第4話 宮崎駿な乙女のエロス
私が小説を、作品を一本仕上げてみたいと思い至ったのは、宮崎駿氏の漫画『風の谷のナウシカ』が直接的な切っ掛けなんです。
『もしもこんな作品を世に生み出すことができたならば。他のことなど何もいらない。人間としての至福。・・・一作だけでいい。一作だけでいいから、書いてみたい』と。
・・何たる浅はか。創作というものを全く理解していない、素人丸出しの想いだったわけですが。
それはさて置き。宮崎駿監督の映画作品も好きです。どの作品が好きかと問われると、これまた困る。どの作品もそれぞれに魅力的ですから。
ただ。宮崎監督の映画作品って、なんというのでしょうかね、その、ちょっと『こそばゆい』ような感じがするんですよ。
この『こそばゆい』感じの正体を見極めることもなくぼおっと生きてきたわけですが、先日『三鷹の森ジブリ美術館』を訪れたことで、この『こそばゆさ』の正体を捕まえたような気がしたんです。
・・ジブリ美術館の展示室に『映画のはじまるところ』という部屋と、『世界をつくるところ』という部屋が隣同士にありまして。
『映画のはじまるところ』は元々『はじまりの部屋』という名称で、『世界をつくるところ』は元々『舞台の生まれるところ』という名称だったそうです。
『映画のはじまるところ』は少年の部屋なんです。天井からはプテラノドンや模型飛行機がぶら下がり、机や棚の上には車の模型だの骨董品だの達磨だのが所狭しと立ち並び、本棚の中は雑多にオモシロそうな本が突っ込んである。後ろの壁には工具が吊るされ、楽器なんかも置かれている。一目見てわかる、わくわくするような男の子の部屋なんです。
(最初は女の子の部屋の設定だったのが、途中で男の子の部屋に変更されたそうです。)
そして、その隣の『世界をつくるところ』は女の子の部屋。趣味のいいアンティークが並び、整理された本棚と作業机があります。奥には、愛用らしい自転車が大切に置かれていて、所々に可愛らしい小物が配置され。
明るくて活発、センスが良くて愛らしい少女。そんな部屋の主の姿が浮かんできます。
この二つの部屋がものすごく気に入ってしまって、私は何度も行ったり来たりしていたんです。そしたら、係員さんが声を掛けて下さって。色々と説明してくれました。だから私は質問をさせて頂きました。
「少年の部屋、わくわくしちゃいます。良く解ります。・・一方の女の子の部屋なんですが。綺麗にすっきり整理され、なんというか『理想的な女の子』の部屋、という感じがしました。・・その、失礼ながら、女性から見ると如何なものなのでしょうか?あのいや、こんなご時世に男とか女とかいうのも、なんなのですが・・」
係員さんは眼鏡がよく似合う、優しそうな感じの女性でした。彼女はにこりと微笑むと答えてくれたんです。
「ええ。あくまでも個人的な感想ではありますけど。私からしても理想的なお部屋です。憧れのお部屋ですよ。・・これ、すべて監督のイメージなんです。監督の中には完璧な女の子がいらっしゃるんですよ、たぶん。・・好きな色はピンクだと言ってましたから」
「・・乙女、ですね」
「はい!本当に!」
係員さんはとても嬉しそうに微笑んでいらっしゃいました。
氷解したんです。・・そうだったのか。
宮崎駿監督のことを『ロリコン』と評することがあったりするようですが、おそらくそれは違うのでは? と私は思いました。
確かに宮崎監督は乙女が大好きなんです。でもそれは欲望の対象としてではなく、『自身に宿る乙女の発露』という欲求なのだ、と思い至ったのです。
物語に登場する少年たち、あれはもちろん監督の分身です。と同時に、ヒロインたちも監督の分身であろうと。ナウシカやシータ、千尋やソフィー。苦難に揉まれながらも健気に立ち向かうヒロインたちの言動は、宮崎駿監督が思い描く『自分が乙女であればこうするはずだ』という姿だったのです。
私はヒロインを『対象』としてのみ捉えていた。そのような発想しかなかった。
しかし、宮崎監督は違った。
・・宮崎ワールドを再度、視点を変えて見渡してみました。主人公である少年と、ヒロインである少女。その関係性。
少年は少女を救い、巨悪に立ち向かい、そして世界を救う・・のではなかった。
『少女は』、なんです。宮崎ワールドは。
『風立ちぬ』は例外のように見えますが、その他は皆、『少女』こそが『物語の世界をつくっていた』のです。
・『風の谷のナウシカ』
・『となりのトトロ』
・『魔女の宅急便』
・『千と千尋の神隠し』
これらは主人公が少女ですから当然です。
・『未来少年コナン』
・『ルパン三世カリオストロの城』
・『天空の城ラピュタ』
・『もののけ姫』
・『ハウルの動く城』
・『崖の上のポニョ』
これらの作品も、ヒロインである少女が世界(舞台)をつくり、その世界に少年を『引き込んで』いたのです。
(『紅の豚』は、ちょっと変則的で。ヒロインであるジーナとフィオがつくり出す世界から、こっそり抜け出そうとする男の物語、という感じでしょうか?)
『少女は』少年を見出し、巨悪に立ち向かう力を少年に与え、そして世界を救う。
宮崎ワールドとはそのようなものだ、と思い至ったわけです。
だから、物語の世界は『少女がつくる』世界なんです。乙女の世界。・・そこは、故に『乙女チック』なんですよ。
つまり。
宮崎映画の『こそばゆさ』は、この『乙女チックな世界観』こそが原因だったというわけです。
◇
『乙女チックな世界観』とは、一体どのようなものなのか?
これに関して誤謬を恐れず端的に言ってしまうと、『嘘で固めた美しき世界』ということになろうと思います。
『嘘で固めた美しき世界』?ああ、ごめんなさい!決して『乙女チック』を貶めるつもりは毛頭ないのです!弁解させてください!
ここでいう『嘘』とはですね、つまり『見て見ぬふり』『知らなかったことにする』といった意味合いです。・・『カマトト』という言葉がありますね?あれなんです、ここでいう『嘘』とは。
『カマトト』とは『蒲魚』と書きます。魚をトトと呼んだのですが、『えっ、
この『カマトト』、批判的な言葉に思われがちですが、違うんですよ、そうじゃないんです。
『乙女チックな世界観』においては『カマトト』こそが重要であり、むしろ『カマトト』を信奉することが求められるとすらいえるのです。
男性からするとですよ?はやり、初心な女性は可愛いものです。でも、本当に何も知らない子供では困るんですよ。ある程度は分かっているうえで、『そんなの知りませんっ』と顔を赤らめ視線を逸らす感じが好ましい。品の好い『カマトト』は美しいものであり、惹き込まれます。
でも。本来の『カマトト』、すなわち『乙女チックな世界観』でいうところの『カマトト』とは、そんなレベルのものではないのです。もっと、凄いんです。
・・『少女』は少年を見出し、巨悪に立ち向かう力を少年に与え、そして世界を救う。この構造は、実は生体に根差した観念だと思うのです。
精子は卵子と出逢うために、それはそれは苛酷な旅を歩みます。膣内は基本的に弱酸性に保たれており、精子にとっては厳しい環境です。しかも、精子は異物とみなされ白血球からの激しい攻撃に曝されるのです。生き残れる精子は一割程度だとか。殆どが、惨殺されてしまうのです。
そして、卵子に出逢える精子は通常ひとりだけ。スタートラインに並ぶ数億の精子は皆ライバルですが、しかし苛酷な道のりを前にして、彼らは協力して進んでいくのです。結集し固まることで推進力を上げます。白血球からの攻撃に対しても、外側の精子らが犠牲となり内側の精子たちを先へと進ませます。「俺たちが盾になる、お前は先へ進めっ!」といった、少年漫画さながらのシーンが実際に繰り広げられているのですね。
そんな精子たちの絶望的な闘いを眺めながら、卵子は女王様さながらにゆったりと精子の到着を待つのです。もっとも、卵子にも寿命があります。その寿命は精子よりも短く24時間ほどしかありません。本心では、一刻も早く精子たちに到達して欲しいことでしょう。白血球たちに攻撃をやめるよう伝えたいことでしょう。しかし、それはできません。卵子は、苛酷な環境を乗り越え達する精子こそを、必要とするからです。子孫を残していくために、どうしてもこの苛酷なシステムが必要であることを、卵子は知ってます。だから、自らが造り出した苛酷な舞台のうえで、精子たちが死に絶えていくのを眺めながら、自らの寿命が儚く短いことを承知の上で、卵子はじっと待つのです。
・・卵子にできることといえば。それは、精子たちに優しく微笑みかけることのみ。苛酷なシステムも自らの寿命も『知らないそぶり』をしつつ、安らかな笑みを精子たちに向けるしかないのです。
そして精子たちは。苦悩のうちに『知らないそぶり』をしているであろう卵子のことを慮り、女神のごとく仰ぎながら、大量虐殺が繰り広げられる道をひたすらに進むのです。卵子の微笑みだけを、胸に抱きつつ・・
そうなのです。射精から着床へと至る道のりは、まさしく女性の造り出した舞台です。その舞台に立った男性は、迫りくる暴力と闘いながら、失われそうな世界を何とかして救おうと藻掻くのです。男性を突き動かすのは女性の魅力のみ。残酷なまでの世界を司る女性が、血涙を忍ばせ『カマトト』ぶって微笑んでくれることだけが、男の救いなのです。男性は女性の二面性をどこかで知っている。しかし、その『カマトト』を信奉し、乙女の姿だけを脳裏に焼き付けて。険しい道を乗り越えていこうと滾るのです。
これが、『乙女チックな世界観』の真相だと思うのです。
◇
さて、前置きが大変長くなりました。
宮崎駿監督が描く世界は、見てきたとおり『少女が少年を見出し、巨悪に立ち向かう力を少年に与え、そして世界を救う』というものです。少年は少女に惹き込まれ、少女が造り上げた舞台を進んでいく。
だから。当然ながらそこには『エロス』が介在するのです。
少年は少女が醸し出す『エロス』に惹かれるが故に、苛酷な舞台へと飛び込んでいくのです。
しかし、宮崎駿監督はこの『エロス』を
直截的に描くことはありません。『乙女な世界』ですから、当然といえば当然です。そのせいか、実に健全な?作品に見えてしまう。
でも。『少女に惹き込まれる少年』が登場するという構造上、『少女のエロス』が描かれないはずがないのです。つまり、エロが描かれないのではなく、『エロだと分かるようには描かれない』ということです。巧妙に、隠されている。
例えば『天空の城ラピュタ』。少年パズーが少女シータと最初に出逢うシーン。
横たわる姿勢で空からすーっと降りてくるシータを、両手で抱くように受け止めるパズー。シータは羽毛のように軽やかにバウンドします。まさに天使のように。自分の腕の上で横たわるシータを呆然と見つめるパズー。するとペンダントの明かりが消えていき、急に重みを増すシータ。慌てて両腕に力を込めて、ふんぬっと持ち上げるパズー。聖なる少女が肉体を現し、少年に『体重』を受け止められる瞬間です。パズーはシータの重みと、その柔らかさ、その香りとを同時に味わったことでしょう。幻想的な聖なる姿で少年を惹き付け、かつ、そのリアルな肉体の感触で更に少年を惹き付ける。
これは、決して穿った見方をしているわけではありません。その証拠に、宮崎監督はご丁寧にも同じ手法を繰り返します。パズーがシータを受け止めた日の翌朝。トランペットを吹き終えたパズーは、鳩たちを鳥籠から放ちます。そこに姿を見せるシータ。パズーはシータの掌に鳩の餌をのせてあげます。シータを囲むように集まってくる鳩たち。声を上げて笑うシータ。まるで、天使の羽を得たかのような美しさが表現されます。そのあと、パズーは飛行石を借り受け飛び降りますが、飛行石は力を発せずパズーは落下する。パズーを助けようとするシータ。しかし、足場が崩れ、シータはパズーの上に落ちてしまう。シータの重みで潰されるパズー。ここでも、少女の神聖と肉体的実感とを、連続して少年に堪能させているのです。
パズーは、シータの神々しいまでの美しさと、まろみのあるリアルな肉感をまざまざと見せつけられ魅了されます。
少女が自分の持つ力を最大限発揮して少年を惹き付けていく、実にエロチックなシーンなのです。
(これ、『未来少年コナン』からの改善点では?と思ってます。ヒロインのラナは『鳥と話せる神聖』を有しながら、コナンからすると『鳥のように軽い』ままでした。つまり、神聖ばかりが前に出て、少女のリアルな肉感的表現が薄かった。宮崎監督は『天空の城ラピュタ』でこれを覆し、女性の神聖に加え積極的に『女性の肉感的魅力』を表現したように思うのです。)
他の作品も見てみましょうか。『紅の豚』のなかで、ポルコのアジトに侵入した空賊らに対し、フィオが毅然と捲し立てるシーンがあります。フィオは空賊たちを叱りつけ、その自尊心を持ち上げ、空賊たちの破壊行為を阻止するのです。そして、ポルコとカーチスの一騎討ちの舞台を作り上げてしまう。空賊らが引き揚げた後、ポルコはフィオに小言をいおうとしますが、フィオは「私、泳ぐっ」と一声叫ぶとシャツを脱ぎ捨てます。
・・ここ、『女性が舞台をつくり、そこへ男性を導く』という世界観が、見事に表現されているのです。ポルコから見たフィオは、小娘でしかありませんでした。そのフィオが『女』として男の為に舞台を作り上げ、その上で『女』であることをポルコに魅せつけていく、実にエロチックなシーンです。
フィオが上着を脱ぐ際、胸の膨らみが強調されているのは必然なのです。また、ポルコが顔を赤らめるのも、ここで初めてフィオの『女性』を意識した、ということを表しています。無頼を気取るポルコも、娘のようなフィオにすら敵わない、いわんやジーナをや。
・・所詮、男は女性に魅せられ絡め取られる存在、という監督の諦観?が、見え隠れしているようにも思えますね。
このように、宮崎駿監督作品においては、とても重要なシーンのなかで様々なエロスが語られております。他にも数多くあるはずですので、是非探してみてください!
以上、宮崎駿監督に内在する『乙女』、物語の基本的構造、すなわち『少女が舞台をつくり、少年をそこに導く』というスタイル、故に語られているはずの『少女のエロス』を見てきました。・・これがいわば『宮崎駿な乙女のエロス』です。
『乙女チック』な世界であるがゆえに、エロは直接的には表現されない。隠される。
・・しかし、隠される理由は、どうもそれだけではないような気がしてきたんです。
生物学にも造詣が深い宮崎監督は、漫画版『風の谷のナウシカ』のなかで、『個々の生命は無駄な死を積み重ねてゆく存在』であると示します。しかし同時に、『生きる意味は我々個々が決めること。この世界の美しさを一瞬でも感じ得るならば、我々には生きる意味がある』といったことを示唆してくれています。
つまり。監督の最も重要なメッセージは、『それでもこの世界は、生きるに足りる』ということだと思うのです。
愚行を繰り返し続ける人間、あまりにも殺伐とした生命のシステム。
・・しかし、それでも世界は美しい。
その美しさを愛でるだけだとしても、その瞬間を生きる意味は、ある。
そして。『エロス』は、まさに生命の躍動であり美の象徴です。
だからこそ、エロスを丁重に扱い奥底へと隠した。軽々しく見せびらかしたりせずに、その存在を知らないかのように振る舞った。
『乙女チック』なチラリズムこそが、エロスの美を最大化させるからです。
宮崎監督は、青少年に不適切であるからエロスを隠したというよりも、むしろ『生きるに足りるこの世界の美しさ』の最重要な要素であるが故に、その美を最大化させる為に、敢えて隠したのだと思えてきたのです。
『乙女チック』な表現はちっぽけな存在である我々に、どきどきした世界を造り上げる勇気、どきどきした世界を覗き込む好奇心、どきどきした世界で生きていく希望を、育んでくれるものであったのです。
『生きるに足りる世界』は、我々自身がつくり出し見出だすことができるのだと、宮崎監督は教えてくれているのです。
学んでしまいました。下品だから浅はかだから、エロを隠すのではない。
むしろ、生きるにあたり最重要だからこそ隠すのだ。
乙女チックなチラリズムは、ときにエロスの力を最大化させ得るのだ。
・・実に、本質的なテーマを突き付けられたような気分です。
エロに対する規制。これをどのように扱うべきかと思い悩みながらこのコラムを続けてきたわけですが、規制など遥かに飛び越える思想を、与えられたように思えます。
尊ぶがゆえに、隠せ。
我が根幹を、揺るがすようなインパクト。流石は宮崎駿監督っ!参りました!
うーむ。しかし、どうしよう。
このままでは『エロは隠してちらりと見せろ!』になってしまいそうです。いや、それはもちろん正解なのですが、私の腕では単に『控えめエロ表現』に矮小化しかねません。
・・いや、結論を出すのはまだ早い。
もう少し、先人の教えに学ぼうではありませんか。
次回は再び『文豪のエロス』に立ち戻ってみたいと思います。
よし。エロくて美しい表現といえば。
やはり『泉鏡花』でしょう!
私の大好きな『泉鏡花』のエロスに迫りたいと思います!すっごくえっちですからご注意をっ!宮崎駿先生っ!露なえっち表現に立ち戻っちゃいますが、ご勘弁くださいっ!
(つづく)
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