04 Chérie chérie chat noir.


 わたしは、学生時代も今も、色恋沙汰とは無縁の人生を送っていた。そのせいだろうか。他人に好意を寄せられることに、全く耐性がなかったのだ。

「――くり、すとふぁ?」

「うん、俺だ」

 頬をさする手に気がついて目が覚める。目蓋を持ち上げると、綺麗なアイスブルーが見えた。

「くりすとふぁー……」

 美しさに感嘆して名前を呼ぶと、クリスはとろけるように微笑んだ。天使のような金の髪が揺れて、窓からの日差しにきらめく。

 天国のようだ。ここは。


 わたしは今も彼と一緒に暮らしている。あの告白のあと、彼はわたしにクリストファーという本名を教えてくれた。最初に教えられた”クリス”という呼び名は偽名ではなく、略称なのだそうだ。

 今日も寝床は暖かい。さらさらのシーツに額を擦りつけて、ぬくもった布の感触を堪能する。

「ユウ、起きられるか?」

 しばらくそうやってごろごろしていると、クリスが起床を促してきた。心地よいベッドを名残惜しく思いながらも身を起こすと、彼が手櫛てぐしで髪を整えてくれる。

「今日はホットサンドにしようと思って、用意してあるんだ。おまえが着替えたら焼きはじめるからな」

 手渡された着替えはパウダーブルーのシャツワンピース。淡い色が好きなことを、きっと彼は知っているのだろう。でも女性らしい色を身に着けるのは気恥ずかしくて、今までは紺とか黒とか、ずっと地味な色ばかり着ていた。

 今も多少の抵抗はないでもないが、他人が選んだものだし、クリスはわたしのことをけなしたりしないので、安心して着られる。

 洗面室で顔を洗って着替えダイニングへ向かうと、すでに香ばしい匂いが漂っていた。パンの焼ける匂い。それから、コーヒーの甘苦い香り。

「いいにおいー」

 わくわくしてキッチンを覗き込む。クリスが苦笑して「すぐに持っていくから」と言った。はしゃいでしまって、ちょっと子どもっぽかったかな、と反省する。でも彼のつくる料理がいつも美味しいせいもあると思うのだ。

 席に着いてすぐ、湯気をたてるホットサンドとカフェオレが運ばれてきた。きつね色の焦げ目がいかにも食欲をそそる。

 いただきます、と一声かけて食べはじめると、やはり期待通りの美味しさだった。

 ひとつめはキャベツとツナ。胡椒こしょうが効いていてちょっとぴりっとする。でもキャベツが甘くて、ザクザクして食べ応えがある。

 ふたつめはハムと卵、チーズ。これも卵とチーズがとろとろで最高だった。

 朝からこんなに素敵なご飯が食べられて、わたしはとっても幸せだ。満ち足りた気分でカフェオレを飲む。

「今日はお仕事に行くの?」

 目の前で食後のコーヒーを飲んでいるクリスに聞くと、彼はマグをランチョンマットの上へ置いて答えた。

「ああ。いつも通り、六時には帰るから、いい子にしていてくれ。帰りになにか甘いものを買ってこよう」

「ほんと? じゃあね、アイスがいいな」

 そう言ったわたしに優しく微笑んで、クリスはスーツに着替えて出かけていってしまった。部屋と玄関を繋ぐドアの前で彼を見送ったのち、軽くため息をつく。ぴったり閉じ切ったドアを見つめた。ひとりだとちょっと寂しい。

「……クリストファー、はやく帰ってこないかな」

 今出かけたばかりだというのに、もう帰りが待ち遠しくて仕方がなかった。

 だって彼がいないと、ここは本当に静かなのだ。ここに来る前、ひとり暮らしをしていたころにはたいして気にならなかった静寂が、今はひどく心に刺さる。

 わたしはおかしくなってしまったのだろうか。


 彼は宣言通り、六時前に帰ってきてくれた。初めて会ったときと同じくらいの時間だ。今夜はシチューにしよう、と微笑む彼に抱きつくと、優しい手つきで頭を撫でてくれる。

 幸せだ。

 あったかいシチューを食べて、のんびり湯船に浸かったあと、わたしたちは少しだけ行儀悪くアイスを持ってベッドに上がった。枕に寄りかかりながらひんやりと甘い味を楽しむ。

「それ、美味しい?」

「食べてみるか?」

 クリスが食べているアイスの味が気になって聞くと、彼は一口すくって差し出してくれた。ありがたく口を開いてお裾分けをいただく。

「美味しいか?」

 問いかけににっこり笑って頷く。苺とヨーグルトの酸味が爽やかで食べやすい。わたしも、とスプーンで自分のアイスをすくった。彼の口元へ差し出す。

「はい、お返し」

「ん。ありがとう」

 赤い舌が銀に光るスプーンを受け止めた。思わず視線を奪われてしまう。

 ぼうっとしたまま融けたチョコレートアイスを舐めとる彼の舌先を見つめていると、彼が目を細めた。

「……どうした?」

 一気に頬が熱くなる。わたしは、今、なんてことをしてたんだろう。ひとの舌を、凝視するなんて!

「な、なんでもない!」

 慌てて目を逸らすと、クリスの顔が追いかけてくる。

「なんでもないって顔じゃないが?」

「ぅ、あの。ほんとに、なんでもないから」

「……なんでもないのに、俺の口、ずっと見てたのか?」

 ば、ばれてる……! なにも言い返せなくなったわたしは、唇をぎゅっと噛みしめて俯いた。アイスカップをサイドテーブルへ置いたらしいクリスが片腕をわたしの腰に回す。

「ユウ、かわいいな」

 あたたかい体が寄せられて、体温と重みを感じる。ぐっと顔が近づいて青い瞳がよく見えた。虹彩の模様が花のようだ。ちょっと湿ったやわらかい感触が口に触れる。

 ちゅ、と軽い音がしてゆっくり離れていく。一拍遅れて、キスされたのだ、と気づいた。

「かわいい。俺のユウ」

 クリスの唇からは、苺の甘酸っぱい味がした。

   ◆

 ユウは、あれからずっと俺と一緒にいてくれる。

 一緒に起きて、朝食をとって、仕事から帰ったら迎えてくれて、夕食をとって、同じベッドで並んで眠る。

 なんて幸せなんだろう。

 あまりに満ち足りていて、ここが本当に現実なのか疑わしくなってくる。でももしこれが夢だったら、目が覚めたらユウがどこにもいなかったらと考えると怖ろしすぎるので、普段は努めて意識しないことにしている。

「クリストファー、おかえりなさい」

「ただいま、ユウ」

 今日も全速力で仕事を終えて部屋に帰ると、ちょうどユウが本を置いて立ち上がるところだった。歩み寄って抱きしめると背中に細い腕が回る。

「ユウ、愛してる……」

 愛おしくなって額に口づけた。

 どうしよう。

 もう彼女がいない人生は堪えられない。このあたたかさを知った自分には、もうぬくもりなしの人生など想像もできなかった。いったい俺は、今までどうやって生きてきたのだろう。そんなことすら思い出せない。

 これからはどうすればいいのだろうか。

 一番欲しかったものは今、俺の腕の中にある。もう彼女を手に入れるために手段を尽くす必要はなくなった。ユウに初めて出会ってから今まで、俺は彼女を手に入れることだけを考えて生きてきた。それが達成された今、次の目標が見つからずにいる。俺はただ、ユウがそばにいてくれるだけで満足だ。これ以上の幸福は存在しない。

 今が人生で一番幸福なのだとしたら……。後に来るのは不幸だけなのだろうか。俺にとって不幸とは、ユウがいなくなることだ。

 いづれ彼女も自分のもとからいなくなってしまうのだろうか。

 わからない。

 考えたくない。ユウがいなくなってしまうなんて。

 どうすればいい?

 どうすれば、ずっと一緒にいられる? どうすれば、死ぬまでずっと、このぬくもりを抱いていられるだろうか……。

 俺は答えに辿りついた。

   ◆

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