第3話 美紅の章

 あの子が私の家に来たのは、私が高校に入学した頃。前からの約束で、私が無事に志望校に合格できたら、お迎えすることが決まっていた。


 私は期待に胸を膨らませていた。一体どんな子なのかしら。


 わくわくしながら初めてあの子に出会ったときのことは、多分一生忘れない。

 緊張しているのか、全身を小刻みに震わせながら、けれど、大きな黒い瞳でじっと私を見つめていたあの子。

 

 可愛い子。男の子に可愛い、なんて言っちゃいけないのかもしれないけれど。


 この子に名前を付けるのは私、と決まっていた。どんな名前がいいのかずっと考えていたけれど、結局決められなくて出会う日まで保留になっていた。

 いざ、その子の瞳に見つめられて、私の脳裏には色んな名前が浮かんでは消え、浮かんでは消え、涼やかにも見えるその目に、やっと心が決まった。


 涼真。そう。涼真がいいわ。よろしくね、今日からあなたは涼真よ。大切な私たちの家族。


 それからの毎日は、急に世界に色が付いたみたいに輝いて見えた。

 どうしてだろう。それまでだって、楽しいことも嬉しいこともたくさんあったのに、涼真がいるだけで胸が躍る。温かくなる。

 父さんも母さんも、弟の一哉も、涼真を可愛がった。でも、涼真は私をただ一人の主人であるかのように振る舞った。いつも私の傍らに居続けた。

 一度私が父さんに叱られているときなんて、すごい勢いで私の前に立ちふさがって、父さんからかばってくれたっけ。

 父さんが「俺の立場、ないなあ・・・・・・」としょんぼりしていたのが面白かった。ふふっ。そういうこともあるみたいよ。


 学校から帰ったら、涼真と一緒に散策をするのが日課。

 風にひらひら舞う桜の花びら。太陽の光に照らされた新緑。どこかのおうちのお庭から響く子供達のはしゃぎ声とバシャバシャという水音。黄色や赤の紅葉の葉っぱ。しんしんと振ってくる雪。

 季節の移ろいを涼真と一緒に感じた。

 歩きながら、私は涼真に色んな話をした。

 テストでいい点を取ったこと。友達とけんかしたこと。先生の言葉に腹が立ったこと。学校帰りに食べた季節限定アイスクリームのこと。

 涼真はいつも黙って話を聞いてくれていた。初めてあったときと同じ、黒い瞳でじっと私を見つめてくれた。


 ・・・・・・高校に入って初めてできた彼に振られちゃったことも、話した。誰にも言えなくて、悲しくて、家で泣いたら皆に心配されちゃうから、涼真と一緒に歩きながら話した。

「振られちゃったの。好きだったのに。どうしてかなあ」

 そう口に出すと涙がぽろぽろ出てきて止まらなかった。恥ずかしいな。

 

 そんな私に、涼真はそっと寄り添ってくれた。心配そうな瞳で見つめてくれた。

それが嬉しくて、私は涼真の頭を撫でた。

「ありがとう。涼真は優しいね」

 涼真はちょっぴり嫌そうにしていたけれど、その嫌そうな顔も可愛くて、ついつい頭をなで続けてしまった。

 

 それから何度一緒の季節を過ごしただろう。秋風が吹き始めた日、私と涼真はタクシーに乗って、お出掛けした。

 涼真はすごく嫌そう。ふふっ。涼真はあそこに行くのが嫌いよね。でも、涼真のためなのよ、我慢してね。


 運転手さんに断って窓を開けると、さあっと涼しい風が吹き込んできた。

 「わあ、風が涼しい。ねえ涼真、すっかり秋よ」

 頬をなでる風が気持ちよかった。涼真はなんだか複雑そうな顔で私を見つめている。

 緊張しているのねえ。

 大丈夫よ、と涼真に声を掛ける前に、少し車体が揺れた。

 え、なに?とびっくりした私に運転手さんが、

 「うわ、なんだ、あの車、危ないな。お客様、シートベルトをしてくださいね」と声を掛けてきた。


 なんなの?と思って後部座席の隙間から前の方を見たら、私たちの前を走っているシルバーの車が左右にぶれながら走っている。時々反対車線にはみ出しながら。

 な、何、あの車。怖い。

 私は言われたとおりに後部座席のシートベルトをしようと思ったけれど、涼真のことが気になって、先に涼真をぎゅっ、と抱き締めた。

 大丈夫よ、涼真。私がいるからね。

 

 涼真が慌てた様子で少し嫌そうに身をよじった、そのとき--


 「うわああああああ--!!!」

 運転手さんが大声を上げた。さっきまで少し前を走っていたシルバーの車が目の前に迫っている。

 危ない!涼真!

 私はとっさに、涼真の上に覆いかぶさった。


 世界が暗転した。


「・・・・・・う・・・・・・あ・・・・・・」

 な・・・・・・に・・・・・・な、んなの・・・・・・

 痛い。痛い。痛い。足が痛い。背中も痛い。

 誰かが私の袖を引っ張ってる。誰?


 何がなんだか分からなくて、体中が痛い。

 涼真、だめよ、袖は引っ張らないで。

 ・・・・・・涼真!


 私はふいに気付いた。涼真、涼真。涼真は、無事なの?

 見ると涼真が必死になって私の袖口を引っ張っている。けれど、私の上には何かが乗っていて、びくともしない。


 鼻をツンとつく匂いがし、その正体に気付いてゾッとした。ガソリンの臭い。

 「りょ・・・・・・ま・・・・・・あぶない・・・・・・にげて・・・・・・」

 涼真は必死で私の袖を引っ張り続けている。私を助けようとしてくれるのね。でも、いいの。危ないから、早く逃げなさい。

 「りょ・・・・・・ま・・・・・・いいから。行きなさい」

 それでも、涼真は私を引っ張り出そうと袖を引っ張り続けた。

 このままじゃ、涼真が。

 そう思ったら、背中がぞわっとした。

 いや。いやよ、涼真に何かあったら、いや。

 足も背中も頭も痛かったけれど、そんなこと、どうでもよかった。

「いいから! これは命令よ!」

 精一杯の声を振り絞って強く言うと、涼真は一瞬身をすくめて、そして離れた。


 走っていく涼真の姿がぼんやりしてきたけれど、私はホッとした。

 そうよ、涼真。行きなさい。


 ぼんやりしながら、私は色んなことを思い出した。いやだ。これ、走馬灯っていうんだっけ。

 

 初めて会ったときの涼真の黒い瞳。私を見つめるその瞳。

 父さんから私をかばった涼真。そうそう。一緒に歩いているとき、私に声を掛けてきた男の人にも同じようにして、私をかばってくれたっけ。だめよ、そんなことしちゃ、と涼真を止めながら、私は嬉しかった。


 ずっとずっと一緒にいてくれた。嬉しいときも悲しいときも一緒にいてくれた。


 幸せだった。

 

 父さんも母さんも一哉も。友達も。みんな、大切。

 けれど今、一番思い出すのは涼真との日々。


 ありがとう、涼真。あなたがいてくれたから、私は幸せだった。いつもいつも私を守ってくれてありがとう。


 だから、今日は私があなたを守れてよかった。少しはお返しできたかしら。


 ずっとずっと、幸せでいてね。元気でいてね。大好きよ。

 

 ・・・・・・そんなことを考えていたら、目の前がまた、真っ暗に、なってきた・・・・・・

 

 


 

 

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