ユメ
目が覚めると見慣れた部屋の天井が目の前にあった。朝起きると毎日見る景色に菊は少し安心した。先ほどまでの出来事は夢だったのかと。
毛布をどかして、自分の手や服を見るが血は付いておらず普段通りだった。普段と違うのは汗でパジャマがぐっしょり湿っていた事だ。周りを見渡しても何も変わりはない自分の部屋があるだけ。リアルな夢だったと思い安堵のため息を漏らすと、朝の七時を告げる目覚ましがなった。目覚ましを止めてベッドから出ると部屋のカーテンをあけ、固まった体をほぐしながら階段を降りていく。
キッチンではいつものように菊の母親が朝食の準備をしていた。洗面所で顔を洗い歯を磨き、リビングへと向かう。
「おはよ」
「おはよって、ひどい顔ね。 あんた」
菊の母親は顔を見るなりそう言った。
「やな夢を見たんだよ」
菊はテーブルの決まった席に座る。
今日のメニューはいつもと同じトーストとコーヒーに付け合わせのサラダが少し。何も変わらないメニューだった。
「父さんは?」
「今日は忙しいみたいでもう出て行ったわ」
「そう」
菊の父は警察官をしている。警察官の柔道の大会で入賞したトロフィーや賞状がリビングの壁一面に飾ってある。がっしりとした体型の父からヒョロヒョロの子供が生まれたのはなぜなのか、菊にはわからないが近所の人などによくいじられる。
朝食を手早く済ませ身支度をすると、学校へ行くために家を出た。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
菊の家から学校までは徒歩で二十分ほどの距離だ。学校は自転車での登校も許可されてはいるが、歩くのが好きな菊は毎日徒歩で通っている。登校中普段よりも周りを気にしながら歩いた。夢でのリアルすぎる出来事に出てきた場所と同じ場所がないかを探すためだ。しかし、見慣れた通学路が代わり映えもなく並んでいるだけで夢の景色とは一致しなかった。
学校へ着くと同じく登校してきた生徒たちに混ざり自分の教室へと向かう。下駄箱で上履きに履き替えると、階段を登り二階へ上がった。菊の教室は二階の端にある二年五組の教室だ。
扉を開けるとすでにクラスの半分くらいは登校していた。菊は入り口からは奥になる窓際の後ろから二番目の自分の席へと足早に向かう。途中で窓際から数えて二つ目の列の先頭に座る女子生徒に軽く手を上げて挨拶をした。彼女もそれに答えるように軽く手を上げて挨拶を返す。
彼女の名前は杉宮香奈。いつも自分の席に座り本を読んでいる。教室にいる他の女子生徒と見比べると地味と言われる部類に入るのかもしれない。肩まで伸ばした綺麗な黒髪と同年代女子と比べると少し大きい胸以外は特に特徴もない。菊と香奈との教室での挨拶は手を少しあげる身振りだけで挨拶の言葉を交わしたりはしない。
菊は香奈に挨拶をした後は自分の席へと座り持ってきた本を読む。朝のホームルームが始まるまではまだ数十分の時間がある。それまでは物語の世界へと入り込むのがいつもの学校生活の始まりだった。しかし、今日は違った。教室の後ろの方で話している女子グループの話し声が耳に入ってきたのだ。
「ねぇ、朝のニュース見た?」
「見た見た。 連続殺人犯が殺されてたって話でしょ?」
菊は自分の心臓が大きく脈打ったのが聞こえた。
「左脇腹と心臓を刺されて死んでたって」
「まじ?」
「こっわぁ」
「そいつを殺した犯人はまだ逃げ回ってるんでしょ?」
「そうみたい」
菊は昨日見た夢とあまりに酷似したその状況に冷や汗が背中を伝うのを感じた。ゴクリと唾を飲み込むと、本を読むふりをして女子生徒たちの話に聞き耳を立てた。
「隣町の住宅街のど真ん中で血まみれでしょ? そんなの犯人すぐ見つかりそうだけどね」
「たしかに」
「妖怪とか悪魔とかかもよ」
「あはは、何それ」
会話はすぐに他の話題へと変わって行った。現実の事件で、隣町でのことだというのに危機感はないようだ。実際の目で見ていないからなのか、普段の生活とはかけ離れた世界のような出来事だからなのか。彼女たちの会話からはこれ以上は事件の情報を聞き出せなかった。
菊はすぐに昨日の夢と照らし合わせてみた。夢の中で自分は岸丘という連続殺人犯を殺した。左脇腹をナイフで刺して彼からの拘束を逃れ、その後心臓を貫いた。彼女たちの話していた事件と自分が見た夢の内容はほぼ同じだった。
しかし、目が覚めたときは自分の家のベッドの上で寝ていたし、服に血もついていなかった。
昨日のあれは夢だったのだと自分に言い聞かせてそれ以上は考えないようにした。
菊は手元の本に意識を戻したが内容は少しも頭に入ってこなかった。ただ文字を目で追うだけ。
しばらくすると、教室に柄の悪い三人組の男たちが入ってきた。教室の扉をわざとらしく音を立てて開けると、彼らは菊の元へと寄ってきた。それに気がついたクラスメイトたちは少し声のボリュームを下げた。菊も扉を開ける音から彼らが来たのだと気がついていたが、本からは目をそらさずにいた。彼らの足音が菊の横まできて止まった。
「よぉ、今日も元気かぁ? 菊くん」
三人組の中でも一番前を歩くガタイの大きな男が菊の肩に手を回した。菊の耳元に顔を持ってくると、くちゃくちゃと音を立てながらガムを噛んでいる。わざとなのか無意識でやっているのかはわからないが、それを不快に思わない人の方が少ないだろう。菊も当然それを不快に感じたが、決して口には出さないし表情にも出さない。彼の挨拶にはなんとも言えない作った笑顔で答える。
「元気だよ、大葉くん」
「そうかそうか、それはよかった」
そう言いながら菊の胸の辺りを軽く叩く。菊にはその程度の力でも少し痛く感じてしまう。
「それじゃあ、今日も借りるからなぁ」
香奈の方にちらりと視線を向けたあと、意地の悪い笑い顔を浮かべながら教室から出て行った。
菊は何事もなかったように読書へと戻った。クラスメイトたちも友人たちとの会話に戻った。
その日菊はモヤモヤした気持ちを抱えながら一日を過ごした。昨日の夢の件、隣町の殺人事件。授業の内容は頭に入っては抜けていくだけ。頭の中では昨日の夢の映像がぐるぐると回り続けていた。
学校が終わり放課後を迎えた。菊はまだ複雑な心境だったが、いつも通り図書室へと向かった。
図書室の重い扉を開くと図書室の古臭いカビの匂いがする。図書室には誰もいない。菊一人だけの空間だった。入り口から一番遠くにある机に座ると、今朝読んでいた本の続きを開く。昨日買ったばかりの本で読み始めたばかりだ。
しばらくペラペラとページをめくっていたが、やはり内容は頭に入ってはこなかった。再び文字を追うだけの作業になってしまった。
集中して文字を追っていると、目の前から声をかけられる。
「今日は何を読んでるの?」
目の前には机に肘をつき両手に顔をのせている香奈がいた。
菊は一度読んでいた本を閉じるとその質問に答えた。
「今日は神様の密室っていう本。 ミステリーだね」
「内容は?」
そう聞かれて菊はこの本の内容をほとんど知らないことに気がついた。
「実はまだ読み始めたばかりでよく知らないんだよね」
手に持っていた本を裏返し、書いてあったあらすじを読んだ。
「教会でおきた密室殺人を探偵と神父さんが解決していくお話みたい」
「殺人と言えば今朝のニュース聞いた?」
何気なく読んだあらすじが菊を一日悩ませた地雷を自ら踏んでしまった。
「詳しくは知らないけど。 杉宮さんは?」
「私もニュースで見ただけ」
そう言って話を続けた。
「ニュースとかだと岸丘とかいう殺された方の殺人鬼に恨みを持った人の犯行じゃないかって言われてたけど、どんなに憎くても殺さなくてもいいのに」
香奈はとても優しい人だ。ほとんどの人なら殺人犯が殺されても、恨まれていたからとか悪いことをした人間だから正当な罰を受けたと考える人が多いはずだ。だが、彼女は違う。たとえ殺人犯だろうと恨みや憎しみだけで人を見るようなことはしない。
「でも、殺した方にも何か事情があったのかもよ。 たとえば、殺人犯に追われてて仕方なくとか」
普段ならこんなことは言わない菊だが、もしかしたらあれは夢ではなく自分がやったことなのではといった考えから自分に非がなかった事を確かめるかのように聞いた。期待していた答えなどはない。ただ、彼女の言葉で自分が救われると思ったから。
「正当防衛ってこと?」
「うん」
少し考えるような間の後香奈は答える。
「それでも人を殺すのはよくないよ」
菊は少し前の自分を恨んだ。彼女なら自分を何か目に見えない不安から救ってくれると思っていた。彼女に守られる事に慣れすぎたせいだ。
「そうだね」
菊は香奈の顔をまっすぐには見ることができなかった。
それから気まずい空気の中菊は文字を追う作業を続けた。物語の中に逃げようとしたが、本の内容はやはり頭には入ってこなかった。ただ静かな空間で集中して文字を追う無駄な時間が流れていく。
しばらくして、図書室の扉が勢いよく開かれた。聴き慣れたくはない彼らが来た音だった。
今朝の教室と同じように無駄に足音を響かせながら近づいてくる。
「どうもぉ。 菊くん」
図書室のマナーというものはおそらく彼らは知らないのだろう。大声で遠慮なしに菊に話しかける。
大葉たちが話しかけてくるのとほぼ同時に香奈が席から立ち上がった。
「そ、それじゃあ菊くん。私は用事があるから。また、明日」
「うん、またね」
そういうと香奈はそそくさと出口へ向かって歩き出した。香奈の後を追うように大葉たちも出口へと戻っていく。
大葉が香奈の肩に無理やり腕を回して顔を近づける。
「もっと、ゆっくり行こうぜぇ」
「ちょ、学校ではやめて」
「そんなに気にすんなよ」
大葉の手を振り払うと、早足で図書室を出て行った。
「わりぃな菊。今日は俺らが使うからよ」
「何言ってんだよ亮、毎日じゃねぇかよ」
「そりゃそうだな」
下品な笑い声を出しながら三人も図書室から出て行った。
僕はいつものように物語の世界に逃げようとしたが、本の内容は入ってこなかった。
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