第1話 昭吾の章 その3

「おい、瀬上。今日こそ会議の資料を仕上げろよ」

出社して早々に山岸先輩の声が響く。はいはい、分かりましたよ、と思いながら、俺はパソコンを起動した。

山岸先輩は、俺より7歳年上で、俺の指導係だ。

俺が入社してからというもの、

「いいか、社会人の基本は身なり服装だ。ワイシャツにはちゃんとアイロンを掛けろ、靴を磨け。身なりがきちんとしているってことは、細部に気を遣える人間だってことで、取引先に安心感を与えるんだ」

「資料は縦横きちんと揃えてからホチキスで止めろ」

「取引先を出るまでは気の緩んだ顔をするな。相手は意外とこちらを見ているぞ」

と、まるで小姑か、というくらいに細かいことにうるさい。

学生時代にラグビーをやっていたとかで、見た目はがっしり岩男、顔も厳つくて怖い、声も大きい。

中高時代は帰宅部で緩く遊んでいた俺にとっては、どうにも体育会系のノリの、けれど仕事には細かいこの先輩が苦手だった。

ふうっとため息をつきながら、俺は会議の資料に取りかかる。昨日も途中までできた資料を見せたはいいが、グラフの大きさやレイアウトの方法にダメ出しをくらい、それでうんざりしてしまって、残業してまで資料を仕上げる気にはならず、早々に帰ってしまった。

理佐には「残業なんて流行らない」とは言ったものの、本当は、時には残業してでもやらなきゃいけないことがあると分かっていた。けれど、ちょっと時代遅れじゃないか?という山岸先輩への反発もあって、あんな風にうそぶいてしまった。

でも、今日こそちゃんとやらなきゃな。俺はグラフの大きさを変えるにはどうすればいいんだっけとマニュアルをめくりながら、資料の手直しを始めた。


「だめだ。お前、昨日俺が言った意味、分かっていないだろ」

午前中いっぱい掛けてようやく訂正した資料を見た山岸先輩は、あっさり、そう言った。

「昨日言った意味」だって?グラフが分かりにくい、レイアウトがダメだ、そう言うからグラフの大きさは直したし、並べ替えだったしているじゃないか、何がいけないっていうんだ。

けれど、さすがに指導係の先輩にそんなことは言えなくて、俺はぐっと我慢して、

「すみません、教えてください」

と頭を下げた。

けれど、山岸先輩は、

「お前は、どうしたいんだ」と言うだけだった。

どうしたいか、だって?決まってるよ、今すぐこんなくだらない資料作りなんてやめてしまいたい。こんなの誰が作ったって同じじゃないか。それでも一生懸命、言われたとおりにやってるんだ。それなのに、だめだと言うなら、あんたが作ったらいいじゃないか――。

「―だ、分かったか」

しまった。あんまり悔しくて、先輩が何を言ったのか聞き逃してしまった。

けれど、もう一度お願いします、と尋ねる気にはなれなくて、俺は、

「分かりました」

と言って席に戻った。


――ふう。疲れたなあ。今日はさすがに、気合い入れて残業するかあ。

そう覚悟して、休憩ルームから出ようとした俺だったが、出入口から山岸先輩と、別の先輩――同じ部署の田中さん―が入ってくるのが見えて、慌てて自動販売機の陰に隠れた。

――まずい、サボっているの、見られたかな?

「しかし、山岸さんも厳しいですね。あれじゃ瀬上が可哀想なんじゃないですか? 」

自分の名前が出て、俺はドキッとした。

チャリン、チャリン。ピッ。ガタン。

自動販売機の音に紛れながら、

「いいんだよ、あれで」

と山岸先輩の声が聞こえる。

何が、いいんだよ、だ、そう思っているのはあんただけだ。田中さんだって、俺が可哀想だって言ってるじゃないか――。

「そうですか? だって、あの会議の資料、本当はとっくに山岸さんが完成させているんでしょ? だったら、何もわざわざ、瀬上にもう一度やらせなくっても」

「まあな、確かに資料は俺が作ったのがあるんだけどさ」

――なんだって!?今、何て言った!?とっくに資料は作ってある?それじゃ、俺に資料を作らせてたのは何だったんだ?無駄な作業をさせてたってことか?何のために――

「山岸先輩!どういうことなんですか! 」

俺は思わず飛び出して、山岸先輩の胸ぐらに掴みかかった。

「お、おい、瀬上、お前、いたのか。今の、聞いていたのか――」

「どういうことかって、聞いてるんですよ! 」

俺より遥かにがっしりした体格の、大きな岩のような先輩は俺に掴みかかられてもびくともしないが、その顔はばつが悪そうに歪んでいた。

その表情を見て、分かった。全部、本当のことなんだ。

「おい、瀬上、落ち着けって」と田中さんが俺の手を山岸先輩から引き剥がした。

反動で俺はふらついて床にしりもちをつく。

だけど、山岸先輩はびくともせず、微動だにしていなかった。

ちくしょう。バカにしやがって。

「瀬上、大丈夫か―― 」

山岸先輩が差し出した手を、俺は、パンっと振り払った。

「瀬上、話を聞けって」と言う山岸先輩に向かって、

「俺、体調が悪いんで帰ります。いいですよね、だって、資料はとっくにできているんですから」

と言い放ち、俺は立ち上がって、背中をくるり、と向けた。

「おい、瀬上、待てよ―― 」

背後から山岸先輩の声が聞こえたが、俺は振り返らずにそのまま休憩室を出て、事務室に置いてあった鞄を持って、退社した。

かまうもんか。どうせ、5時は過ぎている。


俺は道を歩きながら、理佐に電話した。

トゥルルルルル。トゥルルルルル。

理佐。理佐。声が聞きたい。話を聞いてほしい。こんなのってない。頑張ったのに、それが無駄だったなんて。分かっていて、俺に無駄な作業をやらせてたなんて。今まで、小うるさいことばかり言う先輩だとは思っていたけれど、全部全部、俺への嫌がらせだったんだ。新人いじめだったんだ。そうに違いない。

こんなつらい時こそ、理佐に話を聞いてほしい――。

けれど、何回電話を掛けても、呼び出し音が向こうで聞こえるだけ。

くそっ、なんで出てくれないんだよ。

俺はもう一度、理佐の電話番号を押した。

頼む、出てくれよ。

トゥルルルルル。トゥルルルルル。

「――はい」

しびれを切らして、電話を切ろうかと思ったとき、ようやく理佐が出た。

「理佐? なんで出てくれないんだよ! まあいいよ、聞いてくれよ、理佐、ひどいんだよ――」

「私、仕事中なんだよ」

え?聞いたこともないくらい冷たい声。理佐――?

「し、仕事中って、とっくに5時を過ぎてるだろ、ちょっとくらい、いいじゃないか」

うろたえた俺に向かって、理佐は、

「私は仕事中なの。分かる? 私は、残業なんて流行らない、なんて思ってないの。まだ新人で、やることも覚えることもたくさんあるの。だから残業は嫌だけど、でも、ちゃんと仕事をやりたいの。昭吾とは違うの」

と言い放った。

「お、俺とは違うって、どういうことだよ、俺だってちゃんと仕事をしてたよ、だけど山岸先輩が――」

「別れよう。もう限界」

プツ。プーッ、プーッ、プーッ。

電話が切れた。理佐に切られた。

俺は理佐の電話番号を押したが、「お客様のお掛けになった電話番号は、現在、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため、掛かりません」という無情な音声が流れた。


――なんで。なんでだよ。なんで別れよう、なんだ。もう限界ってなんだよ。今までずっと、俺の話を黙って聞いてくれていたじゃないか。受け入れてくれていたじゃないか。それがどうして急に?


俺は、山岸先輩の仕打ちと理佐からの急な別れ話に頭がいっぱいになった。

目の前がぐるぐる回る。訳が分からない。ああ、なんだろう、まぶしい――

「危ない! 」誰かの声がした。あ、車だ。そう思ったときには遅かった。

そして、全身にものすごい衝撃が走って――




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