間章 その2
麻里香は本を読みながら、ぶるぶると体を震わせていた。
奈津子。なによ、これ。なによなによ、これ。
本には、麻里香が想像もできなかった、奈津子の気持ちが書かれている。
嘘よ、ずっと奈津子がこんな風に思っていたなんて。こんなの、デタラメだわ。だって、私がお願いしたら、奈津子はいつだって、ちょっと困ったような顔をしたけれど、最後には聞いてくれていたわ。本当にいやだと思っていたら、断ればいいじゃない。いやだと言えばいいじゃない。それを言いもしないで、不満を募らせて、挙げ句に最後は靴を傷つけるなんて。
それでも麻里香は、この本に書いてあることが本当だとしたら、「なぜお気に入りの靴が傷ついていたのか」という自分の疑問が解けるということにジレンマを抱いた。
この本に書かれていることを信じたくない。ずっと友達だと思っていた奈津子がこんな風に思っていたなんて信じたくない。
だけど――そう、確かに、麻里香が頼みごとをする度、奈津子は困ったような顔をしていた。麻里香が何度も何度も、「ね、お願い」と頼んで最後には受け入れてくれていたが、あれは本当に「受け入れて」くれていたのだろうか。ここに書かれているように、本心はいやでいやで仕方なかったのだろうか。
麻里香のことを、「男子に愛想がいいのは、男子にちやほやされるのが好きだから」と思っていたのだろうか。
麻里香に苛立ちを募らせ、不満を募らせ、縁を切ろうと思っていたなんて。そして、その気持ちを靴にぶつけていたなんて。
そんなことは信じたくなかった。
大人しくて地味でうつむきがちな奈津子。私の隣にいるのを許せるくらいには可愛い奈津子。私の言うことは最後には聞いてくれていた奈津子。そんな奈津子だから、ずっと一緒にいたのに。
この本に書いてあることが何もかもでたらめだったらいいのに。
けれど、確かに、あの日、結婚式の3日前に奈津子は家に来た。ちょうど母親が外出していたから、二人で昼過ぎからずっと最後の打ち合わせをしていたはずだ。そう思う。
――思う? どうして記憶が曖昧なんだろう。そういえば、ここに書いてあるとおり、奈津子が帰るときに見送りをした覚えがない。いやだ、私、最後の打ち合わせだっていうのに、どうしてあまり覚えていないのかしら。
「どうしました? 疑問は一つ解けたんでしょう? よかったですね」
いつの間にそこにいたのか、目の前にあの奇妙な男が立ってにこにこと笑っている。その人を食ったかのような笑顔に、麻里香は苛々した。
「なによ、なにが楽しくて笑っているの!? なにが楽しいのよ!? この本はなによ、奈津子がこんなこと考えていたなんて、知りたくなかったわ! 私は冴えない地味なあの子の友達になってあげたのよ、この私がよ。感謝するならともかく、何が不満だっていうのよ。いやだと思えばそう言えばいいじゃない、言いもしないで心の中は不満たらたらで、最後には靴を傷つけるなんて! あの靴、本当に高かったのよ、郁人さんからのプレゼントだったんだから。そのせいで、私は履きたくもないパンプスを履いて、走るはめになったのよ! 」
麻里香は、何よ、こんな本、と言いながら、バンっと本を床に叩きつけた。
奇妙な男は、それを見てゆっくりしゃがみ込み、本を拾った。そして、本を持ちながら麻里香を見つめた。
――!? 麻里香は思わずゾッとした。男の瞳が、緑色の瞳が、恐ろしいほど冷たく麻里香を見つめている。緑色の瞳の中に、麻里香の怯えた顔が写っている。
「――いけませんよ。本を粗末に扱っては。この本は、あなたの物語。あなたそのものなのですから――」
だから、この本はなんなのよ、なぜ私の心が、奈津子の心が書かれているのよ。まるで見てきたかのように。もうこんな本、読みたくない。早く私を帰して。私は郁人さんとの結婚式に行かなければならないの――。
麻里香のそんな心の叫びが聞こえているのかいないのか、男はうやうやしくお辞儀をしながら、続けた。
「まだですよ。まだ物語は終わっていません。『郁人さんはなぜ電話に出なかったのか。自分が時間どおりに来ていないのに、心配じゃなかったのか』さあ、続きをどうぞ」
麻里香は、苛立ちと焦りを感じながらも、「まだ物語は終わっていません」という男の言葉に恐怖を覚えた。
まさか。まさか、この本を最後まで読まなければ、私はこの店から出られないということなの? 「なぜ」「どうして」それが分からなければ、ここから出られない――?
麻里香は、男の手から再び本を取り、そしてソファに腰掛け、本を開いた。
「郁人の章」、そこにはそう書かれていた。
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