第3話 芥川の狂気? いや、耽美?

 芥川龍之介は漱石先生のお弟子さん。


 漱石先生に『鼻』を見出だされ、芥川龍之介は文壇にデビューしました。漱石先生が芥川に『鼻』を絶賛する手紙を送ったのは、大正5(1916)年2月19日。漱石先生が逝去されたのは同年12月9日。最晩年の弟子です。


 さて、今回ご紹介するのはそんな芥川龍之介の『好色』。大正10年9月の作品です。

 この作品、『愛とはなんだ?』という命題を突き詰めたような作品なんです。

 短編の名手芥川らしく、実に佳く纏まった作品ですので、是非ともお手にとって頂ければと思います。ここでは例によって少しだけご紹介させて頂きます。



 ときは平安時代。主人公は、平好風たいらのよしかぜの次男、平貞文たいらのさだふみ。次男ゆえに平中へいちゅうと渾名されたそうです。

 さて、この平中、かの有名な在原業平と並び称されるほどの色男。私、芸能界はとんと疎いため判りませんが、当世第一の美男子を平中に当て嵌めて頂きますと、おそらくよい塩梅になりましょうか。ハッとする程美しい男が主人公。そう読んでみて下さい。


 平中は、見目麗しき上に色好み。そうなんです。もう、とっかえひっかえなんです。


 ・・どんな女も恋文を三度出せば靡いてしまう。堅い女でも、五度と文を出したこともない。おれの文には必ず女の返事が来る。返事が来れば逢うことになる。逢うことになれば大騒ぎをされる。大騒ぎをされれば・・じきにそれが鼻につくようになる。まあ、そんな風に相場が決まっている・・


 こんなことを嘯く男です。いやはや。

 ところが。

 そんな平中に靡かない女性がいたのです。

 

 ―― 何度見てもあの女は、何だかこう水際立った、震いつきたいような風をしている。あれは確かにどの女も、真似のできない芸当だろう・・――


 靡かない女『侍従』を想いながら、平中はうっとりと空を見上げるのです。

 平中は、初めて侍従を見かけた時を思い出します。


―― あの女が車へ乗らうとする、おれが其処へ通りかかる、・・と云ふのが抑々そもそもの起りだった。顔は扇をかざした陰にちらりと見えただけだったが、紅梅や萌黄もえぎを重ねた上へ、紫のうちぎをひっかけている、・・その容子ようすが何とも云へなかった。おまけに車へはいる所だから、片手に袴をつかんだまま、心もち腰をかがめ加減にした、・・その又恰好もたまらなかったっけ。――


 侍従は文を返しません。

 でも。一度話さえすれば必ずや手に入れてみせるさと、自信有り気な平中。


 するとそこに、平中に仕えるわらべが文を持って来ました。

「手紙か!?」

「はい、侍従様から・・」

 平中は「『手紙を見た』というだけのものでも構いません。是非ともお返事願いたい」といった文を侍従に送っておりました。

 ・・侍従からの手紙を開くと。平中の書いた手紙から『見た』という文字だけ切り抜かれた紙切れが、薄葉に貼り付けられていたのでした・・

 茫然とする平中。しかし今にみてろよと、侍従への想いを更に強くするのです。


 さて、それから二か月ほど経った後。平中は侍従の局に忍びに行きます。外は凄まじいばかりの大雨。

 ・・こんな晩に訪れれば、侍従といえども憐れに思ってくれるだろう・・平中はそんなことを考えながら案内を請います。

 すると、十五、六歳ほどの女性の童が姿を見せました。平中は取次を頼みます。一度奥へと消えた童は、戻ると小声で言いました。

「どうかこちらでお待ちください。皆が休んで寝静まったら、お逢いになるということですから・・」

 平中は思わずにやりと微笑みます。してやったり、やっぱりおれは知恵者だな。自画自賛する平中。・・しかし、そんな平中もだんだんと不安になってきました。

 ・・急に今になって逢うだなんて、本当かしらん?いやまあ、なんといってもこのおれだからな。・・だが、しかし。本当かな?

 あれやこれやと悩んだり僻んだり忙しい、平中。

 ところが。そんな平中の耳に思いがけない音が聞こえます。

 かちゃり。

 遣戸やりどの向こうに掛け金を外したその音が、はっきりと耳に響いたのです!

 

 平中が戸を引くと、戸はするりとしきいの上を滑ります。

 開いた先には空焚の匂いが立ち込めた、一面の闇が拡がります。


――― 平中は静かに戸をしめると、そろそろ膝で這ひながら、手探りに奥へ進み寄った。が、このなまめいた闇の中には、天井の雨の音の外に、何一つ物のけはひもしない。たまたま手がさわったと思へば、衣桁いかうや鏡台ばかりである。平中はだんだん胸の動悸が、高まるやうな気がし出した。

「ゐないのかな? ゐれば何とか云ひさうなものだ。」

 かう彼が思った時、平中の手は偶然にも柔かな女の手にさわった。それからずっと探りまわすと、絹らしい打衣うちぎぬの袖にさわる。そのきぬの下の乳房にさわる。円々した頬やあごにさわる。氷よりも冷たい髪にさわる。

 ・・平中はとうとうくら闇の中に、ぢっと独り横になった、恋しい侍従を探り当てた。

 これは夢でも幻でもない。侍従は平中の鼻の先に、打衣一つかけた儘、しどけない姿を横たへてゐる。彼は其処にゐすくんだなり、我知らずわなわな震へ出した。が、侍従は不相変、身動きをする気色さへ見えない。こんな事は確か何かの草紙に、書いてあったやうな心もちがする。それともあれは何年か以前、大殿油おほとのあぶら火影ほかげに見た何かの画巻にあったのかも知れない。

かたじけない。忝ない。今まではつれないと思つてゐたが、もう向後かうごは御仏よりも、お前に身命を捧げるつもりだ。」

 平中は侍従を引き寄せながら、かうその耳にささやかうとした。が、いくら気はいても、舌は上顋うはあごに引ついた儘、声らしいものは口へ出ない。その内に侍従の髪の匂や、妙に暖い肌の匂は、無遠慮に彼を包んで来る。・・と思ふと彼の顔へは、かすかな侍従の息がかかった。―――


 ああ!ついについに!

 平中は侍従を我がものに!!


 ところがその際どい刹那、侍従は半ば身体を起こすと、平中の顔にその顔を寄せつつ、恥ずかしそうに言いました。

「おまちください・・まだあちらの障子には懸け金がしてございませんから、あれを掛けて参ります・・」

 なんていじらしい!

 平中は頷きます。侍従は褥の上に、匂いの好い温みを残しながら、そっと立って障子の方へ行きました。

 平中は悶々としながら侍従を待ちます。

 すると、かちゃりと掛け金を下す音が。

 もう、居てもたってもいられません!


 ・・しかし、待てど暮らせど侍従は戻らない。衣ずれの音もしない。・・はて?

 ま、まさか!

 なんと侍従は部屋の外に出て、外から掛け金を掛けてしまったのです・・


 平中は独り寂しそうに、侍従の局に近い人気ない廊下に佇みながら、ぼんやりと物思いに耽ります。

 ・・侍従はおれを相手にしない。おれももう、侍従を思い切った。

 ・・しかし。いくら思い切っても侍従の姿が幻のように浮かび上がってくる。

 どれだけ神仏に祈ろうとも。神社の御鏡の中に、観音菩薩のそのお姿に、侍従はありありと現れてくる。

 ・・このまま侍従を忘れることが出来なければ。おれはきっと、焦がれながらに死んでしまうに違いない・・

 平中は悄然としながら思うのでした。


―――「だがその姿を忘れるには、・・たった一つしか手段はない。それは何でもあの女の浅間しい所を見つける事だ。侍従もまさか天人ではなし、不浄もいろいろ蔵してゐるだらう。其処を一つ見つけさへすれば、丁度女房に化けた狐が、尾のある事を知られたやうに、侍従の幻も崩れてしまふ。おれの命はその刹那に、やつとおれのものになるのだ。が、何処が浅間しいか、何処が不浄を蔵してゐるか、それは誰も教へてくれない。ああ、大慈大悲の観世音菩薩、どうか其処を御示し下さい、侍従は河原の女乞食と、実は少しも変らない証拠を。……」―――


 ふと視線を上げると。あの歳十五、六の女童が、歩いて来るのが見えました。女童は隠すようにはこを持ちながら、しずしずとこちらへ向かってきます。

 平中の心の中に大胆な決心が稲妻のように閃き渡りました。

 平中は女童の前に立ちふさがると、その筐をひったくって人のいない部屋に駆け込みました。不意を打たれた女童は泣き声を上げながら平中の後を追いかけます。しかし平中、遣戸を立て切り手早く懸け金を下ろします。

 ひとり、はこと向き合う平中。


―――平中はわなわな震へる手に、ふわりと筐の上へかけた、香染かうぞめの薄物を掲げて見た。筐は意外にも精巧を極めた、まだ真新しい蒔絵まきゑである。

「この中に侍従のまりがある。同時におれの命もある。……」

 平中は其処に佇んだ儘、ぢっと美しい筐を眺めた。局の外には忍び忍びに、女の童の泣き声が続いてゐる。が、それは何時の間にか、重苦しい沈黙に呑まれてしまふ。と思ふと遣戸や障子も、だんだん霧のやうに消え始める。いや、もう今では昼か夜か、それさへ平中には判然しない。唯彼の眼の前には、時鳥ほととぎすいた筐が一つ、はっきり空中に浮き出してゐる。……

「おれの命の助かるのも、侍従と一生の別れをするのも、皆この筐に懸ってゐる。この筐の蓋を取りさへすれば、・・いや、それは考へものだぞ。侍従を忘れてしまふのが好いか、甲斐のない命を長らへるのが好いか、おれにはどちらとも返答出来ない。たとひ焦がれ死をするにもせよ、この筐の蓋だけは取らずに置かうか?……」

 平中はやつれた頬の上に、涙の痕を光らせながら、今更のやうに思ひ惑つた。しかし少時しばらく沈吟ちんぎんした後、急に眼を輝かせると、今度はかう心の中に一生懸命の叫声を挙げた。

「平中! 平中! お前は何と云ふ意気地なしだ? あの雨夜を忘れたのか? 侍従は今もお前の恋を嘲笑つてゐるかも知れないのだぞ。生きろ! 立派に生きて見せろ! 侍従のまりを見さへすれば、かならずお前は勝ち誇れるのだ。……」

 平中はほとんど気違ひのやうに、とうとう筐の蓋を取った。筐には薄い香色の水が、たつぷり半分程はひった中に、これは濃い香色の物が、二つ三つ底へ沈んでゐる。と思ふと夢のやうに、丁子ちやうじの匂が鼻を打った。これが侍従のまりであらうか? いや、吉祥天女にしてもこんなまりはする筈がない。平中は眉をひそめながら、一番上に浮いてゐた、二寸程の物をつまみ上げた。さうして髭にも触れる位、何度も匂を嗅ぎ直して見た。匂は確かにまぎれもない、飛び切りのぢんの匂である。

「これはどうだ! この水もやはり匂ふやうだが、・・」

 平中は筐を傾けながら、そつと水を啜って見た。水も丁子ちやうじを煮返した、上澄みの汁に相違ない。

「するとこいつも香木かな?」

 平中は今つまみ上げた、二寸程の物を噛みしめて見た。すると歯にもとほる位、苦味の交った甘さがある。その上彼の口の中には、たちまち橘の花よりも涼しい、微妙な匂が一ぱいになった。―――


 夢うつつか狂乱か。呻く平中はぽとりと筐を取り落とし、そのまま床の上に倒れてしまいます。

 ・・その半死の瞳の中には。

 紫摩金しまごんの円光に取り囲まれ、嫣然と微笑みかける侍従の姿が・・



 すみません!

 『ちょっと』のご紹介のつもりが、あまりの美文に引き摺られ、殆んど全てを引用する有り様となってしまいましたっ


 ・・凄すぎました?

 ええ、さすがの呪文堂も、これには些か驚きました。(←些かなんだ?)

 もちろん本作を『オゲレツ!変態!アリエナイ!』と扱き下ろし、見なかったことにするのもありでしょう。所詮は書物、そっと閉じればよいだけのこと。

 しかし、私は。・・芥川龍之介という天才が織り成す文章を、深くも読まで捨ててしまうは忍びない。凡ての文は読まれる為にこそ存在し、人は文を読むことで思慮を深め得ると思うからです。

 この『好色』。私は二つのことを学んだ気がするのです。


 『愛』とはなにか。

 そして、『エロス』とは、なにか。


 そもそもこのお話、芥川龍之介の創作ではありません。『底本』があるのです。『今昔物語』『宇治拾遺物語』『十訓抄』。

 そう。昔むかしから語られてきたテーマなんですね。

 愛するとは。

 愛おしきひとの全てを我が物としたい。

 取り込んで一体と成りたい。

 そんな想いが千年前にもあっただろうか?そう思い馳せたくなる物語です。

 そして。

 この物語を読むと、果たしてエロスとは何なのか?と悩みます。

 侍従を忍びに行く平中。念願かなって、横たわる侍従をまさぐる平中。外はやはり嵐、中はやはり暗闇で。実にエロテックなシーンですが、さて、エロスの最高潮は『ここ』なのでしょうか?

 ・・ラストシーンが何とも凄いので。

 しかし、『技法』を学んだ私達はふと想い至ることができます。・・これも謂わば表現技法ではあるまいかと。

『そんなものを口にしちゃうシーンがエロいと?・・あなた、かなりヤバイですわよ?』

 見事に封じているんです。


 でもね、やっぱりエロいんですよ、ここ。行為はさておき、憎いくらいに愛おしい侍従の、浅ましき不浄を暴こうと必死な平中。しかし、既に虜となっている平中には侍従の凡ては清涼とした芳しき世界・・恍惚たる心地のなか、平中はその生から抜け出でて侍従の世界に交じり溶け込んでゆく・・

 これ。エロスですよ。


 哲学的な問いすら生じさせ、同時に読者の価値観すら変えてしまいそうなインパクト。凄いですよね。怖いくらいです。

 芥川龍之介は本作で、生きることにおけるエロスの意味、生のなかでのエロスの位置、そんなことを知らしめてくれたように思いました。

 

 ところで本作、読み返すまでもなく、もちろん【R15対応策】をクリアしてますね。


★☆【R15】に対する具体的な対応策☆★

①『隠喩』『暗喩』で露骨・詳細の回避

②エロパートの『比重割合を下げる』

③物語での『エロの必然性を表現』する

④『物語の展開でエロ具合を緩和』させる

⑤『思想・芸術的表現でエロを緩和』させる

⑥『15歳未満の読解が難しい程度の表現』

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★


 本作のクライマックスは、そもそも正面切って『エロい!』と叫べない代物ですから。漱石先生の『行人』とは比較にならぬほど直截的でありながら、規格を飛び越え、むしろ思想的・芸術的とすら思わせかねない題材。しかしその表現は、実に耽美な言葉でエロスを漂わせる見事な手法・・


 というわけで、この回では小手先の技法以上に、『エロの対象物』、すなわちどのような素材からエロスを発掘し得るのか、そんなことを学べたような気が致します。皆様、いかがでしたでしょうか?


 いやあ。それにしても吃驚ですよね。『イケメン芥川』がやるんだからまた凄い。最終話にこそ相応しいような作品でしたが、早々に出してしまいましたっ!


 ・・ちょっとここら辺で、一息入れましょうかね。

 今後も『文豪たちのエロスを探る』という方向で進めて行くつもりですが、すこし休憩がてら、目先を変えてみようかなあと。

 実は先日、コロナ緊急事態宣言の間隙を縫ってですね、『三鷹の森ジブリ美術館』に行ってきたんですよ。

 そこでね。ハッと気付いたものがあったんです。

 次回はそれをやってみようかなあ、と。


 『宮崎駿の乙女のエロス』!

 乞うご期待ですっ!ぜったいみてねぇ!

(つづく)

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