第2話 麻里香の物語 麻里香の章 その5にして終章
・・・・・・どれくらいの時間が経ったんだろう。
麻里香はぼんやりと、手の中にある本を眺めていた。
「ママの章」
これは、本当にママの心を書いたものなんだろうか。麻里香のことを「大切な娘」と、そう思ってくれていたのだろうか。
「・・・・・・っ」
麻里香は嗚咽を漏らした。両目から涙が溢れて止まらなかった。
いつも満たされなかった理由。父親を亡くしてから、いや、それ以前から心のどこかが乾いていた理由が、分かった気がした。
自分は可愛いと、美しいと、だから特別なのだと、そう思わなければ自分を保てなかった。
母親が思っていたとおり、郁人はどこか父親に似ていた。そんな郁人に拒絶されることは、もう一度父親を亡くすことと同然だった、だから郁人に執着した。郁人がいなくなったら、自分を受け入れて、守ってくれる存在がいなくなるような気がしていた。
そしてもう一つ、麻里香は気付いた。なぜ奈津子を親友だと思っていたのか。思いたかったのか。もしかしたら、奈津子もまた、自分にとって「代わり」だったのではないか。どんなに笑いかけても、自分に厳しく、口うるさく言うことしかなかった母親の。
――そうかもしれないし、そうではないのかもしれない。今となっては、どちらでもよかった。なぜなら、もう「代わり」は必要ないのだから――
「読み終えましたか?」
店主が、緑色の瞳で麻里香をじっと見つめていた。その瞳には相変わらず、髪を振り乱し、涙でぐちゃぐちゃになった麻里香の顔が写っていた。そう。どんなにみっともなくても、あれが今の麻里香の、真実の姿なのだ。どこにでもいる、平凡な女の顔。特別でもなんでもない女。それが、自分だ。
「ええ。読んだわ」
麻里香は立ち上がり、手の中にあった本を店主に渡した。
「そうですか。全ての『なぜ』『どうして』は分かりましたか?」
店主はにやり、と人を食ったような顔をしてみせた。
最高に腹が立つ顔ね、と麻里香は腹立たしく感じたが、どこかすっきりとしていた。
自分が一番知りたかった『なぜ』『どうして』は分かった。それを知りたかったことすら、ずっと認めたくなくて、ここまで来てしまった。そのせいで、郁人さんにも奈津子にも、他にも大勢の人に迷惑を掛けてきた。
「それでは、お帰りになるんですね」
店主はにっこりと笑いながら、麻里香に深々とおじぎし、右手を出入口に向かって伸ばした。
「ねえ。ママは、どうなったの? 無事なの?」
なぜか店主に聞けば分かるような気がして、麻里香はそう尋ねたが、店主は頭を振る。
「それは、ご自分でお確かめください」
店主は一転して厳かな顔つきになり、そう言った。
その様子に、最悪の事態が脳裏によぎったが、確かに店主の言うとおり、それは自分自身が確かめなければならないことだった。
「ねえ、初めて来たときから思ってたんだけど」
麻里香はそう言いながら、店の扉に手を掛けた。
「はい?」
「あなたのにやにやした顔、最高に腹が立つわ。まるで不思議の国のアリスに出てくる、チェシャ猫みたい」
その言葉に店主はちょっぴり傷ついたような表情になり、「よく言われます」としょんぼりしてみせた。
それを見て麻里香は、ふっ、と笑った。
「ああ、そのお顔」
「え?」
「今、よい顔をしてらっしゃいますよ」
顔は涙でぐしゃぐしゃ、髪もぼさぼさの、この顔が? と麻里香は怪訝に思ったが、素直に受け止めておくことにした。悔しいから、「ありがとう」とは言ってやらないけれど。
カランカラン。扉に付いたベルが鳴る。その向こうは真っ白で、そして――。
***
ピッ。ピッ。
母親に繋がれたコードの先の、バイタル値を指す機械が今日も規則正しい音を立てている。
『歩道橋から落ちたとき、あなたの下敷きになったようです』
『幸い、命に別状はなかったのですが、ひどい打撲で、特に強く頭を打たれたようで――』
『見ていた方がいたのですが、お母様は、あなたをかばうように、抱きかかえようとしていたそうです』
あれから一年が経つが、いまだ母親が意識を取り戻す様子はない。医者も、希望は捨てないでくださいと言いながらも、具体的な治療方法はなく、このままいつか来るかもしれない目覚めのときを待つしかないようだった。
馬鹿よ、ママは。迷惑ばっかり掛けた娘のせいで、こんな風になって。
それでも麻里香は、ずっと付き添っていた。完全看護のこの病院で、麻里香ができることは、ただそばにいることだけだったけれど。
ねえ、ママ。いつか目が覚めたら、そのときは思いっきり文句を言ってあげる。
「本当は、私、パパよりママに抱っこしてほしかったのよ。なのにどうして、抱っこしてくれなかったの?」ってね。
いいトシして、何を言っているの、って呆れるかしら。怒るかしら。
それもいいわね、そうしたら、思いっきり喧嘩しましょう。そして仲直りしましょう。
だから、早く目覚めてね。
麻里香は、花瓶の中の花を入れ換えるために立ち上がった。
***
「いつか、目覚めますよ。近い内に、きっとね」
店主はそう言いながら、本をパタン、と閉じた。不思議なことに、表紙の「松下麻里香」の文字は少しずつ消えていった。
やれやれ。どうなることかと思ったが、あのお客様は、自分の中の「なぜ」「どうして」を受け入れた。よかった。受け入れることができなければ、あのお客様は――。
いや、よそう。もう終わった物語のことを考えるのは。
カランカラン。
来店を示す扉のベルが軽やかに鳴る。
さて、次のお客様はどんな方だろうか。店主は先ほどまで開いていた青色の本を棚にしまい、客を迎えるために扉の方に向かって歩いていった。
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