間章 その1

――何、これ。いやだ、どういうこと。私のことが本に書いてある。一体どうやって、こんなことが?


 麻里香は手にした本を見ながら、何とも言い難い気持ちに陥っていた。

本来ならば、不気味としかいいようがない現象を前にして、何なのこれ、とわめき散らしたいところだったが、一方で、なぜかこの本の存在を受け入れ始めている自分に気付いていた。


 本は、麻里香の主観で書かれている。麻里香が小学生や中学生の頃に周囲の女子から嫌がらせを受けていたこと、奈津子と親友になったこと、女子高や女子大に進学したこと、郁人と出会ったこと。それだけが書かれているならば、誰か麻里香のことをよく知る人物がいたずらか何かでこの本を作った、そう思うこともできる。けれど、麻里香が感じたこと、思っていたことは、一言一句間違いないかどうか記憶に自信がなくても、麻里香がいつも感じていたことだった。それを本に、文字にすることは誰もできない。

「自分は可愛い。キレイ。美しい。だから称賛されて当然」などと口に出して言えば、周囲からどう思われるか、どう反応されるか、それくらいは麻里香にも分かっていた。それは偽りのない本心だったが、同時に、誰にも言ったことがない、言えるはずもないものだった。

 それがなぜか、こうして本に描かれている。それは一体どうしてなのか。

理由は分からない、説明できない、けれど、麻里香は、この本はそういう本なのだ、と理解し始めていた。


 だが――それでも、見過ごせない、受け入れられないことが、最後には書かれている。

「階段を降り始めたそのとき」

「ドンっ」

「背中に強い衝撃を感じて、私は――」

 私は、私は一体、どうなったの? そう。慣れないパンプスを履いて、階段を降り始めた私。背中に感じた衝撃。前に押し出されるかのような強い力。押し出されるかのような――。


「いや・・・・・・、そんな、私、私はまさか・・・・・・」

 麻里香は「その瞬間」のことが脳裏にはっきりと浮かんで、いやいや、と小さな子供のように頭を振った。

ズキン。

 治まったと思っていた痛みがまた頭に響く。それと同時に思い出す。ふわり、とした浮遊感は一瞬のことで、視界がぐらり、と揺らぎ、次にとんでもない痛みが全身に走りながら歩道橋の階段を転がり落ちていったことを。周囲から悲鳴が上がり、「人が階段から落ちたぞ! 」「おい、誰か、救急車を呼んでくれ! 」という声が、薄れゆく意識の中で聞こえたことを。


 まさかまさかまさかまさか。まさか。私はあのとき、階段から落ちて、そして・・・・・・。


「違う! 」

麻里香は本をバンっと床に叩きつけ、そのまま店の扉に手を掛けた。そのとき。

「お客様、どちらに行かれるのですか? 」

と、後ろから声が聞こえた。正体不明の、赤い巻き毛に緑色のスーツを着た男が、笑顔を浮かべながら麻里香を呼び止めた。その人を食ったような笑顔に、麻里香はカッとなった。

「どこへ行こうと勝手でしょ! そうよ、思い出したわ、今日は私の結婚式なの。こんなところで本なんか読んでる場合じゃないのよ! 行かなくちゃ、行かなくちゃいけないの! 」

麻里香は男の声を無視して、扉のノブに手を掛け――

「あ、開かない、開かないわ、どうして! 」

ノブには鍵らしきものは何もなかった。鍵穴もロックも何もない。なのに、ノブを右に回しても左に回しても何の手応えもなく、ガチャガチャ、と扉を内側に引いても外側に押しても、全く開く気配がなかった。

麻里香は後ろを振り向き、男に対して、

「何よ、何してるのよ! 開けて、開けなさいよ! 私を閉じ込めようっていうの! 」と大声を張り上げて叫んだが、男は意に介さず、麻里香が床に落とした本を拾って、そして、まるで一流ホテルの支配人か、品のよい執事のように、麻里香に向かって優雅にお辞儀をした。

「まだ、本が途中ですよ」

そう言いながら、男は麻里香に再び本を差し出した。

「何よ、何よ! さっきから言ってるでしょ、私は本なんか読んでる場合じゃないの。早くしないと結婚式に間に合わないのよ! 」

麻里香は差し出された本を手で振り払おうとしたが、

「そうですか? 本当に? 」という男の一言に手を止めた。

そうですか、ですって? 本当に、ですって? それは、どういう意味よ。

男は、今度は笑顔を浮かべることなく、真剣な眼差しで、じっと麻里香を見つめている。その眼差しに、麻里香は思わずたじろいだ。


「お客様。あなたは、ここにいらした。ここに来るお客様は、皆さん、『なぜ』『どうして』そんな想いを強く抱えていらっしゃる。お客様、あなたもそうではありませんか? 」

「わ、私は別に、そんなこと・・・・・・」

「そうですか? あなたはこう思われたでしょう?『ママはどうして起こしてくれなかったのかしら』『こんなときに限って、いつもの靴に傷が付いていたのはどうしてかしら』『郁人さんはどうして電話に出てくれなかったのかしら』そして、『私が階段から落ちたのはどうしてかしら』それがあなたの強い想い。その想いが強すぎて、あなたは今こうしてここにいるのですよ」


 麻里香はその言葉にはっとなった。そう。そうよ。私、そう思っていたわ。走りながら、どうしてママは起こしてくれなかったんだろう。ママが起こしてさえくれていれば、こんなに走らずにすんだのにって思っていた。

 いつもの靴に傷が付いていなかったら、履き慣れないパンプスじゃなかったらもっと早く走れるのに、どうして傷が付いていたんだろう、そう思っていた。

 郁人さんはどうして電話に出てくれないんだろう、仕度をしているにしたって、約束した時間に私が来ていないのに、心配じゃないのかしら、私が電話をするより先に郁人さんから電話が掛かってきたって不思議じゃないのに、そう思っていた。

 そして――思ったわ。階段から落ちながら、「どうして、どうして階段から落ちたの。背中に感じた強い力は何? まるで誰かが私の背中を押したような――」そう思ったわ。


 麻里香は男を、そして、男が差し出した本をじっと見返した。

まるで抗えない力に導かれるかのように、麻里香の右手が本に伸びる。

「この本を、読めば」

「はい? 」男は麻里香の震え声に気付かないかのように、にっこり笑って首をかしげた。

「この本を読めば、分かるの? どうしてママが私を起こしてくれなかったのか。どうしてお気に入りの靴に傷が付いていたのか。どうして郁人さんは電話に出てくれなかったのか。そして、どうして私は階段から落ちたのか――、いいえ、違うわ。誰が私の背中を押したのか、それが分かるの? 」

「それを知りたければ、ぜひ、あなたの物語の続きを」

男は恭しく跪きながら、差し出された麻里香の右手にそっと本を乗せた。


 麻里香は震える手で乗せられた本のページをめくっていった。

もう、ここがどこで、この男が何者なのか、なぜ本に私のことが書かれているのか、なぜ私が考えていることが分かるのか、そんなことはどうでもいい。今はただ、知りたい、なぜ、どうして、こんなことになったのか。それを知らなければ、ううん、読まなければ、私はここから、本屋から出られない。麻里香は不思議とそう思っていた。


 ページをめくる麻里香の手が止まった。

「奈津子の章」

 そこには、そう書かれていた。

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