オセ
いつもならばもう少し日が落ちて薄暗くなってから帰るのだが、今日は夕暮れの中を帰った。オレンジ色に染まっている街の中で、昨日の夢に出てきた本屋を見つけた。菊がよく行く学校から一番近い本屋だ。夢の中のように後ろから声が聞こえるのではないかと警戒していたが、そんなことはなかった。
普段見慣れない夕暮れの景色を見ながら菊は考えごとを始める。それは昨日のことが夢だったのかどうか。先ほど本屋の前を通った時も鮮明に夢の記憶を思い出すことができた。通常の夢ならばそこまで鮮明に覚えていることはないだろう。だが、昨日のことははっきりと覚えている。本屋を出て声をかけられて追われたことも。最後には人を殺し自分の手の中で冷たくなっていたことも。
そこまで、思い返したところで菊は寒気がして体を震わせた。突如、自分が人を殺したかもしれない罪悪感と恐怖に襲われた。人を殺したから警察に捕まり裁かれるといった恐怖ではない。菊の中にある大切な何かが一つ壊れる気がしたのだ。目には見えないが、人として人間という生き物として生きるために大切なものだった。菊はそれが絶対に壊してはいけない事と簡単に壊れる事を知っていた。だから怖かった。
とぼとぼと歩いて気がつくと家の前まで来ていた。
菊は玄関の扉の前に立つと大きく深呼吸をする。これは気持ちのスイッチを切り替えるためのルーティーンのようなものだ。
「ただいま」
学校にいた時よりも少し明るい声で自分の帰りを伝える。それに答えるように家の奥から出迎えの声が聞こえる。
「おかえり」
玄関には見慣れない靴が一足あった。女子高生が履くようなローファーが、かかとを揃えて置いてある。母にもずいぶん若い友達がいるのだなと思いながら、リビングへ行かずに部屋に戻ることに決める。
キッチンからは夕食の準備をしているのだろうか、小気味よい包丁の音が聞こえてくる。友人がきているのにいいのだろうかと菊は少し疑問に思う。
菊はそのまま洗面所へ向かい手を洗っていると、再び母親に声をかけられた。
「菊。あんたの友達がきてるわよ」
「友達?」
「しかも、女の子。 まさか彼女?」
菊の母親はニヤニヤしながら菊を見る。
玄関の靴の正体がわかったのはいいが友達が遊びに来るはずはないと菊は思い、考えを巡らせた。菊には家に遊びにくるほど中のいい友達はいない。彼女などはいるはずもなかった。
考えられるとしたら杉宮さんかな。でも今は・・・。
考えたくもない事を考えてしまい。菊のテンションが少し下がる。
「なんて子?」
「小瀬ちゃんとか言ったかな」
「小瀬?」
「あれ? 苗字じゃなかった?」
名前を聞いても一致する人物は見つからない。菊は不思議に思いながらも部屋に急ぐことにする。
「わかったよ」
「紅茶とケーキ持って行きなさい。 うまくやりなさいよ」
母親はそう言って菊の脇腹をつつくが、誰かもわからない相手に何をどううまくやればいいのか菊にはわからなかった。
学校のバックを背負ったまま紅茶とケーキが乗ったお盆を持って二階の部屋へと向かう。その間も誰なのか考えるが、菊の数少ない知り合いの中に小瀬という苗字もおせという名前の人もいなかった。
「お待たせしました」
相手が誰だかわからないので、敬語で部屋へと入る。
そこには見慣れない女の子がベッドの上でくつろいでいた。学校の制服の下に着ている服のフードが飛び出している。フードには猫耳みたいなものが付いている。見たことがない制服なのでここら辺の学生ではないのかもしれない。まるで自分の部屋かのように寝転がり菊の漫画本を読んでいる。
思わず部屋の入り口でお盆を持ったまま数秒固まってしまったが、自分に用事があって来たのだというのだから話しかけないわけにも行かない。
「あのぉ」
声をかけると言ってもなんて声をかければいいのかわからないので、ひとまずこちらに気づいてもらうことにした。
「お! 来たね。 ちょっと待て今いいところだから」
ベッドから体を起こしてこちらを見るわけでもなくそのまま漫画の続きを読み始めた。菊も自分の部屋だということを忘れてはいと返事をして待った。自分の部屋なのに何故だという疑問はあったがそれを見知らぬ少女に対して言えるほどの度胸は菊にはなかった。漫画を読む少女を待つ間、持っていたお盆をローテーブルに置いて学校の道具の片付けをする。しばらくして漫画を読み終わったのかベッドから起き上がるとその少女は菊の方を向いた。毛先が肩ほどまであるウェーブがかかった茶髪で綺麗な髪だ。あどけなさを残したような顔だが整った顔立ちで、菊とはほとんど接点がなさそうな女子と言った感じだった。
「昨日は見事だったな。 まずまずと言った所だね」
「昨日?」
一瞬何を言われているのかわからなかったが、すぐに気がついた。あれは夢ではない可能性もあるとは思っていたが、ただそれを信じたくはなかったのだ。しかし、少女の言葉でそれは確信へと変わってしまった。何よりも少女の声はとても聞き覚えがあった。昨日自分を助けてくれたあの声に。
「やっぱり昨日のあれは夢じゃなかったんだね」
「現実だよ」
そう言って少女は少し口角を上げて笑った。
「もしかして記憶ない?」
「いや、はっきりと覚えているよ。 ただ・・・・・・」
「人を殺したのは初めてだった?」
幼い見た目通りの可愛らしい声で躊躇いもなく聞いてくるので、菊は目の前の少女に恐怖を覚えると同時に昨日自分が人の命を奪ったのだと改めて実感する。
何も言い返せず菊は黙ってしまう。
「そんなに気にしないで菊。君はただ自分を守っただけ。違う?」
「違うくないけど」
「それにこれからもっと・・・」
「もっと?」
「いやなんでも」
また少女は笑みを浮かべると、ベッドの上に立ち上がった。小さくこほんと咳払いをして話始める。
「あらためまして、私の名前はオセ。 よろしくね、相棒」
オセと名乗る少女は親指を立てて菊に向ける。おそらく菊にも同じように親指を立てて同意を求めたのだろう。
「あ、相棒?」
しかし、菊は間抜けな声で言い返した。
菊がノリノリで親指を立ててくると思っていたらしく、間抜けな返事に大きなため息を吐いた。そのままベッドから降りると菊の持ってきたケーキを食べ始めた。
「君には王になってもらうよ」
ケーキをフォークで突き刺して頬張る。小さな口を目一杯広げてかぶりつく。小さな口にケーキが入るはずもなく上に付いているイチゴなどがボロボロとこぼれ落ちる。
「王?」
頬をケーキでパンパンにさせながら肯いた。大きな一口目を飲み込むと話を続ける。
「そう、この世界の王にね」
生クリームが顔に付いたままドヤ顔を浮かべるが、菊には何を言われているか理解できていない。
「あの意味がわからないのですが」
「いろいろ省いて説明するけど、まずソロモン72柱は知ってる?」
「確か、ソロモン王が使役したとか言われる悪魔で72人いて」
なんの話が始まるのかと思いながら、自分の記憶にある情報を並べていく。
「違うところもあると思うけど、そんな感じ」
紅茶をすすりながら説明を続ける。
「それで、私はその中の一人ね」
「はい?」
菊は目の前にいるオセという少女は痛い子なのだと思った。しかし、昨日の出来事が事実だというのなら悪魔というのも本当なのかもしれない。岸丘が透明になっていたのも悪魔の力と言われると納得できる気もする。
菊が考えを巡らせているのを気にもとめずに話続ける。
「君には私たちのようなペアを全員倒してもらうよ。 私たち以外71人の悪魔。 まあ、他の奴ら同士で争うこともあるから全員ではないんだけどね。 そして最後の一人に残ったペアが王になる。 それが、ソロモン王が死んでから行われてる王戦だよ」
「はぁ」
落ちていたイチゴをフォークで突き刺して食べると、早くもケーキを平らげてしまった。まだ食べ足りないらしく、菊の分のケーキと菊を何度もチラチラ見る。菊はそれを見て自分のケーキをオセに譲った。
菊はオセが何を言っているのか理解できていなかった。
「質問いいですか?」
「はい! 菊くん!」
オセが持っていたフォークで菊の方を指を差し発言を促す。
「なんのために王にならなければいけないんですか?」
菊は今話している全てを信じているわけではないが、気になったことを聞いていくことにした。そうしなければ何もわからないままの気がしたからだ。
「世界の指針を決めるのさ。 悪魔の力を使って王の好きなようにね。 これまでの歴史だって何人かの王が決めてきた結果の上に成り立っているだけだよ」
「全部を?」
「全部さ」
嬉しそうに笑いながら二つ目のケーキにかぶりついた。口の周りは生クリームでベタベタになっている。見た目は幼い少女だが、本当に悪魔なのかと菊は悩む。
「それで、オセさんは何をしに来たの?」
「君とペアになったんだ。 これからは一緒にいるぞ。 王戦が終わるまでな」
「は?」
菊が驚きの声をあげるのと同時に部屋のドアがノックされた。ドアが開いて菊の母親が顔を覗かせる。
「小瀬ちゃん晩ご飯食べてく?」
「はい! お願いします!」
生クリームがベトベトの口で嬉しそうに返事を返した。
「それと、お願いがあるのですが・・・」
「何?」
「しばらくこの家に泊めてもらえませんか」
菊の母親は少し驚いた表情をした後、ニヤニヤしながら菊を見る。
「あらあら。 いいわよいくらでも泊まって行きなさい」
「ありがとうございます」
「もう少ししたら晩ご飯できるから降りてきてね」
部屋から出て階段を降りる菊の母親の足音は、心なしかいつもよりも軽やかに聞こえた。
菊の母親が部屋から出ていくと、オセは菊の方へ振り返り手を腰にあて鼻を鳴らした。ふんすとでも聞こえてきそうな雰囲気だが、顔に付いたクリームのせいで凄みはない。
「まあ、こんなもんですよ。 よろしく菊」
「何が起きてるか理解できないんですが」
菊は初めて開いた口が塞がらないという意味を実感した。
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