02 Allez, mon chat.


 いざ寝るという段になって、わたしは今日一番の抵抗をした。

 さすがに、さすがに初対面の、しかも自分を誘拐した男と同じ寝床には上がれない。それを直接は言えずともできる限り婉曲な表現で伝えたつもりだったが、髪を乾かしたときと同じように押し切られてしまった。

 あまり強く拒否して怒らせるのが怖かった、という理由もある。

 ベッドの幅は二メートル近くあるので、一緒に寝るといってもそんなにくっつく必要はない。糊のきいたシーツの上で横になる。背を向けるのは怖いのでクリスさんの方を向いた。

「ユウは起きたばかりだからまだ眠くないかもしれないな……。でも、ここにいてくれ。俺が寝るまででもいいから」

 クリスさんが毛布の下から腕を伸ばして、わたしの側頭部をそっと撫でた。

 頭の形をなぞるような手つき。手のひらが触れる感触はあってもその重さは感じないような、そんなタッチでゆるゆると撫でる。指先が温かい。

「キッチンの明かり点ければ、ダイニングも明るくなるから。眠れないんだったら起きてていいからな。本棚の本も、好きに読んでいい」


 しばらくして、クリスさんの方から寝息が聞こえてきた。

 部屋は明かりを落としているけれど、横の窓から月光が差し込んでくるから彼の寝顔も良く見える。

 満月の青白い光はもともと彫刻めいた顔立ちをさらに引き立てる。温度など持たない、石の像のようだ。

 そんなことを感じてしまったわたしはつい存在を確かめようと、無意識のうちに手を伸ばしていた。見た目とは裏腹に、白皙の頬はやわらかくぬくい。あどけなく開いた唇に起きているときよりも数段幼い印象を抱いた。

 ……わたしは、どうしてこんなに落ち着いているのだろうか。

 クリスさんは本を読んでいいと言ってくれたが、わたしはそれよりも考えることに時間を使いたかった。ごろりと仰向けになって天井を見つめる。

 最初、クリスさんが帰ってきたときは確かに恐怖を感じた。けれど彼はすぐ日常的な挙動でシャワーを浴びに行ってしまい、そこで拍子抜けしたような気分になった。あの驚異的な美貌も怖ろしさから意識を逸らす一因となった。

 すべて計算の上でのことなのだろうか。あまりに自然すぎて今まで意識していなかったが、彼の取った”どう見ても平穏な日常のルーティーン”はわたしを油断させるための演技という可能性もある。

 彼は今のところ、ひたすらに穏やかで、危険そうなことはなにもない。そこが逆に狂気的な雰囲気を作っているような気もするが……。

 わからない。

 クリスさんがわたしを選んだ理由、ここへ連れてきた理由、攫ったにもかかわらずたいしたことをしてこない理由。どれをとっても心当たりが全くない。

 彼は今日初めて顔を合わせたはずだ。こんな美人、一目見たら忘れるはずがない。覚えがないということは、直接対面したことがないということだ。しかしそうすると、クリスさんはいったいいつ、どこでわたしを知ったのか。

 いろいろと頭を捻ってみたが、最終的に情報が少なすぎる、という結論に辿りついた。

 まずわたしは彼が普段なにをしているひとなのかも知らないし、どこに住んでいるのか(つまり、今わたしはどこにいるのか)もわからない。これでは日頃の活動範囲ですら割り出せないではないか。

 考えるのに疲れて、寝返りをうつ。寝具はどれも肌触りがよかった。聞こえてくる深い寝息が眠気を誘う。

 いっぱい寝たはずなんだけどな。

 うつ伏せになると、シーツから洗剤の匂いがする。うちのと同じ洗剤だ。偶然だろうか。

 いつのまにか、クリスさんとの隙間は狭まっていた。お互い寝返りをうったりしていたから。毛布や、ほんの数センチの空気を通して彼の体温が伝わってくる。不思議と不快感はなかった。

 眠っているからか、それとも平素からなのかわからないけれど、彼の体温は高めだ。直接触れていなくとも暖かい。洗剤とはまた違う香りがわずかに漂ってくる。

 柔軟剤の匂いと、それからかすかに海のような匂い。

 手を伸ばすと、分厚いスウェットの生地に触れた。なんだか安心してそのまま握りしめる。眠気の誘うままに目蓋まぶたを閉じた。

   ◆

 目を覚ますと、そのは俺の胸に顔を埋めて眠っていた。

 攫った相手に対してあまりにも無警戒だと思うが、それと同時にあちらから触れてくれたのがたまらなく嬉しいとも感じる。

 背中に両腕を回してぎゅっと抱きしめた。かわいい。

 髪の匂いと幸福感で胸を満たしながら、そのぬるい体温を味わう。

「……ユウ」

 いとしい名前を舌にのせると、それだけで甘美な味がするようだ。

 小さな心臓が脈をうつかすかな振動も、すこやかに漏れ聞こえる吐息も、彼女のすべてが胸をえぐるような痛みを生み出す。この痛みは、自分にとって救いだ。

「ずっと、俺と一緒にいてくれ。俺のユウ」

 祈るように呟いて、ゆっくり目蓋まぶたを閉じた。

   ◆

 目を覚ますと、彫刻みたいな顔が目の前にあった。

 えっなんで? 離れて寝たよね?

 しかも彼の、クリスさんの太い腕が左右とも私の胴に巻きついている。おかげでほとんど身動きがとれない。幸い苦しくはない程度だが、会って二日でこの距離感はおかしすぎる。なんとか抜け出そうともがいても力の差は歴然だ。

「ゔぅーん……」

 鼻先でクリスさんが呻く。起きるかも、と反応を窺っていると、小さく身じろぎした彼はわたしを抱きしめ直してまたゆるやかに寝息をたてはじめた。

「ぉ、起きて、起きてくださいっ」

 わたしは腕の中で体をよじって、クリスさんを揺すぶった。窮屈きゅうくつで困るというのもあるが、さっき時計を見たらもう七時過ぎだった。はやく起きなければ会社に遅刻してしまうのではないか。

「もう七時過ぎてますよ! 遅刻しちゃいますって!」

「ぅん……大丈夫だ……」

 しつこく声をかけ続けていると、彼はようやく反応を返してくれた。内容が心許こころもとなかったとしても、返事があるということは覚醒しつつあるということだ。

 もう少しで起きそう。そう思って彼の頬を軽くぺちぺちと叩く。我ながら大胆なやり方だと感じなくもないが、昨日の対応からして、きっとこれくらいでは怒らないはず――。

「――ひゃっ」

 手首を掴まれた。とっさに体を強張こわばらせる。

 どきどきしながら次の行動を待っていると、手首はすぐに解放された。掴んでいた手はわたしの後頭部へ移動しなだめるように撫ではじめる。

「だいじょうぶだ……今日、休みだから……」

「え……」

 休み。

 その発想はなかった。というか、聞いていない。わたしの記憶が正しければ、今日はまだ金曜日ではなかっただろうか。いや、そもそもわたし、

「どれくらい寝てたんだろう」

 わたしは、最後に自分の部屋で寝たのは一昨日の夜だと思っている。でも、実際はそうじゃなかったら? 一昨日は水曜日だった。だから今日は金曜日だと思ったんだけど、もしわたしが一日以上眠っていたのなら、今日はいったい何日で、何曜日なのだろう。


 クリスさんは九時ごろやっと起きた。

 一時間半近く拘束され続けたせいで、わたしは片腕がしびれてしまった。クリスさんは朝が弱いらしい。起き上がってからもしばらくベッドに座り込んだままぼーっとしていた。

 やっと活動を開始したクリスさんと交代で洗面室を使い、ここでわたしは初めて寝間着以外の服に着替えた。

 レモンイエローのサーキュラースカートに、白いブラウス。綺麗な色だけど、デザインはシンプルで可愛かわいらしすぎない。彼はいったいわたしのことをどこまで把握しているのだろう?

 エンジンがかかったらしいクリスさんは朝食にパンケーキを焼いてくれた。ベーコンと目玉焼きを添えた、甘くないパンケーキだ。

 食事後はソファへ誘導されて紅茶を与えられた。華やかな香りのアールグレイ。

 レザー調の座面に腰かけてお茶を飲みながら、キッチンを片づけるクリスさんを眺める。こうして離れたところから見ていても彼の背がかなり高いのはよくわかった。立った状態で隣に並ぶと、わたしの頭の天辺てっぺんがちょうど彼の肩くらいの高さに来るのだ。

 ベリー柄の小ぶりなティーポットが空になるころ、クリスさんはこっちへやって来てソファの隣に座った。

「本は読まないのか?」

 彼が指した先には大きな本棚がある。縦横ともに二メートル以上、上の段は到底物理的に手が届かなそうな立派な本棚だ。文庫から新書、図鑑のようなものまで多様な書籍が並んでいる。

「……昨日も言ってましたよね、本読んでいいって」

「ああ。せっかく用意したんだから、読まないと勿体もったいないだろ?」

 用意。用意したと言ったか、彼は。

 この棚の本、全部? いやいや、さすがにそれはないだろう。いったい何冊あるか、一見しただけではわからないくらい詰まっているのに。

 クリスさんは立ち上がって本棚に歩み寄ると、一冊の文庫を抜き出して持ってきた。

「ほらこれ、新しいやつ」

 彼が差し出したの確かに、わたしがはまっているシリーズの最新刊だった。つい先日発刊されたばかりで、わたしはまだ買えていなかったもの。

 筋金入りの活字オタクである自分に、続きが読みたいという欲求を抑えきれるはずもなく。

 わたしはいそいそと、その本の表紙を開いてしまったのだった。

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