第2話 ママの章 その5
郁人さんが来た日、夜になってようやく麻里香は帰ってきた。
私は麻里香をリビングに座らせ、郁人さんとの話を説明したが、麻里香は終始無言のまま、ただぼんやりと、横を向いていた。その視線の先には、父親と笑いながら腕を組んでいる自身の写真があった。
「麻里香。いい加減にしなさい。つらいでしょうけれど、現実を見るの。郁人さんとの結婚は、なくなったの。さ、招待した方の連絡先を教えて。あなたができないなら、私が皆さんに連絡するから」
そう言って、麻里香に招待客のリストを出すよう促した途端、
「うるさいわね! どうしてママはいつもいつも、そうやって私に口うるさく言うの! パパだったら、そんなこと言わない。パパだったら、いつだって私の味方になってくれるのに! ママなんて、大嫌い!」
そう叫びながら、麻里香は二階に上がっていってしまった。
埒が明かないので、私は麻里香の会社に連絡し、事情を説明しに出掛けることにした。
本当なら、結婚式まであと3日、という日だった。
麻里香を病院に連れていくべきか。それともカウンセリングの方がいいだろうか。
どうして、こうなってしまったんだろう。
夫と――麻里香の父親とあの子の関係が歪んでいる、そう思ったときにもっと介入するべきだったのか。麻里香の育て方について、夫ともっとよく話し合っていれば。
あなたは特別な「お姫様」なんかじゃない。お父さんは間違っているの。
あなたは特別可愛いわけでもなければ、周りの子が全員あなたを可愛いと思っているわけでもないの。もっと周りの人たちの気持ちを考えなさい。
たとえ憎まれようが麻里香にそう言っていれば。
けれど今さら過去を悔いても、遅い。今はとりあえず、目先のことをなんとかしなければ。
麻里香の会社の上司や同僚に今回の顛末を説明し、頭を下げ続け、私は疲れきっていた。
これからのことを考えるのは、もう少し後に。今は、結婚式に招待した方に、お詫びをしなければ。
気の重い作業に、私はため息をついた。
***
二階から、何やらバタバタしている音が聞こえる。麻里香が起きたのか。
今日は、本当なら麻里香の結婚式の日だった。
あの日から麻里香と何度か話をしようとした。
さすがに麻里香も、もう、郁人さんが家に来た日以前のように、何事もなく結婚式を迎えるかのような話をすることはしなかった。ただ、黙って私の話を――親戚や会社の人への説明は終わったこと、麻里香の友達関係には麻里香自身が説明してほしいこと――を膝を抱えて聞いていた。
分かっているのかいないのか、麻里香はただ相変わらず、ぼんやりと父親の写真を見つめるだけだった。
「ママ、ママ、いるの? ねえ、どうして起こしてくれなかったの、私、先に行くから!」
え?
麻里香の声が聞こえた。「先に行くから」?あの子、何を言っているの?まさか――
慌てて玄関の方を見たが、ちょうど扉がバタン、と閉まったところだった。
麻里香――
「麻里香、待ちなさい、どこへ行くの! 麻里香!」
麻里香は私のほんの少し先を走っている。私の声が聞こえないはずがないのに、麻里香はただひたすら走っていた。
止めなければ。
歩道橋を歩く人々が、何事か、という目で麻里香と私を見ている。
そんな人たちに、「すみません」と謝りながら、私は麻里香の背中に手を伸ばした。
あと少し。あと少しで麻里香の背中に手が届く。
そのとき、私はがくん、と足を踏み外した。届きそうだった私の手が、そのまま麻里香の背中を押し、麻里香がぐらり、と揺れた。そしてバランスを崩した私もまた――。
麻里香。ごめんね。
私は母親失格だった。あなたとお父さんの関係に入り込めなかった。ううん。入り込もうとしなかった。
あなたの言うとおり、ただ、口うるさく言っていただけ。あなたの気持ちをよく聞いてあげればよかった。
あのとき。鏡の前であなたが独り言を呟いていたとき。どうしたの、と聞いてあげれば。抱き締めてあげれば。「世界で一番可愛いパパのお姫様」じゃなくても、それでも、私にとっては大切な娘なんだと、そう言ってあげていれば。
そうしていれば、あなたはここまで壊れなかったのだろうか。
上下が反転するような感覚の中で、私はぼんやりとそんなことを考えていた。
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