聖女ラ・ピュリーセル・アルラ
『この場所では、最早光の眷属は導けません』
「……」
『次代の聖女に託すのです』
「……ゃ……」
『その命を、宿命のために絶つのです』
「……いや……」
『その命を、宿命のために絶つのです』
「嫌あっッ!!」
魔王城――この世界に残り少なくなった邪神の領域。その地下深くの小部屋で、聖女は叫び、
捕らえられてから何日が経っただろうか。気が付いた時には既に薄暗く湿度の高い部屋の中で壁に繋がれ、腕には魔力を制御する魔道具が取り付けられていた。
最後に見た光景は水の都に施した結界が破られる様子だ。こうして自分が捕らえられている事からすると、恐らく都は落ちてしまったのだろう。勇者は無事だろうか。魔族は今も大陸で侵攻を続けているのだろうか。
覚醒した直後こそそういった多くの疑問が頭に浮かんでいたものの、すぐにその思考は、意思は、別の存在から干渉を受ける事となった。
『もう猶予はありません。闇が、世に再び満ちようとしています』
光を司り、人を導く女神。人類を救済するため、時代と共に光の眷属に寄り添う慈悲深い上位思念。依代が邪神の元に捕らえられた事により間接的に世に干渉する手段を失った彼女は、諭し、命じ、意思をも上書きして少女に自害を強要しようとする。
聖女という強力な矛と盾を失った人類は今、非常に危険な状態にある。速やかに次代の聖女を選定するべきというその理屈は実に合理的だ。
『その命を、宿命のために絶つのです』
「……や、め」
『その命を、宿命のために絶つのです』
「ぅ……」
『その命を、宿命のために絶つのです』
「……」
聖女ラ・ピュリーセル・アルラは人間である。人の親を持ち、人の友を持つ。魔族を打ち滅ぼして平和な世界を作りたいという人間的な感覚も当然持っている。そのためには速やかに自害し、人類領で次代の聖女を降臨させるべきだという考えにも既に至っている。実際に対峙したからこそ断言できるが、このまま捕らえられていても脱走の機会は絶対に訪れないだろう。今の魔王軍は想像した以上に慎重で、徹底的だ。このまま自分が生きていれば、今後ずっと光の眷属は大駒を一つ失った状態で戦わなければならない。
だが、彼女の人としての未練が、無念が、やるせなさが、死への恐怖が。そして、歴代の聖女の中でも随一の強力な意思と精神力が、神による強制的な記憶と思考の書き換えを拒み、神の言葉を拒み、自ら導き出した考えをも拒んでいた。
「やめて……やめ、て……」
脳内に反響する声が自意識を奪おうとするのを、必死に首を振って抵抗する。気でも狂えれば楽なのだろうが、この強い精神力ではそうする事もできない。
あとどれだけこうしていれば良いのか。ただ何もないだけの静かな部屋が、永遠に続く地獄となって少女の精神を責め蝕んでいた。
「嫌……私、は……」
聖女は震える手を握り込み、神ではなく運命に祈る。
まだ十代半ばの、一人の少女がそこにはいた。
民を守り、敵の攻撃で命を落とすのなら
女神はその常識的な部分に干渉しようとしているが、少女の強すぎる精神力をあと一歩のところで突破する事ができない。皮肉にも、アルラが歴代最高の素体である事が人類にとっての足枷として作用していた。
『さあ、命を神に返す時です』
『自ら……ち、人……』
『…………』
『』
ふと、声が遠のいた。
「な、に……?」
思考を侵し続けていた神の啓示がぱたりと聞こえなくなる。
魔界に捕らわれ、体の自由を奪われ、更に神との接続が不確かになったという状況。こうして追い込まれた今、不思議と少女が抱いたのは緊張ではなく安堵だった。
「そこまでだ。聖女よ」
地下室の扉が開け放たれ、低い声が部屋に入ってくる。
涙で濡れた顔を上げ、赤く腫れた目を向けると、そこには大柄な魔族の男が立っていた。
「何を企んでいるのかは知らんが、そうしていくら神託を得たとしてもこの場で貴様に出来ることなど何も無い。尤も、その神託も今阻害させてもらったがな」
上向きに尖った魔道具を掌に浮かべながら、男が靴音を響かせて接近する。
あまりにも強い闇の気配と、体から滲み出る底知れない魔力。水の都で遭遇した魔族も強力だったが、この男はそれに輪をかけて闇が濃い。神の目を通して力を確認するまでもない紛れもない強者。表情はどこか疲れたようでありながらも、その一挙手一投足には全くの隙が無い。
捕らえられ、凶悪な魔族に接近されているという危機的状況でありながら、何よりも少女を揺さぶったのは「神託を阻害した」という言葉だった。
アルラは無意識に涙を拭き、崩れた身姿を正す。
「あなたは……?」
表も裏もなく、少女は疑問に思ったままを男に問うた。今、彼女の思考と言動に干渉しようとする者はいない。本来、そのような者がいてはならない。
「教えてやる義理は無い。俺はお前の意思確認に来ただけだ」
「私の、意思……」
「そうだ。『お前の考え』を聞きに来た」
少女はその言葉に戸惑いを覚えた。
不思議な言葉だった。聞き覚えのない言葉。忘れていた言葉。
そして――。
「……っ……! !!?」
ふいに、少女は幻視した。今まで視界を覆っていた激しい光と神秘が、音を立てて崩れていく光景を。目の前に広がる、光と闇の両方が存在する正しく認識された世界を。
神に縛られない、波風の立たない、透き通った思考。たった今生まれたばかりのような、真っ白で自由な心境に彼女は打ち震えた。ずっと纏わりついていた
きっと民は、自分以外の人々は、このような景色の中で生きていたのだろう。
だとすれば、それはなんと素晴らしい事なのだろうか。
だとすれば、世界はなんと美しく――理不尽なのだろうか。
「……お前、本当に聖女か?」
「わたし、は……」
男は涙を流す少女に戸惑い、尋ねる。
彼女の前評判とは異なる赤子のような反応に、部下が間違った人間を捕らえてきてしまったのではないかと冷や汗を流しつつも魔族は平静を装った。目を瞬き、力を宿した眼光で見定めれば、確かにその神聖さは損なわれていない。目の前の光の眷属は間違いなく聖女――人類の切り札だ。
「……確かに聖女、だな……まぁいい。お前に訊く事は一つだ。実験に協力するか、しないか」
「実験……?」
「詳細は伏せるが、研究部の奴らはお前を使って調べたい事が山ほどあるらしい。どちらにせよ実験に使うのは同じだが、自主的に動いてもらった方が幅が広がるのでな」
「わ、私に、魔族に協力しろと……?」
少女は混乱した。本来有り得ない、想定外の状況と問いかけ。
聖女は人間だ。少なくとも、彼女はずっとそうあろうとしてきた。魔族は敵であり、憎むべき相手であり、宿敵なのだ。今まで何人もの知り合いが魔族によって殺されている。そんな彼らの利となる行いなど、一人の人間としてできるものではない。
「それは……できません。そんな……」
「……まぁ、そうだろうな。だが俺はそれを聞きに来たんだ。もう用は無い。今後どうなっても恨むなよ」
魔族の男は聖女の返答を興味無さげに紙に書き取ると、背を向けて扉に向けて歩き始めた。
『…―……』
『……さい。――闇の……強い……』
『その者……その者の闇を、今すぐに払わなければなりません』
「……ひっ……」
魔族が遠ざかるにつれ、再び少女の脳内に声が響く。
神聖で、正しく、清らかな声。それは、たった今生まれ変わった彼女を再び地獄に落とすには十分な絶望だった。
視界の中で光と混在していた闇が塗りつぶされ、ただ眩しく神聖なだけの正しい世界へと戻っていく。これまで人生の大半を過ごしていたはずのその場所では、今や恐怖と不安しか感じ取る事ができない。
「ま、まって……待って下さい!」
「…………なんだ」
「えっと……その……」
少女は縋るように手を伸ばし、男を引き留める。本当の自分を教えてくれた人。自分を生まれ変わらせてくれた人。咄嗟の行動だった。
男は振り向き、訝しむように魔道具と拳を構えて問う。聖女には十分な拘束が施されている。何ができるとも思わないが、神の啓示は何を差し置いても警戒しなくてはならないものだ。
「…………実験の内容を、教えて下さい」
「……どういう事だ。内容次第では協力するとでも? 興味本位で聞かれても教える訳なかろう」
「し、しますっ。協力を……しますから……っ」
「……」
男からすれば明らかに虚偽の発言である。床に手をつき、涙目で訴えかける聖女を睨みつけながら拳を振るわせて怒りを露わにする。恐らく神の啓示によって得た悪知恵を働かせ、小さな逆転の目に賭けているだろう脆弱な人間に、参謀は抱いている悪感情を隠しもせず檻を叩いて脅しをかけた。
目の前の聖女には何度も苦汁を飲まされてきた。魔王軍が彼女と直接交戦した記録は無いが、戦略的に非常に面倒な駒であったのは確かであり、間接的に多くの同族の命がこの少女に奪われている。印象は最悪と言えた。
「お前……何を企んでいる? ふざけているなら今すぐ拷問にかけてやってもいいんだぞ。それ以上余計な事を言うなら、先ずはその舌を引き抜いてやる」
「ほ、本当です。協力……しますからっ! 行かないで……」
「………………一体何だって言うんだ……」
懇願し、床に頭をつける少女の姿に、男はうんざりした表情で溜息を吐いた。
どう見ても様子がおかしい聖女を放っておく訳にもいかない。彼女は一見して普通の人間だが、これから行われる実験は世界の命運がかかっている一大プロジェクトである。どんな小さな変化も見逃す訳にはいかなかった。気は進まないが、一旦話を聞き、上司と研究部に報告が必要だろう。
ズルズルと延びていく労働時間に虚無感を覚えつつ、男は紙とペンを取り出して聖女の檻の前にしゃがみ込んだ。
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