第1話 山岸の章
「おい、瀬上、なんだそのヨレヨレのシャツは。いいか、社会人の基本は身なり服装だぞ。ワイシャツにはちゃんとアイロンを掛けろ、靴を磨け。身なりがきちんとしているってことは、細部に気を遣える人間だってことで、取引先に安心感を与えるんだ」
俺の言葉に瀬上はぷうっとふくれっ面をしながら、「分かりました」と言った。
――やれやれ。こいつはまだまだ学生気分が抜けないなあ。手の掛かるやつだ。
そう思いながらも、俺、山岸良治は入社後に指導係をすることになった、こいつ、瀬上昭吾がかわいくて仕方がなかった。
俺は入社して7年になるが、指導係になったのはこれが初めてだ。
学生時代はずっとラグビーをやっていて、先輩後輩の上下関係に揉まれてきた俺にとって、先輩からの指導は時につらく、時にありがたく、そして自分が後輩の世話をするのは、人を育てる喜びがあって楽しく嬉しかった。
先輩から教わったことを後輩に伝え、後輩がまたそれを次の後輩につなげていく。そして皆で一つになって試合に取り組む。レギュラーだろうとベンチだろうと関係ない。皆が一緒になって、次の試合ではどうしよう、こうしよう、ああしよう、とそれぞれがやりたいこと、思うことを言い合って、取り入れて。そうして迎えた試合は勝とうが負けようが精一杯やり遂げた、そんな充足感でいっぱいだった。
しかし社会人になってからというもの、自分の仕事に手が一杯で、後輩に指示やその場限りの指導をしても、「自分が学んだことを次に伝える。育てる」という経験から遠ざかって久しくなっていた。
そんな俺に初めて任された指導係。俺なりに、教わってきたこと、学んできたことをこいつに、瀬上に伝えよう。
そう意気込んでいたのはいいが、ラグビーとは勝手が違うので俺も四苦八苦、試行錯誤の日々だ。
さっきみたいに小言めいたことを言ってしまい、瀬上にふくれっつらをされる始末。
しかし、社会人としてはダメだが、感情を素直に表に出す瀬上は、なんだか学生時代を思い出して、そのダメなところも含めて、手が掛かるほど俺にはかわいい後輩だった。
とはいえ、いつまでも小言みたいなことばっかりも言っていられない。瀬上が入社してもう半年が経とうとしている。少しはあいつにもやりがいとか達成感を味合わせてやりたい。一つの仕事を、一緒にやり遂げる楽しさを、喜びを――。
「そういうのって、今時の若い子には通じないんじゃない? 暑苦しいって思われないかしら」
カミさんががっかりさせるようなことを言う。
「そうかなあ、って、俺たちもまだまだ若いだろ、おい」
「そっか、えへ」
カミさんがペロッと舌を出す。
「俺、もうちょっとあいつに頑張ってほしいんだけどな。俺の言うことは細かいのかなあ。あいつって、いっつもふくれっつらするんだよな。大事なことだと思うんだけどさ」
酒の肴のたこわさをつまみながら、俺は悩んでいた。うまい。あー、俺もこんなもんがうまいと感じるようになったか。若いと思っていたが、こうやって年を取っていくのかな。
「自分で考えさせてあげれば? 」
「うん? 」たこわさに舌鼓を打っていた俺に、カミさんがそうつぶやく。
「あなた、ああしろこうしろって言いすぎなんじゃない? 自分で考えさせてあげて、それで本人が考えてきたものに色々と教えてあげればいいじゃないの。その方が、押し付けにならなくていいかもよ」
うーん、なるほど。そういや、俺も瀬上には細かくあれこれ言いすぎていたな。あいつにとっては、うるさく言われてばっかりって嫌気が差していたかもしれない。
よし、今度の会議の資料、あいつのアイデアも取り入れてみるか。
と、決心して会議の資料を任せてみたはいいものの。
瀬上は一生懸命やってる、やってはいるが、どうも瀬上自身がどういう資料を作りたいのか見えてこない。俺に素直に「教えてください」とは言うが、それよりも俺は瀬上自身に考えてもらいたかった。
だから、「お前は、どうしたいんだ」と言うと、瀬上はきょとんとした顔をするばかり。
うーん、この言い方じゃ通じないか。まいったな、俺も最初にちゃんと意図を説明してやればよかった。そのせいか、瀬上も昨日はさっさと帰ってしまったし。
まずい、このままだと会議に間に合わないぞ。
俺は机の引き出しから、そっと俺が作った資料を取り出した。本当は、資料はとっくに出来上がっていた。これをそのまま使うのは簡単だ。けれど、よく言えばまとまっているが、悪く言えばありきたりの資料を使うよりも、新人の、これまでの考え方に囚われない、瀬上自身の考えを取り入れて、面白い資料にしたかった。
しかし、瀬上の資料は、これまで使われた資料をそのまま使い回したり、アレンジしたものばかり。それはそれで無難で悪くない、悪くはないが、求めているものはそうじゃない。
「おい、瀬上。今日こそ会議の資料を仕上げろよ」
出社してきた瀬上に、俺はそう声を掛けながら、頼むぜ、頑張ってくれ、と心の中で祈った。
「できました」
そう言って、瀬上が午前中いっぱい掛かって手直しした資料は、確かにグラフは見易くなり、レイアウトは多少すっきりしていた。けれど――。
「だめだ。お前、昨日俺が言った意味、分かっていないだろ」
今回の会議は、新規開拓の顧客をターゲットにしている。だから、それまでの資料を参考にするのはいいが、顧客にとって、新商品の魅力を伝えることが一番大切で、我が社の商品を手に取ったことがない相手にも、その商品を使うとどこがどう生活に取って便利になるのか、それを分かりやすく伝えるようにしないといけない。
瀬上の資料は、新規顧客の立場になって考える、という視点が欠けているのだ。だから昨日は、このグラフやレイアウトでは伝わらない、そう教えたつもりだったんだが――。
「すみません、教えてください」
そう言いながら頭を下げる瀬上に、
「お前は、どうしたいんだ」ともう一度俺は言った。
「瀬上、お前はどうしたい。お前が客なら、どんな風に商品の説明をしてもらいたい。お前はこの間まで学生だった。今回の顧客ターゲットは10代後半から20代前半の若者だ。お前が一番ターゲット層に近いんだ。だから、お前が顧客なら、どんな風に説明されれば、この商品を買おうと思う? そういう視点で考えてほしいんだ、分かったか」
「分かりました」
瀬上はそう言って自席に戻った。
ちょっと難しかったかな。
いざとなれば、俺の資料も見せてやって、この資料にお前の作った資料も足したいんだ、と説明してやろう。最後には、助け合えばいいんだ、俺にも足りないところがあるから、お前も助けてくれ、そう言ってやろう。そうしたら、きっと瀬上もやりがいを感じてくれるだろう。それでダメなら、また、違う方法を考えればいいさ。
俺はのんびりと瀬上を育てていくことにした。
やれやれ、もう5時か、早いな。
俺が見る限り、瀬上はまだ資料に悪戦苦闘していたが、今日はさすがに残って仕上げる覚悟ができているようだ。ふと見ると、瀬上は席を外していたが、トイレにでも行ったのかな、そう思いながら俺も缶コーヒーでも買いにいくか、そうだ、瀬上にも何か買ってやろう。あいつは何が好きなのかな、そう思いながら俺は席を立った。
自動販売機がある休憩室に向かう俺に、後ろから同僚の田中が追いかけてきた。
同僚といっても、こいつも俺にとっては後輩に当たるが、直接指導してやったことはないので、なんとなく、後輩というよりは「年下の同僚」という意識がある。
「山岸さん、俺も休憩行きます」
休憩に行くわけじゃなく、缶コーヒーを買いにきただけだよ、という俺に、なんだそうですかと言いながらも田中がついてくる。
「しかし、山岸さんも厳しいですね。あれじゃ瀬上が可哀想なんじゃないですか? 」
俺は、瀬上が好きそうなもの――確か、あいつはいつもカフェオレを飲んでいたな――を探しながら、チャリン、チャリン、と硬貨を入れて、カフェオレのボタンを押した。
ピッ。ガタン。
自動販売機の音に紛れながら、
「いいんだよ、あれで」
と俺は田中に答えた。
そうか、田中には瀬上が可哀想に思えるのか。俺もまだまだだな、ちゃんと周りにも分かるように指導しないとな。
「そうですか? だって、あの会議の資料、本当はとっくに山岸さんが完成させているんでしょ? だったら、何もわざわざ、瀬上にもう一度やらせなくっても」
「まあな、確かに資料は俺が作ったのがあるんだけどさ」
だけど、それじゃ完成じゃないんだよ。瀬上が作ったものを合わせて、それで完成なんだ。
そう言い掛けた俺だったが、その言葉を口にする前に、
「山岸先輩!どういうことなんですか! 」
と、突然、自動販売機の影から飛び出てきた人物が俺の胸ぐらに掴みかかった。瀬上。
「お、おい、瀬上、お前、いたのか。今の、聞いていたのか――」
「どういうことかって、聞いてるんですよ! 」
俺よりも10センチメートルは低い、俺からすると子供のように見えるあどけない顔が今は泣きそうな表情を浮かべて歪んでいる。
その表情を見て、分かった。俺はバカだ。瀬上を傷つけちまった。
「おい、瀬上、落ち着けって」と田中が瀬上の手を俺から引き剥がした。
反動で瀬上はふらついて床にしりもちをつく。
「瀬上、大丈夫か―― 」
俺が差し出した手を、瀬上は、パンっと振り払った。
「瀬上、話を聞けって」俺はなんとか瀬上を落ち着かせようと思って声を掛けたが、瀬上は、
「俺、体調が悪いんで帰ります。いいですよね、だって、資料はとっくにできているんですから」
と言い放ち、立ち上がって、背中をくるり、と向けた。
「おい、瀬上、待てよ―― 」
俺は瀬上を引き留めて説明しようとしたが、瀬上は振り返らずにそのまま休憩室を出ていってしまった。
「山岸さん、大丈夫ですか。すみません、俺、余計なこと言ってしまって」
と俺に謝る田中に、
「いや、いいんだ、俺がちゃんと瀬上が分かるように説明してやれなかったからな。分かった、と思っていたけれど、それじゃダメだよな。あいつの言い分も聞いてやればよかった」
そう。もう少し、瀬上の言いたいことをちゃんと聞いてやればよかった。
あいつはいつも「分かりました」と言っていたけれど、指導係の俺にはそう言うしかなかったのかもしれない。
俺は事務室に戻ったが、瀬上の姿はなく、鞄もなかった。本当に帰ってしまったのか。
仕方がない、明日、ちゃんと話をしよう。そうすれば、あいつも分かってくれるさ。分からなかったら、分かるまでちゃんと話をしよう。あいつの話も聞いてやろう。
そう、明日になったら、あいつもきっと冷静になっているさ。
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