03 Comme un chat.



 クリスさんにこの家へ(承諾なしで)連れてこられてからはや五日が経とうとしていた。

 この間、彼は二日出勤し、残りの一日は休日。あと二日は在宅で勤務していた。わたしのほうは当然だが一日も出勤していない。無断欠勤扱いになっていることだろう。ここから帰れたとしてもクビになっている可能性もある。帰れないかもしれないという考えは一旦脇に置いておこう。

 生活は意外というわけでもないが快適で、三食おやつ読書つきのうえ毎日風呂にも入れる。ひとつのベッドで並んで眠るのもなんだか慣れてきてしまった。

 美味しいご飯を食べて、日当たりのいい部屋でごろごろして、暖かい寝床で眠る。まるで室内飼育されているペットのような生活である。

 ただわたしも、のんびりと監禁生活を満喫していたわけではない。

 少しでも情報を集められればとクリスさんにあれこれ話しかけたりしてみたが、どの質問も確信を突けずのらりくらりと躱されてしまっているのが現状だ。

 これに関しては、もとより他人と話すのは得意ではないので許してほしい。

 それと、クリスさんが家にいる間は、つまり彼の目の届くところにわたしがいるかぎりはかなり自由にできている。屋上に出ることも許されたのでここがどのあたりなのか探ろうとしたのだが、鉄柵越しに見下ろした町並みはどこにでもありそうな屋根とビルの連なりで、居場所の手がかりにはならなかった。わたしは地理にも弱かったらしい。

 さて、六日目が訪れようとしている午後十一時。

 今夜はひとつ策があるのだ。まあ策というほどのことでもないが、クリスさんが寝ている間に鍵を探すのである。

 こんなに初歩的なことをなぜ今までやらなかったかというと、単に寝落ちしていたからだ。

 クリスさんは寝るとき、最初だけでもわたしに隣にいてほしいと言う。それを了承し隣に寝転ぶと、気がついたときには体に腕が回っていて、身動きがとれなくなってしまうのだ。故意にやっているのではと幾度も疑ったが、どう目を凝らしてもぐっすり眠っているので文句も言いづらい。

 わたしがここから逃げないように、外部との接触を徹底的に排しているクリスさんだ。彼に正面きって脱走する方法を探ろうとしてますなど言えるはずもない。

「ユウ、そろそろ寝るぞ」

「はぁい」

 クリスさんの声かけに返事をして、読んでいた本を閉じる。鳥の図鑑というのも読んでみるとおもしろい。バードウォッチングとかやってみたくなる。


 ベッドに入ると、今日はさっそく彼の腕が伸びてきた。

 え? 今まで寝てからだけだったよね? どうして?

「ん、ユウ……いいこだな」

 驚くわたしをよそに大きな手がゆっくりと、髪をくようにして後頭部を撫でる。胸の内側にしまい込むように抱きしめられ、若干息が苦しい。

「クリスさん、くるしい、から。ちょっとゆるめて……」

 動かせるほうの腕で彼の胸を押し返しながら言う。顔を見上げると軽く伏せられた目と視線がかち合った。秋の稲穂のような黄金きん睫毛まつげが白磁の目元に影を落とす。

 腕の力が少しゆるんだ。

「苦しく、ないか?」

 吐息まじりの声は耳にみるようだ。息苦しさがなくなって人心地つく。

「だいじょうぶ、です」

 はあ、と気づかれないように息をついた。しかしこの調子で、は当初の予定は変更せざるを得ない。クリスさんが眠るのを待つのはそのままとして、あとで抜け出す方法を考えなければ。

 知恵を絞っていると、頭を撫でていた手が今度は背中を叩きだした。

 とんとん、と温かな手のひらが肩甲骨の間あたりでリズムを刻む。子供を寝かしつけるようなしぐさに少しも苛つかなかったと言えば嘘になってしまうが。それ以上に心臓の鼓動と同期するような拍子が心地よくて。

 いつもと同じ柔軟剤の匂いがする。

 クリスさん、腕太いなあ。あったかいなあ。そんなことを考えてうとうとしているうちに、本当に眠ってしまった。不覚。


 寝てしまった。それはもう、ぐっすり眠ってしまった。

 目が覚めたとき、クリスさんは珍しいことにわたしよりもはやく起きていた。目蓋まぶたを開けた瞬間に端正な白皙はくせきのおもてが視界に飛び込んできて、まばゆさに思わずまたたく。

「おはよう、ユウ」

 綺麗な弧を描いた唇がわたしの額に触れた。ちゅ、と軽い音がしてすぐに離れる。

「ぇ、ぁ……おはよう、ございます……?」

 え、いま、キスされなかった? え?

 動揺してやたらに目蓋まぶたを上下させるわたしを見て満足そうな表情をしたクリスさんは、寝転がったままわたしの髪をきながらくすりと笑った。ユウ、と天鵞絨ビロードみたいにやわらかくなめらかな声で呼ばれる。

「なあ。なにしたら、俺のこと意識してくれる?」

「へ?」

 声というよりは、発音し損ねた吐息のようなものが口から飛び出した。水面みなもみたいなクリスさんの瞳にわたしの間抜けな顔が映る。

「い、意識?」

「そう」

 クリスさんは微笑んだまま頷いた。

「俺のこと、男として意識してほしいんだ」

 男として、意識してほしい? よくわからなくて首を傾げた。彼の性別を忘れたつもりはないのだが、なにか誤解されているのだろうか。

「どういうことですか……?」

 うまく理解できなかったので素直に聞くことにした。というか質問しておいてあれなのだけれど、とりあえず起き上がりたい。こんな至近距離で横たわりながら話すのはちょっと落ち着かない。

「どういうこともなにも、」

 指先であごを掻きながら、クリスさんが苦笑する。もしかしてわたし、空気が読めていなかっただろうか。それとも知っていて当然なことを聞いてしまったのだろうか。

「あーうん、そうだな。なんて言ったらいいか……そう。俺のことを、異性として、愛してほしいんだ」

 一言ずつ句切るように言った彼を、わたしはじっと見つめた。ガン見した。多少、信じられない思いもあったので。

 ……いや。好かれているのだろうな、という予想はもちろんしていた。相手を閉じ込めて、誰にも会わせず大事に大事にしまい込む。この行動は、どう考えてもヤンデレです。

「ぇ……っと。あの、ひとつ、確認っていうか、教えてほしいことがあって」

「なんだ?」

 深呼吸して、息を整える。

「クリスさんは、その――わたしが、すき、なのかなって、思ったんですけど」

 合ってますか? と恥ずかしさをなんとか耐えながら口にした。我ながらもどかしい。もっとすぱっと聞くことができたらよかったのに。

 それでもここが勝負どころだと覚悟を決めて、ぐっと彼の青い目を見つめた。

 曇りない碧眼は陶酔とうすいしてしまいそうなほど美しく。ヒアシンスの花のような、凍った湖のような色をしている。

 彼は、クリスさんは、とろけるような笑みを浮かべると、わたしの頬にそっと手を添えた。ちょっと硬い手のひらが顔のやわらかいところを温める。

「――ああ」

 クリスさんの声は今までの穏やかさが嘘のように熱っぽい。

「そうだ。俺は、ユウを愛している……言うのが遅かったな。不安にさせてすまない」

 懺悔するような、それでいて艶めいた表情はいっそ直視しがたいほどだった。その……あまりに魅力的で。

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