第4話 恭子の物語 恭子の章その3
「澁谷さん。後で職員室に来てくれる?」
先生からそう言われて、私は、何だろう? とドキッとした。この間の数学の点数が悪かったから? ううん、別に赤点だったわけじゃないもの。
一体、何だろう。
「恭子、何したの?」と友達が心配そうに尋ねてくれたけれど、私が知りたい。
「失礼します」
おそるおそる職員室の扉を開いて中を伺うと、先生がにこっと笑って手招きしている。
それでも、職員室なんて好んで入りたい場所じゃないから、私はオドオドしながら先生が座っているところまで歩いていった。
「あのね、澁谷さん。澁谷さんはピアノを習っているのよね?」
え? 先生の質問は全く予想していなかったものだったから、私は咄嗟に返事ができなくて、思わず黙り込んでしまった。
「澁谷さん・・・・・・?」
先生から声を掛けられて、はっと我に帰る。
「す、すみません」
「あの、澁谷さんは、ピアノを習っているのよね?」
「は、はい」
私の家の近くには、昔、音大に通っていた清子さん、という人が住んでいた。
小さい頃から、清子さんの家のそばを通ると、きれいなピアノの音色が聞こえてきて、私は「きれいだなあ。あんな風に弾けたらいいな」なんて軽い気持ちで考えていた。
何気なくそのことを家で話したら、何がどうなったのか、ある日、母親が「清子さんがピアノを教えてくれるって」と急に言ってきた。
清子さんの家とうちは、ご近所付き合いをしていて、時々母親が清子さんの家におかずのお裾分けをするような仲だった。だから、母親が何か話をしてくれたのだろう。
私は別に本心からピアノを弾きたい、習いたい、と思っていたわけではなかったけれど、せっかくだし、と、それから週に1回、清子さんのところにピアノを習いに行くようになった。
「あのね。今度、発表会があるでしょう。伴奏をお願いできるかしら」
「え?」
先生が言う「発表会」というのは、年に1回、秋にクラス別に行われる合唱発表会のことだ。
合唱発表会では、ピアノやオルガン、エレクトーンを弾ける子が自分のクラスの伴奏をする。誰も弾けないときは、音楽の先生が代わりに伴奏をすることになっていた。
でも、まさか私が指名されるなんて。
どうしよう。
今年の課題曲なら、弾ける。多分、何回か練習すれば大丈夫。
でも。でも。
私はどんな子? と聞かれたら、多分ほとんどの人が「普通」と言うだろう。
容姿は普通。成績は普通。友達は多くもなく少なくもなく。クラスの中で浮かず目立たず、中心になることもなければ、弾かれることもない。
その代わり・・・・・・何かに選ばれることもない。
その私が初めて選ばれた。嬉しい。
「はい。わかりました」
ああ、どうしてもっと嬉しそうにできないんだろう。緊張で思わず顔がこわばってしまい、先生が戸惑っている様子が分かる。
それでも、私は内心のうきうきが止められなくて、家に帰って家族にぺらぺらと自慢してしまうくらいだった。
「澁谷さん。後で職員室に来てくれる?」
そう言う先生のセリフはこの間と全く同じ。けれど何だか顔が暗く、そして声も浮かない感じだった。嫌な予感がする。
「失礼します」
私のセリフも同じ。でもどうしてだろう。この間とは違う意味で先生のそばに行きたくない。嫌な予感がぬぐえない。
「あのね・・・・・・この間頼んだ、伴奏のことなんだけど」
歯切れの悪い言葉。
「その・・・・・・言いにくいんだけど、別の子にお願いすることになったの。こちらから頼んでおいて本当にごめんなさいね」
その後のことはぼんやりとしか覚えていない。
分かりました、と答えて職員室を立ち去ったような気がする。
何日かしてから、噂で聞いた。
同じクラスの彩ちゃんもピアノを習っていて、「私が伴奏したい! どうして私じゃないんですか」と先生に積めよったとか。彩ちゃんのお母さんはPTA会長だから、先生は断れなかったとか。
本当の理由は分からない。
けれど、事実はたったひとつ。
「私は、選ばれなかった」
ただ、それだけ。
それだけのことだった。
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