間章 その3

「嘘! 」

麻里香は「郁人の章」を読み終えて、声を上げた。

嘘。嘘嘘嘘嘘嘘嘘――嘘。郁人さんとの結婚がなくなったなんて嘘。

私、聞いていない、聞いていないわ、郁人さんから何も聞いていないわ。


 麻里香はまるで小さな子供がイヤイヤをするように体を揺らして、本を手放して両手で頭をかきむしった。

だが、それと同時に、脳裏に郁人の顔と声がフラッシュバックする。

「君とは結婚できない、すまない」

そう言って頭を下げた郁人の姿がふいに思い出された。

違う。違う違う違う。あれは現実じゃない。この本を読んでそんなことがあったような気になっているだけ。

そんなことはなかった。郁人からの電話も、メッセージも、なかった。ない。だって、結婚するのよ、私たち。やっと待っていた王子様と結婚するのよ、私。王子様がいないと、誰が私のことを、「可愛い麻里香。麻里香は僕のお姫様だ」って言ってくれるの――。


「ご満足いただけました? 『郁人さんが電話に出てくれなかった理由』、お分かりになりましたでしょう? 」

 奇妙な男が、麻里香に向かって容赦なく告げた。麻里香は顔を上げて、ぼんやりと奇妙な男を見つめた。その緑色の瞳に、髪を振り乱し、涙で化粧が崩れたみじめな女の姿が写っていた。

 あれは誰? あのみっともない女は。髪も顔もぐしゃぐしゃ。いやだ、あんな格好、私だったら耐えられないわ。

 そんな麻里香の前に片ひざをつきながら、男はじっと麻里香の顔を見つめ続けた。

「あと少しですね。まずは『ママはどうして起こしてくれなかったのかしら』でしょうか」

男はそう言いながら、促すように右手を前に伸ばした。


 それを見ながら、麻里香はククッ、と笑った。やがてその声は徐々に大きくなり、

「アーハッハッハッハ! 」

という笑い声が店中に響き渡った。


「ママがどうして起こしてくれなかったか、ですって? そんなの決まってるじゃない、起こす必要がないからよ! そりゃそうよね、何時まで寝てたっていいもの、だって何もない休日だもの、そう、何もないの! 『何も』なくなったのよ! 」

 自分自身のその声に、麻里香は、はっと我に返った。

――私、今、何を――?

「あ・・・・・・」

 麻里香は震えながら手の中の本を見た。この本に書いてあることは真実なんだろうか。麻里香自身のことは、本当のことだった。奈津子のことも、郁人さんのことも――?

「いや・・・・・・何も考えたくない。もうこれ以上、何も知りたくない。何も読みたくない」

 そう。これ以上本を読み進めることは麻里香にはできそうもなかった。

『どうしてママは起こしてくれなかったのかしら』

 ママも寝坊したのかもしれないわね。親子だもの、変なところが似ちゃったわ、肝心な日に寝坊するなんてだめよね。

『私が階段から落ちたのはどうしてかしら』

 そうね。背中に強い力を感じたわ。誰かが私を押した。それは間違いない。けれど、それは警察に相談すればいい。ここから出て、早く式場に行って、結婚式を挙げなくちゃ。それから警察に通報しよう。


「いけませんよ」

 緑色の瞳の奇妙な男が片ひざをついたまま、麻里香にそう話し掛けた。

「そうやって、逃げ続けるんですか? 」

――ニゲツヅケル? イヤダ、コノヒト、ナニヲイッテイルノカシラ?

「本当は、もう分かっているんでしょう? この本はあなたの物語。あなたの「なぜ」「どうして」それを理解するための物語。だからここに書いてあることは全て真実。あなたが見ようとしなかった、逃げ続けた、真実ですよ」

――シンジツ? シンジツッテ、ナンダッタカシラ?

「それを知るために、あなたはここにいるんです。そうでなければ、私の本屋にはたどり着けない。もっとも――いえ、今は止めておきましょう」

――アア。コノヒト、ホンヤサンダッタノネ。デモ、ヘンナカッコウ。コレジャ、オキャクサン、コワガッチャウワ――

 奇妙な男、いや、店主は、悲しそうな顔で麻里香を見つめた。そしてため息をつきながら、麻里香が傍らに置いた本を手に取り、広げて麻里香の手に乗せた。


「ママの章」

そこにはそう書かれていた。





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