第1話 理佐の章

トゥルルルル。トゥルルルル。スマホの画面には、「昭吾」の文字が表示されている。

私は、ちょっとためらいながら、通話ボタンをタップした。

「あ、理佐、ちょっと聞いてくれよ、あのさ――」

「もしもし」と私が言う前に、昭吾はいきなり話し出した。

またか。


私、下川理佐と昭吾との付き合いはかれこれ4年になる。大学で入ったサークルで知り合ったのが縁で、私と昭吾は付き合い始めた。

付き合い始めたきっかけは何だったろう。人懐こくて、どこか甘えん坊の昭吾は、同い年だというのにまるで弟みたいに私によく頼って甘えて、私もそんな昭吾が可愛くて、いつも昭吾が「聞いてくれよ、理佐~」と言ってくるたびに、「なあに?」とよしよし、と話を聞いて甘やかしてきた。それで何となく、付き合いが始まったような気がする。

根っこは素直で優しい昭吾。付き合い始めてからも私と昭吾の関係は変わることなく、昭吾が私に甘えてきては私がそれを聞き、話を一通り聞いてあげた後には「聞いてくれてありがと、理佐! 俺、もうちょっと頑張るよ」と言う昭吾が、私は好きだった。

付き合いが4年にもなると、さすがに付き合い始めの頃のように、声を聞くだけでドキドキする、なんてことはなくなったけれど、気心は知れていて、居心地のいい関係になっていた――はずだった。お互い就職して、働き出すまでは。


「―でさ、その先輩がこう言うんだよ。『指示された期限までに資料ができるように、ちゃんと残業しろ』ってさ。冗談じゃないよ、残業なんて今どき流行らないじゃん、今は、定時に帰ってさ、プライベートを充実させる方が大事じゃん――」


またか。最近の昭吾は、『山岸先輩』の愚痴ばかり話している。

「でさ、こう言うんだよ、『社会人の基本は身なり服装だ。ワイシャツにはきちんとアイロンを掛けろ、靴を磨け』ってさ、お前は小姑かっての」

「『資料は縦横揃えてからホチキスで留めろ』だってさ、いちいち細かいんだよ」

「『取引先を出るまで気の緩んだ顔をするな』って、誰もそこまで見てないっての」

私はその度に、

「身なり服装は大事だよ。やっぱり相手に与える印象が違うもん、私もシャツにはいつもパリッとアイロンを掛けるようにしているよ」

「そっか、確かに細かいけど、資料は縦横揃えた方がいいんだね」

「うーん、でも、私も取引先の人がミーティング終わるなり、『さ、終わった終わった』って顔してるの見たことあるよ。あれはちょっとな、って思った」

とアドバイスした。

昭吾の話からすると、確かに『山岸先輩』は細かいところがあるようだ。

けれど、言っていることは、なるほど、ごもっとも、と納得できるし、社会人としての基本を教えてくれて、むしろ、いい先輩じゃないのと私は思っていた。

もっとも、毎日直接言われているのと、人伝えに聞くのとじゃ受ける印象が違うのかもしれないけれど、でも、昭吾のためになることだよ、と分かってほしくて『山岸先輩』の言うことをかみくだいて説明したりもした。

だけど、昭吾はただ愚痴りたかっただけみたいで、私の言うことには反応せず、いつも最後には「今日も聞いてくれて、ありがと! 」と言って一方的に電話を切るだけだった。


「―今日だって6時まで残ったのに、俺が帰ろうとしたら、『おい、もう帰るのか』ってさ。知るもんかって思って『すみません、用事があるんです』って言って帰ってきちゃった。先輩ときたら、ただでさえ怖い顔がまるで鬼瓦みたいになっちゃってさ――」


昭吾の話は終わりそうにない。

私が何を言っても聞き流すだけの昭吾にうんざりしていて、私はもう昭吾にアドバイスをする気も相づちを打つ気にもなれなくて、スマホはテーブルの上に置いたまま、スピーカーホンにして、明日着ていくシャツにアイロンを掛けていた。

『社会人の基本は身なり服装』だもんね。

けれど、時計の針は8時を回っていて、明日は早番で朝6時出勤だったから、もうこれ以上は付き合うのは無理、と思い、

「ごめん、私、明日の朝、早いんだ。そろそろ、いいかな」

と、言って電話を切ろうとした。昭吾は、

「え、もうちょっといいじゃん」

と引き留めようとしたけれど、私は「ごめんね」と言いながら電話を切った。


ああ、疲れちゃったな。

いつからか、私は昭吾の話を聞くのが苦痛になっていた。

『残業なんて流行らない』、か。

確かに今時は無駄に残業するより勤務時間内に仕事を終わらせて早く帰りましょう、という風潮になっている。私が就職した会社もそうだった。

けれど、それはやらなきゃいけないことを放り出してでも帰りましょう、という意味じゃないはずだ。

スピーカーホンを通して聞こえた『知るもんか、って思って帰ってきちゃった』という昭吾の言いように私は段々腹が立ってきた。


昭吾は自分が恵まれているってことに気付いてないのかしら。

入社してまだ半年、それなのに会議の資料を任せられるなんて。私にはそんな仕事、全然回ってこない。

会社の上司や先輩は口うるさくない。仕事は教えてくれるけれど、失敗でもしない限り細かくあれこれ言ってくることはない。昭吾だったら、「いいな、羨ましい」って言うんだろうな。

でも、その分、何かを任せてくれるなんてことはない。

この間も、先輩たちが忙しそうにしていたから、「何かお手伝いしましょうか」と言ったら、「あなたにはこれは早いから」と素っ気なく言われてしまった。

今はただ、言われたことをこなすだけ。それだけの日々。それでも覚えることもやることもいっぱいあった。そんな私が何か手伝うなんておこがましかったのかもしれない。それでも、「あなたにはまだ無理でしょ」と言われたような気がして、悔しかった。

早く一人前になりたい、そう思った。

昭吾はいいじゃない。「お前はどうしたいんだ」って聞いてくれるという先輩。それってつまり、昭吾の考えを聞いてくれようとしてるってことでしょう?

私なんて、「こうして」「ああして」「言われたとおりでいいのよ」としか言われない。私の意見なんて、考えなんて最初から求められていない。

それなのに、残ってくれている先輩を放って帰ってくるなんて。


昭吾がここまで甘ったれになってのは、私のせいかもしれない。私がよしよし、と何でも聞いてきたから。受け入れてきたから。そして――昭吾が私のアドバイスを聞き流しているのに気付いていたけど、それでもいいか、と深く追求しなかったから。


そうしている内に、昭吾とのズレはとても大きくなってしまった。

一度、ちゃんと時間を取って話をしなきゃだめよね。

私はアイロンを掛け終えて、ピンっと綺麗になったシャツに満足しながらそう考えた。


次の日は朝6時から働いていて、昼を過ぎた頃にはなんだか疲れてしまっていた。正直言えば、今日はもう早く帰りたいな、と思っていた。

けれど、そんな私に、上司である主任が声を掛けてきた。

「次の企画、あなたに考えてもらおうと思うの」

え!?い、今、何て?

「ちょっと早いかなって思ったんだけど、下川さん、頑張っているものね。でも、言われたことばっかりやるのはそろそろつまらないかなって思って」

ドキ。自分の心がお見通しだった気がして、主任の言葉に私はぎくり、とした。

「小さい企画だし、もちろん、先輩たちも補助するけれど、あなたがやりたいことをまずは考えてみて」

「は、はい、ありがとうございます! 」

「しばらくは残業よ、覚悟してね」

「はい! 」

やった!疲れて帰りたい、そう思っていた気持ちなんて吹っ飛んでしまった。

私は席に戻って、早速、共有のクラウドから過去の企画や資料を見ることにした。


とっくに5時は過ぎていたけれど、私は資料作りに夢中になっていた。

そのとき、私は机に置いたままのスマホがチカチカと光っていることに気付いた。

仕事中はサイレントモードにしているので、分からなかったけれど、スマホをタップすると何回か着信があったみたいだ。

着信は全て「昭吾」。

何これ。5時頃から何回も着信記録が残っている。

何やってるのよ、昭吾。もう仕事が終わったの?それにしたって、なんでこんなに着信が?

と思っていると、また昭吾から着信があった。

私は席を外して廊下に出て、そしてスマホの画面をタップした。

「――はい」

「理佐? なんで出てくれないんだよ! まあいいよ、聞いてくれよ、理佐、ひどいんだよ――」

電話の向こうから、相変わらず私の都合なんてお構いなしにまくし立てる昭吾の声が聞こえてきた。

プツン。

その瞬間、私の中で何かが切れる音がした。

『なんで出てくれないんだよ』ですって?そんなの仕事中だからに決まっているじゃない。

『まあいいや、聞いてくれよ』ですって?私の都合なんてお構いなしってわけ。

いい加減にしてよ、私はあんたのお母さんじゃないのよ。

「私、仕事中なんだよ」

我ながら、心底冷たい声だな、と感じたけれど、もういいやと思った。

今まで昭吾を甘やかしてきた。それは私が悪かったと思う。けれど、昭吾はもう大人だ。社会人だ。私にも責任はあるけれど、昭吾が甘ったれなままなら、もう一緒にはいられない。いたくない。

「し、仕事中って、とっくに5時を過ぎてるだろ、ちょっとくらい、いいじゃないか」

うろたえた昭吾に向かって、私は、

「私は仕事中なの。分かる? 私は、残業なんて流行らない、なんて思ってないの。まだ新人で、やることも覚えることもたくさんあるの。だから残業は嫌だけど、でも、ちゃんと仕事をやりたいの。昭吾とは違うの」

と言い放った。

「お、俺とは違うって、どういうことだよ、俺だってちゃんと仕事をしてたよ、だけど山岸先輩が――」

まだ言うか。最後まで、私の話は聞いてくれなかったな。

「別れよう。もう限界」

プツ。

私は電話を切った。

これで、4年間の付き合いは終わり、か。

胸がちくり、と痛んだ。昭吾の子供みたいな笑顔を思い出して、涙がじんわりとにじんだ。

でも、もういい。

今の私に、昭吾は必要じゃなくなっていた。

今の私に必要なのは、任せてもらった仕事を頑張ること。

そう思って、私はスマホを片手に、仕事に戻ることにした。

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