたかな腕に抱かれながら彼の顔を見上げる。

 クリスは少し身を起こすと、わたしの額に自分のそれをこつん、と合わせた。

「……こわいんだ」

 彼の声は掠れていた。寝起きのものとは違う、今にも消えてしまいそうなか弱い声。いつものチョコレートみたいな甘く艶やかな声とは明らかに響きが違う。

 わたしは心配になって手探りで彼の頬に触れた。なめらかなそこを撫でると、大きな手がわたしの手を覆う。

「ユウが、いないと。おまえがいないと、俺は生きていけない……もしおまえがいなくなったらと思うと、苦しくて心臓が止まりそうになる」

 指が絡みついた。傍目にはほっそりして見える指だが、それは長さがあるからで、実際にはかなり太いのだということを、わたしはこの数日で知った。

「最期まで一緒にいてほしいんだ。俺が死ぬとき、一緒に来てほしいんだ」

 吐息も吹きかかるような、まばたきした睫毛まつげが触れてしまいそうな距離でクリスが言う。

「ユウ、俺と死んでくれないか」

   ◆

 ユウを初めて見たのは今から数年前。まだ前の会社に勤めていたころのことだ。

 その会社はいわゆるブラック企業というやつで、給料はいいが勤務時間が尋常じゃなく長かった。ユウを初めて見たのは土曜日だったのだが、その日も前日から夜通し働いて、昼前にやっと解放されたところだった。

 駅から自宅までの近道だった河川敷を歩いていた。二十四時間近くずっとパソコンの画面と見つめあっていたせいで、日差しが目にみて仕方がなかった。

 眩しくて視線をうつむける。

 そこに、彼女がいた。

 川沿いに伸びる細長い、人気のない公園。その片隅に設置されたベンチで、うとうとと舟を漕ぐ少女。

 少女というには少し大人びていたかもしれない。けれど遠目に見た寝顔はあどけなくて、黒檀みたいに真っ黒い髪が淡い景色の中に浮かび上がるようで。

 ひどく、胸が痛んだ。深海から水面を見上げるような、あたたかさが心に滲むような心地がした。

 あそこへ行きたい。そばへ行って、あたためてもらいたい。そんな想いが湧き上がって、知らず知らずのうちに足が止まる。

 引き寄せられるようにふらふらと、しかし起こしてしまわないように音を殺して近寄った。

 ベンチの脇に置たれた鞄から学校の教科書らしきものがはみ出ている。下の方に控えめな文字で、クラスと名前が書いてある。不用心だな、と思いながらも知りたい気持ちを抑えきれずそっと覗き込んだ。三年二組、出石優――ユウ、というのか。この光景に似合いの、長閑のどかでやわらかな名前だ。

「ユウ……」

 小さく発音してみると心臓が引き絞られるように痛んだ。さみしい、と思った。

 もっとそばに、このが欲しい。

 半年と経たないうちに、俺のその会社を辞めた。準備のために時間が要る。その時間が取れる職場へ移ろう、と決めた。

   ◆

 翌朝目覚めたとき、隣にクリスはいなかった。途端に心細くなって寝間着のまま部屋中を探し回る。キッチンにも、洗面室にも、風呂にも見当たらない。

 出かけてしまったのだ、と気づいた瞬間寂しさがこみあげてくる。おかしいな、わたしってこんなに弱かったっけ。

 ドアの前にへたり込んでぼうっとしていると、玄関を開ける音がした。ガチャガチャと響く金属音にぱっと飛び上がる。帰ってきた!

「ただいま――起きてたのか」

 クリスはドアを開けたのと同時に抱きついてきたわたしを受け止めてちょっと驚いたように眉を上げたあと、申し訳なさそうな表情になった。

「ごめんな。驚いただろ?」

「探してもいないから……、どこに行っちゃったのかと」

 しがみつくわたしをなだめようと、クリスは額から頬にかけて何度かキスを落とした。やわらかい感触に心がだんだんと落ち着いてくる。

「……ありがと。だいすき、クリストファー」

 お礼にとわたしからも頬にキスした。温かい手が寝ぐせが残ったままの髪を撫でて、唇をふさがれる。

「俺も愛してる。ユウ、ずっと愛してる」


 身支度を整え、ソファに並んで座った。クリスがさっき持って帰ってきたものを取り出す。

 花束だ。アイボリーの包装でくるまれた、一抱えはありそうな大きさの。

「花を……買ってきたんだ。気に入るといいんだが」

 差し出された花束には、大輪の百合がその白く清楚な花弁を揺らしていた。花芯のあたりからかぐわしい香りが立ちのぼる。

 彼は花束の根元に巻かれていたリボンを取って、わたしの髪に飾ってくれた。鮮やかに青い、サテンのリボン。花嫁には青いものサムシングブルーを。そう考えてくれたのだとしたら、とても嬉しい。

 今日のわたしは、真っ白いワンピースを着ている。

 レースが美しいこんな服は、ずっと自分には似合わないと思っていた。

 昨夜、俺と死んでくれないか、とクリスは言った。彼の恐れていること、苦しく思っていることを聞いているうちに、わたしはなんだかどうしようもなく彼が愛しくなってしまったのだ。

 こんなこと、馬鹿らしいと言われるかもしれない。

 それでもわたしは、彼を受け入れたかった。

 わたしが頷いたときの彼の心底安心したような顔を見て、これでよかったのだ、と思った。

 迎えが来たときの迷子のような顔だった。ずいぶん長く独りでさまよって、寂しくてさみしくて仕方がなくなってやっと母親が迎えに来てくれた幼子のような、泣き笑いの表情だった。

 今朝になってクリスが出してくれたのは、刺繍とレースで贅沢に飾られた純白のワンピースだった。長い裾はフリルのように波打っている。

 ウェディングドレスのようだ。わたしはそう感じたし、クリスもきっと、そう思って用意してくれたのだろう。

 クリスはわたしの髪を丁寧にかして結ってくれ、化粧道具まで用意してくれた。

 支度を終えて洗面室を出ると、彼も白い服を着ていた。スーツなどではなくて、色が白いだけの普段着だったけれど、お揃いのようで嬉しかった。

 ベッドを整えて、すべての準備を終えたクリスがわたしを抱きしめる。

「ずっと、ずっと俺と一緒にいてくれ、俺のユウ」

「いいよ。いてあげる」

 そう、クリスがあんまりにも、悲痛な顔で言うものだから。わたしは頷きながら少し笑ってしまった。そんなところがいとおしい。

 返事はもう、昨夜のうちにしたはずなのに。

 花を散らしたシーツになだれ込む。百合の香りが宙に巻きあがった。

 もう言葉は要らない。ただ、願わくば。次は彼がこんなに悩まなくてもいいように、

 猫にでも生まれ変われたらいいのにな。

 そう思いながら薬をあおった。

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