間章 その1
「なんだよ・・・・・・これ・・・・・・」
昭吾は、手にした本を思わずバンっと閉じ、そしてガタガタ震えた。
「昭吾の章」だって?
なんだよ、これ。
思い出した、これはついさっき、俺に起こった出来事じゃないか。
そうだ、俺は、山岸先輩からされたことや理佐からの別れ話で頭がいっぱいになって、ろくに周りを見ていなくて、信号も見ていなくて、そして走ってきた車に――。
「どうしました? 」
呆然としている昭吾に、奇妙な格好をした男が、不思議そうに、しかし笑顔を浮かべながら尋ねる。
その、人を食ったような笑顔に、昭吾は思わずカッとなり、
「どうしました? じゃないだろう、この本は一体なんなんだ! これは、さっき俺が経験したことだ、なんでそれが本に書いてあるんだ! それに、俺はさっき車とぶつかって――」
そう言い掛けて、昭吾は気が付いた。
そうだ、俺は走ってきた車に気付かず、ぶつかった。跳ねられた。
そして、それからどうなった?車に跳ねられた後、どうなった?
なぜ、俺はこんなところにいる?
記憶が飛んでいるのか?
「おい」
昭吾は、奇妙な格好をした男に向き直った。
「はい? 」
相変わらず、その男は人を食ったような笑顔を浮かべている。
「ここは、どこなんだ? あんた、誰なんだ? この本は何なんだ? 」
昭吾からの矢継ぎ早の質問に臆することなく、男はにっこりと微笑み、そして、
「ここは本屋です。私は店主です。その本は――申し上げましたとおり、あなた様の本、あなた様の物語です」
と答えた。
そして、まるで一流ホテルの支配人か、どこかの富豪の家に仕える執事のように、赤い巻き毛の緑のスーツを着た奇妙な男――店主は、丁寧にお辞儀をした。
「本屋だって!?そりゃ、そうだろうよ、これだけ本が並んでりゃ、ここは確かに本屋なんだろうさ、ああ、分かったよ、あんたも店主なんだろうさ、だけど、だけど俺が聞きたいのはそういうことじゃない! なんで車に跳ねられたはずの俺が、こんなところにいるんだってことだよ! 車に跳ねられた後、俺はどうなったんだ、無事だったはずがない、すごい衝撃だった、はっきり思い出せる! なのに俺は今、こうしてここに無事でいる、ってことは、事故に遭った後の記憶がないか、それとも俺は、死――」
自分でも自分が止められず、勢いよくまくし立てながら、突然、昭吾はその恐ろしい、考えたくもなかった言葉を口に出しかけて、そして、口ごもった。
それは、想像すらしたくもなく、しかし、頭の片隅で薄々考え始めていたことだった。
見覚えのない街並み。なぜ自分がそこにいるのか分からない、ぼんやりとした奇妙な感覚。
小さなコテージのような本屋。あり得ない程の本、本、本の山。
実に奇妙な、ハロウィンの仮装でもしているかのような店主。
そして、「瀬上昭吾」というタイトルの、つい先ほど経験したばかりの出来事が書かれた本。
まさか。まさか、自分は―んだのか?そして、ここはまさか、―の世界?そしてさっきの本は、もしかして、人が―の前に見るという、走馬灯――?
「いいえ、違いますよ」
まるで昭吾の頭の中の声が聞こえたかのように、昭吾の背後から店主が耳元で囁く。
「違う――? 」
藁をも掴むような気持ちになり、昭吾は思わず声を漏らした。
「そう。今は、まだ」
今は、まだ。その言葉に、途端に昭吾の気持ちは深く沈む。
今は、まだ、―んでいない。それはつまり、もうすぐ俺は――
「ここは、特別なお客様だけがたどり着ける場所。なぜ、どうして、そんな気持ちを強く抱いた方だけが、ここにいらっしゃるのです」
なぜ。
どうして。
それは、自分が周りも見ずに、ただふらふらと歩いていたからだ、と昭吾は思う。
昭吾は、今や完全に、「その瞬間」のことを思い出していた。
まぶしい光の中、一瞬見えた、運転席の顔。ものすごく驚いた、信じられない、そんな顔をしていたような気がする。運転手にしてみれば、突然、昭吾が信号を無視して道に飛び出してきたように思えたに違いない。とんでもない災難だ。それでも人を跳ねたら、運転する側が悪いと責められるのだから。
こんなことになったのは、他ならない、自分自身のせいなのだ、と昭吾は自分でも意外なほど冷静に受け止めていた。
「いいえ。そうではなく、あなたは思ったでしょう?『どうして山岸先輩はあんなことを? 』『どうして理佐は急に別れ話を? 』そのことであなたは頭がいっぱいだった」
なぜ、自分の考えていることが分かるのか。
なぜ、山岸先輩や理佐のことを知っているのか。
今さら、驚く気にはなれなかった。そう、この店主は最初から知っていたじゃないか、俺の名前を。
「ありましたよ、あなたの本! 」
そう言ったじゃないか。
こいつには、最初から何もかもが分かっていたんだ。
昭吾は、不思議なことに目の前のできごとを受け止め始めていた。
否。
あまりにも現実からかけ離れた出来事が次々起こったせいで、感覚が麻痺していたのかもしれない。
そんな昭吾にかまわず、店主はくるくるとその場で踊るかのように回り、そして、両手をぱっと天井に広げた。
「ここは、そんな想いがあまりに強く、どこにも行けないでいる方のための本屋! 自分に何が起こったのか、なぜ、どうして、そんな気持ちが強すぎる方に、『あなたの物語』を読んでいただくための本屋! さあ、お客様、ぜひとも続きを! 」
まるで芝居の口上のように、店主はそう言って、再びお辞儀をした。
昭吾は戸惑った。
『あなたの物語』?でも、俺の物語はもう――。
「ございますよ。まだ、続きがございます」
全て筒抜けか。うっかり考え事もできやしないな、昭吾はそう思いながらも、「続き」という店主の言葉に、手の中の本をもう一度開いた。
「理佐の章」
そこには、そう書かれていた。
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