第2話 郁人の章 その1

「ねえ、郁人さん。私、この靴がほしいわ」

麻里香がにっこり笑う。まただ。また、麻里香の「おねだり」だ。


 僕――早川郁人が麻里香と付き合ってからもうすぐ半年になる。そして間もなく結婚する。そのことを知った僕の友人は、

「おいおい、知り合ってすぐに結婚なんて大丈夫なのか? 」

と心配するか、

「早川もとうとう身を固めるのか。よかったなあ」

と祝福してくれるか、どちらかだった。

 心配してくれる友人の気持ちも分かる。けれど、麻里香との付き合いは最初から結婚を前提としたものだった。


 麻里香と出会った頃、僕は主任に昇進したばかりだった。

「早川も主任になったんだ。そろそろ誰かいい人はいないのか。余計なお世話かもしれないが、主任の仕事は忙しいし、できれば身の回りのことをやってくれて支えてくれるような人と結婚した方がいいぞ」と課長に言われていた。


 課長の言葉は、男女共働きが当たり前になりつつあるこのご時世、聞く人が聞けば問題視されるようなもので、さすがに僕も、それでは家事をやってもらいたいから結婚するようじゃないか、と共感できなかったけれど、ただ、夜中に誰もいない真っ暗な部屋に帰って一人で過ごす時間が増えると、何とも寂しく感じた。誰か一緒に、家事をしてくれなくたっていい、「ただいま」と言える相手がいたら。「おかえり」と言ってくれる人がいたら。

 僕はそう思うようになっていた。

 だが、学生時代から交際していた彼女と数年前に別れて以来、これといった出会いもなかった僕が、相手を見つけるのは難しかった。


 そんなとき、課長から、「取引先にちょうどいい子がいるんだが、会ってみないか。いつもお茶を出してくれるんだが、向こうの上司が『感じがいい子で結婚願望もあるようなんですが、うちの会社は皆既婚者だから、誰かいい人がいたらいいんですけどね』って言っていたんだ。君の相手にどうかと思ってね」と言われ、いい機会だと思った。

 課長が商談に行くときに、付いていかせてもらうことにした。もちろん、今後の取引が気まずくならないよう、向こうには内緒で、ということにした。

 そして、お茶を出してくれた麻里香と出会った。


 麻里香はにこにこして、とても感じが良かった。笑顔が可愛かった。課長をとおして麻里香の上司に話をしてもらい、そこから僕らの交際はとんとん拍子に進んだ。始まりが始まりだったので、僕は、いや、麻里香も、お互い最初から結婚を意識していた。

「結婚してほしい」

 僕からそう告げたのは交際して3か月が経ったとき。麻里香は「嬉しい」と目にいっぱい涙を浮かべ、そんな彼女を愛しいと思った。――そのときは。


 「ねえ、郁人さん、お願い」

 最初に麻里香がそう言ったのは、いつだったろうか。結婚が決まってから、麻里香の「おねだり」は少しずつ、少しずつ、増えていった。

「お式の場所はここがいいわ、ね、ここにしましょ」

「衣装はこれがいいでしょう? これも着たいわ。ね、お願い」

「お花はこれ。絶対にこれよ」

 結婚式は女性の夢だというし、麻里香のしたいようにしてあげたい、最初はそう思っていた。たとえ、自分が想定していていた予算より0が多くても。

 失礼かもしれないけれど、僕の方が麻里香より圧倒的に収入があり、預金もあるのだから、そう自分を納得させていた。

 「ね、お願い」と両手を合わせてにっこり微笑まれると、困ったな、そう思っていてもできるだけ麻里香の希望をかなえてあげたいと思った。


 「ねえ、郁人さん、このワンピース、素敵だと思わない? 今度のデートで着たいわ」

 「このネックレス、素敵。この前買ってもらったワンピースに似合うわ、そうでしょ? 」

 「わあ、可愛いマグカップ。きっと新居にぴったりよ」

 そして、いつからか、麻里香の「おねだり」は結婚式とは関係がないことにまで及ぶようになっていた。マグカップくらいなら、そう思って値段を見たときにはひっくり返りそうになった。なんだ、この値段は。なんでたかがマグカップがこんなに高いんだ。

 その都度麻里香には、やんわりと、「今は節約しよう」「また今度ね」と断ったが、「えー」と麻里香はふくれっつらをして、「わかったわ、また次の機会にね、約束よ」と納得いかないような顔をしていた。


 どれもこれも、買ってあげられないような値段というほどじゃない。多少無理すれば、買ってあげられないわけじゃなかった。けれど、結婚式の費用の多くを僕が負担して、引っ越しやら何やらで物入りになるのに、必要のないものまで理由なく何でも買ってあげるというわけにはいかない。

 それでも、何回かに一回は麻里香の「おねだり」に根負けしてしまう。


 そして、今日は靴か。


 そういえば麻里香の誕生日が近かった。誕生日のプレゼント、そう思えば自分を納得させることもできなくもない。これが最後、これが最後だ。さすがにこれ以上は付き合いきれない。何より、こんな贅沢が当たり前だと思われては安心して家計を任せられない。

 

 「この結婚はやめた方がいいんじゃないか」

 「麻里香は僕のことを何でも言うことを聞いてくれる財布だと思っているんじゃないか」

 何度もそう思った。けれど、疲れて帰ってきたときに、「おかえりなさい」とにこにこ笑いながら迎えてくれる麻里香の顔を見ると癒されるのも確かで、金銭感覚のずれは少しずつ直していけばいい、結婚したら麻里香にはよく言い含めよう、そう自分に言い聞かせていた。

 何より――もう上司に仲人を頼んでいた。結婚式の招待状も出してしまっていた。今さら結婚を止めるなんてことはできやしない、そう思っていた。

 

「ふふ、郁人さん、ありがとう。大切にするわね」

 そう言いながらにこにこ笑う麻里香は、さっき買ってあげた靴を早速履いている。ベージュ色のスウェードの靴は、麻里香によく似合っていた。

 こんなに喜んでくれるなら、いいか。誕生日プレゼントだしな。

 けれど麻里香にはきちんと伝えよう。これが最後だよ。結婚式もできるだけ麻里香の希望どおりにしてあげるから、だから結婚したら節約していこう。結婚は二人で作り上げていくものなんだから。生活を続けていくには、お互いの努力が必要なんだから。

 僕は一生懸命話した。一生懸命伝えた。

 だけど、麻里香はきょとん、とした顔をした。

 「そう? 私、そんなに贅沢言っているつもり、ないんだけど」

 その言葉に、僕は一瞬、激昂しかけて、そして脱力した。


 なんなんだ。麻里香のこの感覚はどこから来るんだ。麻里香だって働いているというのに、稼ぐということの大切さが分からないわけじゃないだろう。

 それに、麻里香は別にお嬢様というわけでもない。実家暮らしではあったが、結婚が決まってから僕の家で時々過ごすときには、ちゃんと料理も洗濯も掃除もしてくれて、手際はいい方だった。お義母さんからきちんと習っているんだな、と挨拶に行ったときのしっかりした麻里香の母親の様子を思い出して、そう思った。麻里香が普段身に付けているものも、それほど贅沢でも高級品というわけでもない。なのに、どうしてこんなにわがままなんだ。僕に何かしてもらうのが当たり前になっているんだ。


「麻里香。麻里香はどうして僕と結婚しようと思ったんだ」

 震える声でそう聞いた。頼む。答えてくれ。なんでもいい、僕を都合のいい財布と思っていない答えなら、それでいい。

 そう思った僕に、麻里香はにっこり微笑んだ。いつものように。

「だって、郁人さんはずっと待っていた王子様だもの。私のための王子様」

・・・・・・は? 

意味が分からない。

 僕は麻里香の顔をじっと見つめた。目の前にいる麻里香。もう20代後半の女性。社会人になって5年になろうかという大人のはずの女性。その口から「王子様」という現実離れした言葉が出てきたことが信じられないし、わけが分からない。

「私、ずっとずっと待っていたの。私を幸せにしてくれる、私にふさわしい王子様を。それが郁人さんよ」

 麻里香はにこにこと笑っている。まるで、そう言ってもらえて嬉しいでしょ、と言わんばかりに。

 だめだ。頭がぐるぐる回っている。まだ「財布代わりだ」と言われた方が理解できた。王子様、だって? 「私を幸せにしてくれる」だって? 「私にふさわしい」だって? イッタイ、コノオンナハ、ナニヲイッテルンダ――?

 そのとき、僕は見た。テラス席に座っていた僕らは、店のガラス窓に写っていた。そして、麻里香は、ふふっと笑いながら、写っている僕らを見ていた。困惑している僕を置き去りにして、満足げに笑った。


 ふいに、僕は気付いた。麻里香は僕のことを見ていない。麻里香の言う「王子様」の意味はよく分からない。けれど、麻里香にとって僕は、お似合いのアクセサリーか何か、そう、さっき買ってあげた靴のように、麻里香に付属する何か。麻里香を満たすための何か。

 「自分の隣に『ふさわしい』男がいること」「その男が自分を満たしてくれていること」そのことに満足しているんだ。だから、笑った。満足げに笑った。


 ゾッとした。だめだ。この女はだめだ。この女にとって僕は何者でもない。「早川郁人」という人間ではない。自己満足のための道具だ。


 「ごめん。帰るよ。後で連絡する」

 僕は伝票を片手に立ち上がった。もうだめだった。自分が思ったことが真実かどうかはどうでもいい。自分が「そう思った」こと、「もうだめだ」と思ったこと、それだけで十分だった。


 結婚式まで、あと1か月を切っていた。

  

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