猫並みの生活
一刻ショウ
01 Bienvenue, mon chat!
目を覚ますと、そこは見覚えのない部屋だった。
モノトーンを基調にしたシンプルな家具の部屋……雰囲気からして女性というよりは男性の部屋に見える。
わたしはその部屋の、広いベッドの上に寝かされていた。
ベッドの幅はシングルふたつ分くらい。つまり、クイーンサイズだ。楽に三回転はできそうな広さで、こんなに大きなベッドにはホテルですら寝たことはない。
視線を足元の方へ向けると、ソファセットとダイニングテーブル、それからキッチンカウンターまでが一望できた。ワンルームのようだが狭苦しい印象はない。どころか広々として、ひとりで暮らすには掃除が面倒くさそうなほどだ。
室内には誰もいない。
わたしはいったいどういう経緯でここにいるのだろう。
ちょっと考えてみたが、昨日の夜自分のアパートで眠った以降の記憶が全くない。そもそもあれは昨日のことなのだろうか。気づかないうちに何日も経っていたりして。
四つん這いでシーツの上を移動し床に降りる。淡色のフローリングはじんわり温かかった。
床暖房だ!
なんて贅沢な部屋だろう。冷え性の自分には羨ましい限りだ。
とりあえず外の様子を探ろうと窓を覗き込む。ビルや家々の屋根といった光景の手前に少しばかりひび割れて雑草の生えた屋上らしきスペースがある。
これはあれか。俗にいうペントハウスというやつか。
屋上へ続く掃き出し窓に手をかけたが、びくともしない。あれ? もしかしてわたし、閉じ込められてる?
今更ながらにそんなことが頭をよぎったが、いやいやまだ玄関を確認していないし、と気を取り直す。
振り向くと、ちょうど掃き出し窓の向かいに床と同じ木製のドアがひとつ。その両脇にも建具がひとつずつある。向かって左はクロゼットらしい折れ戸。右は片引きの引き戸。
右の引き戸はどう見ても鍵穴らしいものはないし、開いている可能性は高い。逆に言えば玄関に繋がっている可能性は低いのだが……。試しに開けてみると、やはりというかそちらはサニタリールームだった。マーブル模様の化粧板が貼られた洗面台は清潔そうだ。トイレと、浴室への扉が左右についている。
とりあえず排泄の問題は解決したので、今度は真ん中のドアに手をかけた。
洒落た黒のドアレバーは――動かない。
今ここは完全な密室である。ミステリーの冒頭みたいなことを考えて現実逃避してみたが、これはなかなかまずい状況ではなかろうか。単純に考えて拉致監禁である。
そのわりに縛られたり繋がれたりはしていないのだが、それはわたしが眠っていたから油断していたのかもしれない。
なにかヒントというか、現状の手がかりになるようなものはないか、と室内を軽く歩き回ってみると、ローテーブルの上にメモを見つけた。
飾り気のない、しかしよく手入れされた木目の美しいテーブルだ。カフェにありそうなデザイン。しかし目覚めた見覚えのない部屋で見つけるメモとは、ちょっとクトゥルフっぽくないか。
なんて気楽なことを思ってしまうのは現行危険をさほど感じていないからだろう。明るく清潔な部屋、監禁されていても拘束はされておらず、しかも無人。なんだか現実味が薄い。まさか本当にTRPGのように夢の世界へご招待というわけではないだろう。
メモを見る。
よくある無地のメモ帳を破っただけなのだろうそれには、黒のボールペンで簡潔に文が綴られていた。
”六時には帰る。昼食は冷蔵庫の中”
物騒さは毛ほどもない。まるで同居人に向けた伝言のような、なんてことのない内容である。……それが逆に、怖ろしくはあるけれど。血のスープを飲め、とかじゃない分マシなのだろうか。でもあっちは飲んだら帰れたしな……。
壁掛け式のテレビの近くにはシルバーのウォールクロックがあった。デザイン性が高すぎるせいでおおまかな時間しか判別できないが、今はだいたい四時半。陽の傾き具合からして朝ではないし、メモの”六時には帰る”という記載からしても午後だろう。昼どきはとっくに過ぎている。
冷蔵庫にあるらしい昼食は食べておくべきだろうか。時間が時間だが……相手によっては、食べていなかった場合怒りだす可能性もある。食べるか。しかし、そもそも食べても大丈夫なのか。
長方形の部屋の突き当り、ベッドとは反対方向にあるキッチンへ足を踏み入れる。
ひとり暮らしにしては立派な冷蔵庫を開けると、さまざまな食材がたっぷり入っていた。しばらく買い足す必要はなさそうだ。籠城でもするつもりなのか。ここで? わたしと? ちょっと考えたくない。
鏡のごとくぴかぴかな冷蔵庫のドアを開けてすぐ視線の高さに、ラップのかかった皿が置いてある。まさかわたしの身長を考慮して……? あっもう考えるのやめよう。
思考停止しつつ皿を取り出し、曇ってしまったラップを剥がす。パスタだ。ミートソーススパゲティ。
そういえば、食器は、と見回すと、小さな真四角のダイニングテーブルの上にナプキンを敷いた状態でスタンバイしていた。わー準備がいい……。覚悟を決めて料理をレンジで温め、ヴィンテージっぽい椅子に座って食べ始める。
――……美味しい。
こんな状況でなにを、と思わなくもないが、味がとても良い。インテリアといい食事の味といい、喫茶店めいている。
食べきってしまった。
普通に美味しくて、気がついたときには完食していた。もうちょっと警戒すべきだとはわかっているのだけれど……。
空になった皿を洗って水切りへ立てておく。なにやってるんだろう、自分。部屋はもう暗い。壁際のスイッチをいじると、天井から下がったペンダントライトが点灯した。ガラス製のかさが光を反射してきらきら
……いったい誰なんだろう。
いったい誰が、なんの目的で、わたしをここへ連れてきたのだろうか。ぬるすぎる対応にも疑問しかない。ちらりと時計を見ると、時刻は五時過ぎを指していた。”犯人”の帰宅まであと四十分くらい。六時には、ということは六時よりもはやく来る可能性もある。
わたしは悩んだ。悩んで、自分がパジャマを着ていることに今更ながら気がついた。わたしはずっと眠りっぱなしのままここへ連れてこられて、そのままベッドへ寝かされたのか。そして”犯人”は――おそらく仕事へ――出かけた。
正直に言って、わたしはミステリーを読むのは好きだが、謎解きなんかはむしろ苦手だ。読書が好きでも考えるのは――まあつまり、学校の成績はあまり良くなかった。仕事のほうもそこそこ。
そういうわけなので、考えたところで良案が出てくるかというと、あんまり自信がない。妄想力だけは多少ある。活字オタクだもの。
このまま無策で迎え撃ってしまおうか。いやさすがにそれは。
でもなんにも思いつかないし……あっそうこうしているうちにもう五時半過ぎだ。
どうしよう、と本格的に悩み始めた(テンパり始めたともいう)ところで、ガチャッ、となにかを回す音がした。
いや、なにかじゃない。鍵だ。
帰ってきた。
途端、さーっと頭から血の気が引いた。さっきまで呑気に内装を眺めたり食事をとったり、あまつさえ無駄なことを考えていたりしたというのに。
心臓が急激に動きを速める。手足が金縛りのように固まって身動きが取れない。わたしを拘束しなかった”犯人”の判断は間違いではなかったらしい。動けるはずなのに、拘束なんて一切されていないのに、逃げるどころか隠れることすらできない。
ただじっと馬鹿みたいに、鍵の閉まったドアを見つめながら突っ立っている。
ゆったりとした足音が近づいてくる。とんとん、と全くもって自然で、焦りも緊張もない足音が。
ガッチャンとことさらにゆっくり、錠が回って。
頭が真っ白になったわたしの前で、静かにドアが開いていく。
「――おっ、起きたのか」
おはよう、と”犯人”は朗らかに笑った。
わたしは衝撃のあまり間抜けな表情で”犯人”を見つめる。
美しかったのだ。
誘拐犯(推定)と遭遇したという危機的な状況にもかかわらず、真っ先にわたしの頭に浮かんだのは、彼がひどく美しいということだった。涼しげな碧眼と一直線に通った鼻筋、口角の上がった薄い唇。まるで
わたしがぼうっとしている間に部屋の鍵はかけ直されてしまった。
彼はのんびりしたしぐさでハンガーラックにスーツのジャケットを引っ掛け、クロゼットに鞄をしまって代わりに着替えを取り出した。スリッパの音を鳴らしながら引き戸のほうへ歩いていく。
「ちょっとシャワー浴びてくるな」
気軽な調子で言い残し、引き戸をカタンと閉じた。え、わたし、放置?
”犯人”がなにを考えているのか、全くわからない。彼は多少の労力をかけて、わたしをここまで攫ってきたはずである。だというのに、接し方があっさりしすぎているというかなんというか。
とにかく、事態は多少なりとも(わたしはなにもしていないが)進展した。ちょっと情報を集めてみよう。
ベッド脇のハンガーラックに歩み寄り、さっき掛けられたばかりのジャケットを調べる。メンズファッションには詳しくないが、作りも生地も質がいいように思う。それからサイズが大きい。私が着たら、親の服で遊ぶ子どもみたいになってしまうのではないだろうか。
両腰、胸、内側とすべてのポケットに手を突っ込んでみたがなにも入っていなかった。残念。
クロゼットも開けてみようとしたが、どういう細工か扉は動かなかった。鍵をかけているようには見えなかったのだけれど……。
そうこうしているうちに、”犯人”が風呂からあがってきてしまう。
彼は洗面室から出てくると、クロゼットの前に突っ立っていたわたしに「どうした?」と首を傾げた。あわててなんでもないと首を振る。物色していましたとか、馬鹿正直に言えるわけがない。
タオルを頭にのせたままキッチンに入った彼は、水切りに並んだ食器を見て不思議そうな顔をした。
「あれ。……なあ、ユウ」
「えっ、あ、はいっ」
いきなり名前を呼ばれて
「これ、いつ洗ったんだ?」
長い指がまだ乾ききっていない皿を指した。
「あっ、あの。四時過ぎに起きて、それから食べて洗ったので」
なるほど、と彼が頷く。
「思ったより遅くまで寝てたんだな――ああいや、悪いわけじゃない。でもそれなら、夕飯は軽くしておくか」
苦笑してそう言った彼に頷き返しながら、なんでこんなに穏やかなんだろう、と考えた。動揺している私のほうがおかしいみたいじゃないか。もしかして、間違っているのはわたしの記憶のほうで、彼のこの態度こそが正しいのではないかと、わたしは昔からずっと彼と暮らしていたのではないかと、そう信じてしまいそうになるくらいだ。
「ユウ、立ってないで、ソファに座れよ」
キッチンから出てきた彼が両手にマグカップを持って促す。ソファ、はこの部屋にひとつしかない。ベッドとダイニングの間、テレビの向かい側に置かれたブラックレザーの三人掛けソファ。
おずおずと腰を下ろすと、彼も当たり前のように隣に座った。手渡されたマグには温かいカフェオレ。
葛藤したが、結局口をつける。甘くて美味しい。わたしはブラックコーヒーには砂糖は入れないけれど、カフェオレなら甘いほうが好きだ。もしかして、知っているのだろうか。
「……あの」
”犯人”は初めて会ったときから、至極落ち着いた態度だ。少しくらいなら質問をしても大丈夫かもしれない。
そう思って声をかけると、マグを傾けながら髪を拭いていた彼はすぐにこちらを向いて微笑んだ。
「ん? どうした?」
「えっと、あ、あなたの名前、聞いてなかったような……」
声をかけてからなにを聞くか考えていなかったことに気づき、語尾がすぼまるようにどんどん小さくなっていく。我ながらなにをやっているんだという気分だ。
しかしなんとか質問を捻り出して視線だけで覗き込むように彼の顔を窺う。
「名前……な。そういえば言ってなかったか」
きりっとした眉を少し上げて彼はそう言った。
「クリス、でいいぞ。呼びやすいだろ?」
「えと。クリス、さん?」
でいい、なんていかにも偽名っぽい。でも追及するの少し怖ろしいし、とりあえずは自称通りに呼ぶことにした。”さん”は要らないなんて言われて、曖昧に笑って誤魔化す。いきなり呼び捨てはハードルが高い。される分にはあんまり気にならないけど。
カフェオレを飲みつつ、今度は気づかれないよう横目で彼――クリスさんを観察する。
スーツを着ていたときはわかりづらかったが、かなり体格がいい。薄手のTシャツの上から筋肉質な体つきが見て取れた。すぐさま実力行使を選択肢から外す。
顔つきは、じっくり眺めても第一印象と変わらず美しい。よく見たらそうでも……なんてことはよくあるが、彼に関しては当てはまらなそうだ。いまだ湿ったままの金髪がライトに照らされて艶めく。同じ色の睫毛はねたましいくらい長く濃く、たれた目の周りを縁取っている。
「なあ、ユウ」
「はっはい!」
クリスさんがちょっと上体をこちらに傾けてわたしの顔を覗いた。体温と石鹼の香りを感じて思わずたじろぐ。
「夕食、コンソメスープを作ろうと思うんだが、いいか?」
わたしは一も二もなく頷いた。いいので、もうちょっと離れてほしい。いかに誘拐犯といえど、人間離れした美人に顔を寄せられると心臓に悪いから。
夕食もまた美味しかった。
コンソメスープはよくお店で出てくるような胡椒のきいた味ではなくて、野菜の甘みを活かした優しい味つけだった。これもわたしの好みだ。思い返すと、ミートソースもわたし好みの味とゆで加減だった気がする。
クリスさんはやっぱり、わたしをターゲットにして攫ったのだろう。
賃貸とは思えないほど広い浴室の湯船に浸かりながらぼんやりと考えをまとめる。白濁した湯からは花の香りがした。
わたしのことをどうやって調べたのか。その方法も気になるところだけれど、なぜわたしを選んだのかもわからない。こう言ってはなんだがわたしは異性に好かれるタイプではないし、なんなら恋愛経験は皆無に等しい。そんなわたしを、なぜクリスさんが選んだのか。あれだけ美人で、性格も穏やかとなれば相手には困らないだろうに。
シャンプーもボディーソープも自分では買わないような質の良いものが揃えてある。憧れてはいたけれど買うには躊躇するようなラインのブランド。
心なしか入浴前よりも手触りがよくなったような気がする肌に感心しながら風呂をあがる。
着替えの服はさっき洗濯機に入れたのとは別のパジャマだった。光沢のあるサテン地で色はピンクアーモンド。ボタンを留めて、こちらも与えられたモコモコの靴下をはく。……冷え性なことも知っているのか。
洗面室を出ると、ダイニングテーブルのところでクリスさんが待ち構えていた。
「ユウ、ここに座って。髪乾かしてやるから」
「えっ。いえあの、自分で」
とっさに断ろうとするも、有無を言わさぬ態度に流されて結局促されるがまま椅子に座ってしまう。
彼が片手に持ったドライヤーのスイッチを入れると、
他人に髪を乾かしてもらうなんて、美容室以外では何年ぶりだろう。小学生以来ではなかろうか。
意外と心地よく感じてしまって困る。危機感がなさすぎではないか、わたし。
髪に触れる手つきは優しい。
クリスさんの腕がいいのか、あるいはドライヤーが優秀なのか、あっという間に乾いた髪を今度は
「こうしておくと、寝癖がつきにくいからな」
仕上げと言うようなしぐさで頭頂部を撫でられる。振り返って見上げた先で彼が青い目を細めた。凍った湖のような、澄んだアイスブルーの瞳だ。
「さあ、今日はもう寝ようか」
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