悪魔の力

鍵谷菊は学校が終わると自宅とは反対の方向へ向かって走っていた。


 右手には帰りに寄った本屋で買った本を抱え、分厚い雲で太陽が隠れた薄暗い道を走る。


 正確には自宅とは反対に向かって逃げているのだが。


「はっ! はっ! はっ!」


 周りに人がいれば奇異なものを見る目で見られるほど、息を荒げていた。全力で走っていた事も原因ではあるがそれだけではない。極度の緊張下にいるため無駄に体力を使ってしまうのである。


 菊は自分以外には周りに誰もいない道路を見渡す。誰かを探すように激しく首を動かしながら前後を確認する。


 しかし、周りには誰の姿も確認できない。


「どこに行くの?」


 まただ。菊はそう心の中で呟く。


 先ほど学校帰りに寄った本屋を出たときからこの声が追いかけてくる。


 最初に聞いたときは菊は自分にかけられた声だとは気がつかなかった。本屋を出てしばらくしても後ろから同じ声が聞こえるので、自分に話しかけているのだと気がつき振り向いたが誰もいなかった。そのときはただの聞き間違いだと思い気に留めていなかったが、何度も聞こえるその声に、気味が悪くなって逃げるように走り出したがその声はずっとついてくる。


 菊に心の余裕があればもっと別の行動をとったのかもしれない。普段から本を読むのが好きな菊は、空想上のモノとされる幽霊や未知の生物と出会ったとき積極的にコミュニケーションを取れると思っていた。本の中の主人公たちのように。だが、現実は違った。未知のものに話しかけられたとき、興味や好奇心よりも先に恐怖に駆られた。見たことがない。自分には認識ができない相手と意思疎通ができるという考えは一瞬たりとも思い浮かばなかった。その結果が逃避という行動を促したのだった。


「そろそろ止まってくれてもいいじゃんかよ」


 まるで友人に気軽に話しかけるように声をかけてくる何かが離れてくれる気配はない。声の高さや話し方からすると、二十代ぐらいの男性の声。声の発生源が見えないためそれを確認する手段はないが、そう推測できる。菊の後ろ二、三メートルといったところからその声は聞こえてくる。


 やはり、止まって話をして意思疎通を測ろうとする気持ちは菊の中には生まれなかった。ただひたすら、無我夢中で走り続けた。


 ただその見えない何かから逃げることだけを考えて走っていたせいで、周りの街の風景は見慣れないものになっていた。自分の住んでいる街なのかすらわからなかった。


「いいかげん止まれよ」


 今度は菊の前から声が聞こえた。


 先ほどまで菊に話しかけていた声とは別の声だ。先ほどよりも少し若い中高生と言った声だった。後ろから聞こえる優しい声とは違って少し怒ったような口調だった。


 菊は全力で走っていた足を止めて立ち止まると、再び周りを見回した。自分一人で周りには誰もいない道だった。前後から聞こえた二つの声の発生源は目視では確認できないようだ。


 これ以上前に進む事もできなくなり、仕方なく左にある道へと曲がって再び走り出した。


 それから何度も後ろから優しい声が聞こえ逃げると進む方向からは怒ったような声が聞こえる。その度に左や右の道に曲がって逃げるのだった。二つの声はまるで菊をどこかへ誘導しているかのようだったが、逃げることに精一杯だった菊はそんな可能性があるとは思ってもいない。


 いくつかの角を曲がったとき菊はその場に立ち止まった。決して声から逃げるのを諦めたわけではない。目の前が壁に囲まれこれ以上進む道がなくなったのだ。そこで初めて、菊は誘導されていたのだと気がついた。そう思った時にはもう手遅れだったわけだが。


「やっと止まってくれたね」


 後ろから話しかけられていた優しい声が聞こえて後ろを振り向くが誰もいない。優しい声だけが袋小路になった行き止まりで響いている。


「こんなに面倒なことをする必要があるのか?」


「ここまでするから楽しいんじゃんかよ」


「ま、そこはご主人様に任せますよ」


「ははは」


 菊の目の前で二つの声が会話を始めた。なんのことを話しているのかはわからないが、菊の方へその声は近づいてきている。


「こんにちは、名前はなんて言うのかな」


 優しい声が菊に話しかける。しかし、恐怖で声など出ない菊はそれには答えなかった。


「うーん、そんなに怖がらなくてもいいんだけどなぁ」


 ゆっくりとだが、優しい声は菊へ向けてゆっくりと近づいてくる。それに合わせるように菊は後ろへと後ずさって行く。声から逃げるために下がっていくが、背中が硬い壁に当たり逃げ場がなくなる。


「最後に名前ぐらい教えてくれてもいいじゃん」


 近寄ってきた声は気がつくと菊の耳の横で聞こえていた。


 菊はそこまできてようやく自分に声をかけていた何かが人間だとわかった。


 人間の手が菊の体を押さえつけている。目の前まで近寄ってきた声の主の呼吸が自分の額の辺りにあたっているのがわかる。声の通り男性で菊よりも背が高い。だが、菊を掴んでいる手も額に当あたる息を吐く口も菊には見えていない。


 男の強い力で押さえつけられて身動きが取れない。


「うっ、離して!」


 その手を振り払い脱出を試みようとするがびくともしない。


 その行動を嘲笑うかのように、優しい声は渇いた笑いを発した。


 最初手首を掴んでいた手はだんだん上へと上がってきて今は首の辺りを掴んでいた。


「名前教えてよぉねぇ」


 次第に力が強くなっていき首が絞められ始めた。


「うぐっ!!」


 首元に当てられている手を爪で引っ掻いたり、持っていた本で殴ったりしてみるが脱出は困難なようだった。


「ねぇってば、なまえぇぇ」


 何故こんなにも名前を訊こうとしてくるのかが菊には理解できなかった。だがそんなことはどうでもいい。今すぐにこの手をどかして逃げなければおそらく殺されてしまう。


 なけなしの握力で再び脱出を試みるがやはり無駄に終わってしまう。


「じゃあまた会ったら教えてね」


 優しい声の主は菊の首を締める力をさらに強めた。


 菊の意識が遠のいていく。


『生きたいか?』


 狭くなっていく視界の中には何も映らない。菊は自分の死がこんな奇妙なものだとは思いもしなかった。


『あらがえ』


 死ぬ寸前に走馬灯で家族や友人の顔が浮かぶのかと思っていたが、そんなことはなかった。今頭の中にあるのは目の前にいるのであろう、目には見えない優しい声の主に対する怒りだけだった。


 何故自分がこんな目に合わなければならないのか。


『戦え』


 そこで菊はようやく声が一つ増えていることに気がついた。


 先ほどまで自分を追っていた優し声と自分の道を塞いできた怒った声とは違う声。


 菊よりも少し幼い女の子の声が聞こえる。


『右手を振れ!』


 菊は何を言われているのかはわからなかった。ただその時は聞こえて来た声に従うのが最前の行動で、自分の命を繋ぎ止める唯一の道だと感じた。


 その時菊の背中に黒い色で何かの模様のようなものが浮かび上がっていたが、それは菊も含め誰も気がついてはいなかった。


「うわぁぁぁぁあぁぁあああぁ!!!!」


 最後に残ったわずかな力を振り絞り右手を力一杯振るった。


 ずぷっ


 今まで感じたことのない不思議な感触が右手を襲った。


「つっ! いいじゃんか君。 最高だよぉ」


「大! そいつから離れろ!!」


 絞められていた手が緩み浮いていた体が地面についた。


 後ろの壁に待たれかかるようにしてふらつく体を支える。


「ひっ!」


 首を閉められていて上をむいていたせいで下が見えていなかった。開放されて目線が下に行くと、見慣れないものが目に入った。


 先ほどまで右手で握っていたのは確かに本だった。学校帰りに買ってそのまま持っていたから。しかし、今菊の手に握られているのは本ではなかった。


 鋭く尖ったナイフが右手に収まっていた。


 料理をするための包丁や、自衛隊などが持つサバイバルナイフとも違う人を傷つけるための形をしたナイフ。一度も目にしたことはなかったが、一目見た瞬間そう感じた。


 そして、そのナイフは空中の何も見えない場所に刺さり、そこから大量の血があふれていた。


「なんだこれ!?」


 菊は混乱していた。一度に多くのことが起こりすぎて、脳の処理がまだ現実に追いついてきていなかった。


「おらぁ!」


 優しい声の主が菊を殴った。


 目で拳が見えていれば殴られる瞬間に力を入れて少しは防御をとることができたのかもしれないが、見えないものに反応もできるはずがない。顔の左側を殴られ右側に飛ばされた。手に持ったナイフごと飛ばされたため、空中に刺さったナイフが抜けると、さらに多くの血が流れ出した。


「いてぇじゃねぇか」


 優しい声はとても痛がっているようには聞こえない。むしろ楽しんでいるようにさえ聞こえる。


 殴られた菊は地面に倒れたまま血が流れている場所をみると、うっすらと人の輪郭が浮かんでいることに気がついた。


 次第にその輪郭が濃くなっていくと、男の姿が現れた。


 薄暗い景色に溶け込むような暗い色のパーカーを着て、唇の脇にはピアスが一つ付いている。菊よりも背は高いが手足が細い。左手で血が出ている傷口を抑えながら不気味な笑みを浮かべている。


「なかなか楽しいぞぉ君ぃ。 あ、そろそろ名前教えてくれてもいい?」


 ナイフで脇腹を刺され血を流しながらも、名前を尋ねてくることに違和感を感じながらも菊は答えることにした。


 相手が目に見えるようになったからなのか別の原因があるのかは菊にもわからなかったが、今度は教える気になった。


「菊。 鍵谷菊。」


 名前を聞くと満足そうな笑みでうなずく。


「きく君かぁいい名前だなぁ、僕は岸丘大だよぉ。 よろしく」


 首を絞め殺害しようとした相手にナイフで刺されるという一般人にはありえない状況で岸丘は自己紹介をする。菊に対する感情は怒りや憎しみではなく、純粋な好奇心のようなものに感じる。菊の岸丘に対する気持ちは怒りと恐怖が混ざったものになっていた。


「ふふふ、まさか君も選ばれていたなんて思いもしなかったよ。 ただの一般人を殺すつもりだったんだけどなぁ。ははは」


 岸丘が言っている言葉を理解する気はなかった。ただ自分の記憶の中にある岸丘大という名前が、一致する物を探していた。


「岸丘大ってニュースに出てた」


「僕のこと知ってるの!? 嬉しいなぁ」


「この街で逃げ続けてる連続殺人の」


「そうそう、僕は逃げてるつもりはないんだけどねぇ」


 さっきの能力?のような透明に慣れる力があれば捕まらないよなと菊は思った。そんな事実を知らずに捜査を続ける警察を少し不憫だとも思った。


「君は八人目さ。 七人目の明奈ちゃんもよかったけれど、君の方が最高だねぇ。 同じ参加者を殺せるなんてね、僕の初めては君なんだね」


 心底楽しそうに笑っている。それはただただ岸丘がイカれているとしか菊の目には映らなかった。何を言っているのかもわからない。


「それじゃあ続きをしようか」


 岸丘は胸ポケットから折り畳みのナイフを取り出すと菊に向かって構えた。


「大! 怪我が大きいんだ、今回は遊んでいる暇はないぞ。死にたくねければな」


 菊の進路を塞ぐように聞こえていた怒った声が岸丘の心配をする。気がつくと怒った声の主の姿も見えるようになっていた。岸丘に注目していたせいで気がついていなかったが、電柱を背にして立っている。中学生ほどの背丈で、岸丘と同じような色をした暗い色のパーカーをきてフードを深くかぶっている。口元がわずかに見えるぐらいで顔はよく見えない。岸丘を心配はしているが助ける気はないのか電柱に体を預けたまま動く気配はない。


「いくよぉ」


 岸丘は楽しそうに菊の方へと走ってくると、ナイフを横に降った。なんのためらいもなく全力で菊を狙っている。


 それに対して、菊は地面を転がりながらギリギリで躱している。反撃などできるはずもなく、ただただ岸丘の振り回すナイフから逃げている。


『逃げてるだけじゃいつかやられる』


 少し前に菊に指示を出してきた声がまた聞こえてきた。今度は意識もはっきりしているからよく聞こえる。


「誰?」


「どうしたの?」


 菊の声に岸丘が反応する。どうやら自分にしかこの少女の声は聞こえていないらしいと菊は気がついた。


『今は生き残ることに集中しろ、目の前の男を殺せ』


「でも」


『お前が死ぬか相手が死ぬかどちらかしかない』


 少女の声から伝えられる冷たい言葉に菊は戸惑いながらも、この場から逃げられないということを理解した。逃げたとしてもこの男は自分のことをどこまでも追いかけてくるのだろうと。


「くそ!」


 菊は覚悟を決めた。目の前の男を殺すことを自分が生き残るために。


 岸丘を正面に捉えると、菊はタイミングを伺った。


 岸丘は左右にひたすらナイフを振りながら近寄ってくる。


 格闘術の心得など微塵もない菊だったが、なぜかこの時はとても落ち着いて相手を観察することができた。冷静に観察して、最適なタイミングを感覚が教えてくれた。


「あぁああああ!!!」


 醜い叫び声を上げながら右手に持ったナイフを持って走った。


「うひぃっ」


 岸丘から変な声が聞こえるのと同時に、ずぷっという感触が再び菊の手に伝わった。相手が見えているからか、先ほどよりも人の肉に刺さっていく感触が実感できた。


 菊の持っていたナイフは岸丘の胸に刺さっていた。大量の血が流れ出し、菊にもかかっていた。菊の服が返り血で赤く染まっていく。


 岸丘は脱力し、体の体重が菊へとのしかかってきた。背の高い大きな見た目とは裏腹に体重はとても軽かった。


「やはり、見込んだ通りかな」


 先ほどまで菊にしか聞こえていなかった少女の声が袋小路になった場所へ響いてくる。電柱にもたれかかっていた男がそちらを向いたことから、今度は全員に聞こえているらしい。


 小学生か中学生かと行った背丈をした少女は袋小路の入り口に立っている。高校の制服の下に着ているパーカーのフードには、なぜか猫耳のようなものが付いている。見た目は完全に幼い少女だが、話し方はどこか大人びている。


「お前の負けだ、グラシャラボラス。 お前の望みが殺戮だとしても、もう少しまともなやつを選ぶべきだったな」


「やはり君かオセ。 僕の選択が間違っていたと言いたいのか」


「見ての通りさ」


「くっ・・・。 死ねぇ!!」


 電柱に寄りかかっていた男はオセと呼ばれた少女に襲いかかる。人間とは思えない跳躍力で飛びかかった。数メートルの距離を一瞬にして詰め寄る。


「うせろ」


 少女が冷たい一言を放つと同時に少女の目の前まで迫っていた男はまるで蒸発したかのようにどこかへ消えた。


 そんな二人のやりとりに耳を傾ける余裕は菊にはなかった。目の前で自分が刺した人が死んでいるという事実を受け止めるので必死だった。自分の手の中で体がどんどん冷たくなっていく。もたれかかる体に力は入ってなく、動く気配も感じられない。右手は生温かい血で染まり、ひどい匂いだった。岸丘の胸に突き刺したはずのナイフは消えていて、足元には真っ赤な血が付いた本が落ちていた。


 菊の呼吸が荒くなる。激しい動悸が起こり、大量の汗が吹き出してくる。さらに呼吸が速くなると、菊の意識はそこで途切れた。

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