第3話 涼真の章 その2
一番古い記憶は母の胸に抱かれ、まどろんでいたこと。温かいぬくもり。兄弟達と一緒に母に抱かれて、ただぐっすりと安心し、いつのまにか眠っていた日々。
兄弟達とはいつも楽しく遊んでいた。時々、熱が入りすぎてじゃれあいから喧嘩になり、母に仲裁されていた。喧嘩が終われば仲直り。そしてまた母のそばで共に眠る。
そんな幼く幸せな日々はあっという間に終わり、私は兄弟とともに礼儀作法を学ぶことになった。
その頃、私には名前がなかった。いや仮の呼び名はあったが、真実の名は、やがて仕えるべき”主”が与えてくれる。私だけではない。兄弟全員がいつかは旅立ち、そして真実の名を与えてくれる主にそれぞれ仕える。それまでのつかの間、母と過ごし兄弟と戯れる。短いがゆえに甘くまろやかな時間。
寂しいと感じることもあったが、それが我々一族の定めなのだ。むしろ光栄に思わなければならないだろう。一生その身を捧げる主にやがては出会えることを。
一通りの礼儀作法を学んだ後、兄弟達は旅立っていった。一番体が小さかった私は、最後まで母のもとにいた。そのせいだろうか。母は私を甘やかしてくれた。最後の日には何かを感じ取ったのか、眠る私の傍らにずっと寄り添ってくれた。
しかし幼き幸せな時間は終わりを迎える。私は母から引き離され、暗く小さな部屋に入れられた。不安と緊張で身が固くなる。ああ。とうとう私も、主に出会うのか--
やがて扉が開き、日の光が私の目に飛び込んできた。まぶしい。目をしばしばさせ、しばらく周囲の明るさに慣れなかった私だったが、徐々に”その人”の輪郭がはっきりとしてきた。
肩まである長く艶やかな髪。小柄といっていい体躯。そして、緊張している私をリラックスさせるためだろうか、にっこりと微笑みを浮かべた優しい顔。
まだ少女、といっていいくらいの女性がそこにいた。
「初めまして、こんにちは」
軽やかな明るい声が耳に響く。その女性はしばらくの間私を見つめながら、うーんうーんと唸っていたが、やがて顔をぱあっと輝かせてこう言った。
「涼真、そう、涼真がいいわ。ね、今日からあなたは”涼真”よ」
涼真。それが私の名前か。ああ。この方が私の仕えるべき主。主が名前を与えてくださった。
私は歓喜のあまり全身を震わせた。何と言えばいいのだろう。理屈ではなく本能で、私は目の前の女性こそが、我が身を捧げて仕える主だと分かった。
「よろしくね、涼真。私は美紅よ」
そして主は--美紅様は私をぎゅっと抱き締めた。主、美紅様、いけません。私はあなたに仕える身。そのような振る舞いをなさっては--本来私は、距離を取って離れるべきだった。だが、美紅様の抱擁は温かく、母のぬくもりを思い出させ、しばらくの間私は美紅様に身を委ねてしまっていた。
その日以降、私は”涼真”となった。
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