第2話 郁人の章 その2
麻里香とはもうだめだ。
そう思ったが、本当にそれでいいのか、と散々悩んだ。
式まであと1か月もない。両親にどう説明すればいいのか。上司には。友人には。
麻里香に対する愛情は完全に冷めてしまっていた。いや、そもそも最初から麻里香のどこを好きになったんだろう。感じがよかった。笑顔が可愛かった。それだけで、何も分かっていなかった。一人でいるのがいやだから、寂しいから、誰かに一緒にいてほしかった。
なんてことだ。「王子様を待っていた」という麻里香の言葉にゾッとしてしまったけれど、僕だって、ただ、「誰かと結婚」したかっただけで、麻里香自身を理解して好きになって結婚しようと思ったわけじゃなかった。この結婚は、最初から間違えていたんだ。
結局、悩んだものの、まずは麻里香に最初にきちんと話をすべきだ、という当たり前のことに思い至った。両親、友人、上司、ほかにも話をしなければいけない人たちはいる。けれど、何より麻里香に話をして、誠心誠意詫びよう。
「――もしもし。麻里香? 話があるんだ」
「すまない、呼び出したのに遅くなって」
待ち合わせの時間に10分遅れてしまい、俺は椅子に掛けながら息切れした呼吸を整えた。
「もう、郁人さんたら、私は待ち合わせの5分前には着いてたのよ。この埋め合わせは必ずしてね」
麻里香は僕が呼び出した理由は全く想像していない様子で、ふくれっつらをしてみせた。
そんな顔も可愛らしく見えて、これからする話に気が重くなる。
――だめだ。もう、決めただろう。ちゃんと話すんだ。
「麻里香。すまない。君と結婚はできない」
頭を下げながら、周囲の時間が止まったかのように感じた。麻里香の顔は見えない。一体どんな表情をしているのか。その顔を見る勇気が出ない。何か言ってくれ、頼む。
だが、いつまで経っても麻里香は何も言おうとしなかった。永遠にも思えた時間だったが、実際には数分もなかっただろう。俺は戸惑って、ようやっと顔を上げた。
――麻里香は、笑っていた。
「あのね、奈津子とお式の打ち合わせをしたんだけれど、郁人さんに挨拶をしてもらったらどうか、って言うの。どうかしら」
「麻里香・・・・・・? 」
「最近は新郎新婦二人で挨拶するのもあるんですって。郁人さんはどっちがいい? 」
「麻里香、僕の話を聞いていたか? よく聞いてくれ、すまない、君と結婚はできない」
「私はね、二人でよりも、やっぱり郁人さんにご挨拶してもらった方がいいと思うの。その方が場が引き締まると思うのよね」
「麻里香! 」
思わず大声を出してしまい、周囲の客が何事か、と僕たちに注目しているのに気付いた。
すみません、と立ち上がって頭を下げている間、麻里香はずっとにこにこと笑っていた。――いつものように。
それからのことは、悪夢のようだった。麻里香は何を言っても、ずっと結婚式の話ばかりしていた。まるで僕の声が聞こえていないように。いや、本当に聞こえていないのかもしれない。耐えられなくて、逃げるようにその場を去った。
突然のことで麻里香もショックを受けたんだろう。僕の話を受け止められなくて、あんな態度になったんだろう。それはそうだ。結婚式まで後1か月もないというのに、結婚できないと言われたんだから。本当にすまないことをした。
そう思いながらも、壊れたレコードのように、ずっと結婚式の話をし続ける麻里香の顔を思い出すと、怖くて怖くてたまらなかった。
麻里香と会った次の日、上司には頭を下げて詫びた。上司は驚いて、一体どうしたんだ、何があったんだ、と聞いてきたが、ただひたすら、申し訳ありません、と頭を下げ続けた。
両親には電話で話をした。同じように、どうして、と理由を尋ね続けられた。
式に招待していた友人にも驚かれた。どれくらいの人たちを驚かせ、悲しませたことか。結婚というものを安易に考え、ろくに相手のことも知らないうちに話を進め、そして最後は相手が嫌になったからと結婚を止めることにした、そんな自分自身の馬鹿さ加減が呪わしかった。
結婚式場の担当者は、こういうことに慣れているのか、実に淡々とキャンセル料の話を進めた。その事務的な対応に、なぜか気持ちが救われた。
けれど、肝心の麻里香とは、あれ以降、全く話ができないでいた。いや。正確には、話をしようとしたが、麻里香が聞いてくれないのだ。
直接話をするよりはいいのかもしれない、と思い電話をした。
麻里香は招待客の見送りの際に配るドラジェの話をし続けた。
メッセージを送った方がいいのかと思い、今の自分の気持ちを正直に書き綴った。
麻里香からは、式の際の髪型を変えようと思うが、どっちがいいかという返事が画像付きで来た。
麻里香。一体、どうしたっていうんだ。確かにショックだろう、受け入れがたいだろう。けれど、このままでは埒が明かない。式場はもうキャンセルした。上司にも両親にも友人にも、その他の招待客にも話をしてお詫びした。だが、麻里香の側はどうなんだ。僕に対しては分かっていないような態度を取り続けているが、ちゃんとお義母さんや奈津子さん、ほかの招待客には話をしたのか。
「郁人さん。どうぞ、入って」
罵倒されることを覚悟していたが、麻里香の母親は意外なほど穏やかに対応してくれた。
麻里香とのやり取りは全く進展せず、どうにもならなくなった僕は、麻里香の母親に連絡を取った。電話で、麻里香との結婚を取り止めたこと、麻里香が話を聞いてくれないこと、麻里香はお義母さんや他の人に話をしているのかどうか分からないことを正直に話した。その上で、きちんとお詫びしにいきたい、と話し、今日は麻里香の家に来たのだ。本当なら、今日は式まであと5日、というぎりぎりのところまできていた。
「今日は、麻里香は・・・・・・? 」
「出掛けたのよ。あなたとデートするんだって言ってね」
「え? 」
もちろん、そんな約束はしていない。
ふう、とため息をつきながら、麻里香の母親は手にしていたティーカップを、テーブルの上に置いた。
「私ね、昨日、郁人さんから電話をもらって、麻里香に問いただしたのよ。どういうことかって。けれど、麻里香は話を聞こうとしないの。ずっとお式の話をし続けるのよ」
僕はぎゅっ、と拳を握りしめた。膝の上で両手がぶるぶる震えた。麻里香。
「本当に、申し訳ありません」
どうしていいのか分からなくなり、ただただ頭を下げるしかなかった。この間から、ずっと誰かに頭を下げているな、とそんなくだらないことをぼんやりと思った。
「いいのよ。こういうことは、どちらが悪いというわけでもないでしょう。それにね、本当はあの子、分かっているのよ」
「え・・・・・・? 」
「今日も郁人さんが話をしに来るから家にいなさいって言ったのよ。それを聞いて急にあの子、『郁人さんとデートがあるの』って言って出ていったの。分かっていて、あなたと会いたくなくて、そう言ったんだと思うわ」
そんな、そんなことってあるのか?
僕の疑問が聞こえたかのように、麻里香の母親は、フッ、と笑った。
「あの子、昔からそういうところがあるの」
「お義母さん、それはどういう――」
「もう『お義母さん』じゃないでしょう。そして、これからも」
その意味に気付いて、いたたまれなくなる。
「ごめんなさいね、いやなことを言ったわ。でも、その方がいいでしょう。あなたはもう気にしなくていいのよ。麻里香のことも、私がちゃんと見ているわ。麻里香の招待客には私から連絡します。でも、お友だちの連絡先はあの子しか知らないから、どうしたものかしら。お知らせが直前になって皆様には迷惑掛けちゃうわね。せめて奈津子さんにだけは早く知らせたいんだけど」
「すみません」
謝ることしかできなくて、僕はもう一度頭を下げた。
「いやだ、本当に嫌みなことばかり言っちゃうわね、でもまあ、これぐらい許してね」
麻里香の母親の声は、最後まで穏やかだった。そのことがかえって僕の胸をえぐった。
――ブーッ、ブーッ、ブーッ。
さっきからマナーモードにしていたスマホが震えて着信を知らせている。画面には「麻里香」の文字。
本当なら、今日は結婚式だった。
麻里香。どうしたんだ。何かあったのか。
ためらいながら電話に出ようとして、いや、と思い直した。出るべきじゃない、特に今日は。
「あの子にはもう連絡しなくていいわ。大丈夫よ、もう少ししたらあの子も落ち着くし、さっきも言ったけど、あの子本当はちゃんと分かっているのよ」
帰り際に麻里香の母親が言った言葉を思い出す。
麻里香、そうなのか。本当は分かっていたのか。それでも、ああ振る舞うしかなかったのか。
僕を「王子様」と呼んだ麻里香。僕が、結婚できないと言っても聞こうとしなかった麻里香。そのどちらも、根っこは同じだったのかもしれない。僕自身を見ていない、という意味で。
それでも、麻里香への謝罪の気持ちを込めて、僕はスマホに向かって頭を下げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます