第2章 麻里香の章 その3
「麻里香、麻里香ってば! ねえ、聞いてるの? お式まであと1か月しかないんでしょ、早く決めちゃわないと、間に合わなくなるじゃない」
ぼんやりしていた私は、奈津子の声に我に返った。
いけない。そうね、式まであと一月しかないんだもの。
女の子たちからの嫉妬を避けるために女子高に進学したのはいいけれど、男の子たちがいないのはやっぱり退屈だった。私をうっとり見つめる目。赤くなってはにかんだ顔。そして、「君はかわいいね」と称賛する声。
それがないなんて、耐えられない。
だから私は、2年に進学した頃から、こっそり夜の街に遊びにいくことを覚えた。クラブには、私を求める男の子たち、ううん、男たちの視線があった。私の求める称賛の声があった。きれいだね。可愛いね。ねえ、俺と付き合ってよ――。
また、遅くまで遊び歩いて、もう、いい加減にしなさい。
そんなママの声には、はいはい、と答えながら、私はクラブ通いをやめる気はなかった。どうしてやめなくちゃいけないの。だって、私にはこれが必要なの。その代わり、学校では上手くやってるわ。先生の言うことを聞いて、試験もちゃんと平均点以上は取って、もちろん、女の子たちにもにこにこして、もう誰も私を攻撃したりなんかしない。
だから、いいじゃない、これくらい。だって、私は可愛いんだもの。キレイなんだもの。男たちが私を求めているんだもの。
けれど、大学に進学して、そろそろ就職活動を考えなくてはならなくなった頃、私はクラブ通いを卒業することにした。どこで誰がどうつながっているか分からない。毎日のようにクラブ通いをしているなんてバレたら、就職に差し支える。
それぐらいの分別は、身に付いていた。大丈夫。ほんのちょっとの辛抱。就職すれば、会社にはたくさんの男の人がいる。また称賛の日々が始まるわ。それに――いつまでも誰も選ばない、なんてことはしない。そう。私はお姫様なんだもの。お姫様には、それにふさわしい王子様が必要でしょう?王子様を選んだお姫様には誰も表立って攻撃なんてしないわ。それこそ、醜い嫉妬をしているって自分で言っているようなものだもの。
そして私は、大学卒業前に、無事、そこそこの企業に内定をもらい、就職した。そこにはたくさんの男の人がいた。いたけれど――なんてことだろう、私にふさわしい王子様はいなかった。皆、私よりうんと年上の既婚者ばかり。
だけど、私は焦らなかった。年上の既婚者だろうと、お局様と陰でこっそり言われている怖いベテランのおばさんだろうと、同性の先輩たちだろうと、皆ににこにこ笑って接していた。もう二度と、敵は作らない。攻撃されたりはしない。大丈夫。にこにこ笑っている、新人の女の子に悪意を抱く人なんてそうそういない。
それもまた、正しかった。私は可愛がられていた。男性社員にはもちろん、お局様だって私には優しかった。そう。やっぱり皆、可愛くてキレイなものは大好きなのだ――。
私はいつだって最後には間違えない。私の武器を最大限に利用して、そして、味方になる人を増やすのだ。いつか王子様が現れたときに、私を紹介してくれるように。
そして、私は出会った。彼に――郁人さんに。入社してから4年が経った日のことだった。
郁人さんは、新しく取引先になった会社の営業マンだった。私が部長室にお茶を出したとき、郁人さんは彼の上司と一緒にソファに座っていた。私がにっこり笑ってお茶を渡すと、彼は顔を赤くしていたっけ。そう、これまでの他の男と同じに。
「松下くん、ちょっといいかな」
打ち合わせが終わった後、部長が私を呼んだ。なんでしょう、そう言いながら私には分かっていた。とうとう来たわ、王子様が私を求めている、私には分かる。
「今日来た取引先の○○社の方なんだけどね。若い方の人、君、覚えてるかな? 」
ええ、もちろん。私はにっこり微笑んだ。
「麻里香ったら、またぼんやりしてる。幸せなのは分かるけど、私が時間を取れるのはそんなにないんだから、今日こそお式の進行を決めようよ」
いけない。また、ぼんやりしていたわ。
顔を上げると、奈津子が困ったような表情で私を見つめている。
「ごめんね、奈津子。つい、郁人さんのことを思い出していたの」
「もう、惚気ないで。それに、結婚したら、いつだって郁人さんと一緒にいられるでしょう」奈津子はため息をつきながら、手元にある列席者のリストをめくった。
奈津子との付き合いは、大学を卒業しても続いていた。私たちは同じ高校に進学し、そしてそのまま付属の大学も一緒に進んだ。奈津子にはいつも助けられた。授業で分からないことがあったとき、テストの前、そして、クラブ通いをママに咎められてからは、時々、「奈津子のところで勉強してくるわ」と嘘を言って出掛けて、アリバイ作りに協力してもらった。いつだって私を助けてくれる親友。大人しくて可愛くて、私の横にいるのがふさわしい親友。そして、今度も私を助けてくれる。
私は、結婚式の司会を奈津子に頼んでいた。奈津子は、「そんなの無理よ、プロに頼んで」と遠慮していたけれど、お願い、と頼み込んでいたら最後には折れてくれた。学生時代のときのように。
「――本当を言うとね、少し意外だったの」
「え? 」何が? きょとんとする私に向かって、奈津子が言う。
「郁人さんのこと。ごめん、気を悪くしないでね。麻里香は、その、昔よくクラブに通っていたでしょう。てっきり、ああいう派手なことが好きな人と付き合うんだとばかり思っていたの。でも、郁人さんは、そんな風にはとても見えないし、なんていうか、まじめで堅実よね。だから、意外だったの」
何を言い出すのかと思ったら、そんなの、当たり前じゃない。
私は、ちゅるちゅる、とアイスティーをストローですすりながら、奈津子に呆れた。
私がクラブに通っていたのは、称賛の視線が、声がほしかったからよ。私のことを可愛い、キレイだと言ってくれる、私を満足させてくれる人たちがほしかったから。でも、それだけよ。あんなちゃらちゃらした連中の中に、私を大切にしてくれる王子様がいるわけないじゃない。
奈津子の言うとおり、郁人さんは良く言えばまじめで堅実、悪く言えば地味で大人しい人だった。そう、まるで奈津子のように。けれど、見た目は悪くないし、その見た目どおり堅実で派手なことに無縁で、優しくて、私の言うことはなんでも聞いてくれる。私が望めば、ちょっと困った顔をした後、「分かった、いいよ」と言ってくれる。ごめんね、わがまま言って。そう言ってにっこり私が笑えば、顔を赤くして、いいんだよ、と受け入れてくれる。その寛容さと、そして、堅実さが実を結んで、会社でも順調に出世していっている。30代前半で主任なら、大したもの。そして何より、私を可愛いね、と見つめてくれるあの眼差し。
大切なことはそういうことよ。まじめで堅実で、そして私を称賛してくれる、私を経済的にも精神的にも満たしてくれる。だからこその王子様なんだもの。
「麻里香ってば、いい加減にして、郁人さんの話をした私が悪かったわ、さ、早くゲストスピーチの順番を決めちゃいましょ」
奈津子が少し苛立ったように声を上げたので、私は、珍しいわね、と思いながら、はいはい、と奈津子が手にした資料を覗き込んだ。
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