旧式

柴田彼女

旧式

 グラスを傾けながら同僚と取り留めない話をしていると不意に先輩から名前を呼ばれる。私がにこにこと微笑みながら振り向き「はあい、なんですかあ?」と舌足らずな声で返事をする。アルコールで脳をビチャビチャに湿らせた先輩は私に恋人の有無を訊ねる。ああー、いないんですよお……っていうかあ、いたことないんですよねー、私、ちっともモテなくてえ。

 同僚が斜向かいから上司を「須賀さん、それセクハラですよ」と強めに窘めるが、私は小さく首を傾いで、よくわかんない、といった顔をしてみせる。先輩は同僚を「こーえー」と半笑いで否定しながらさらに私へ、

「じゃー俺と付き合おうよー。いろんなこと教えてあげるからさあー」

 そう言って強引に私の肩を抱こうとする。

 同僚が「須賀さん、本当にちょっと……井上さんも嫌なら嫌って言わなきゃ駄目ですよ」と私を促してくるが、私は相変わらずへらへらと笑ったまま、

「あのお、前から思ってたんですけど、須賀先輩と周子ちゃんってすっごく仲良しですよね! いいなあー!」

 私は先輩の腕を払うこともなかった。

 先輩の火照った身体を感じた瞬間、私の身体は鳥肌を立て、彼の酒臭い呼吸には吐き気を覚えている。ゆっくりと撫でられる二の腕なんて、今すぐ切り落としてしまいたいほどの衝動に駆られていたが、それでも私は『天然で鈍感な人間』を演じ続ける。

 私は私に押しつけられた“役割”を、心から憎んでいる。



 二十歳の誕生日前日、私は朝からずっと落ち着きがなかった。本来ならば一週間前には届いているはずの葉書きが、いまだ私の手元にない。明日から私に与えられる私の役割とはいったい何なのだろう。できるだけ早く知り、心構えをしておきたかったというのに。

 この十九年と三百六十四日間、私はどれほど小さなことでも用意周到に準備を行ってきて、だからこそ些細なミスも欠損も何一つ許せなかった。我ながら頭の固い女だと思う。案の定小中高大、と今までずっと恋人なんていなかったし、心許せる友人もいない。

 家族は皆優しいが、しかし私は彼らが言う「ほどほど」がどうしても許容できずにいた。彼らも「ほどほど」であることを役割として与えられているのだから仕方ないとは思うのだけれど。

 父も母も姉も、国から『だらしなく適当で大雑把』という趣旨の役割を与えられている。

 父や母が二十歳までどういう人間だったのか詳しくは知らないが、少なくとも姉は二十歳になるまで、私よりも頑固で融通が利かず、こだわりも多ければ自分にも他人にも厳しい人だった。

 十九歳と三百五十八日目の夕方、自宅に届けられた葉書きを見たときの姉の落胆を私は今でもはっきりと覚えている。そしてそのとき母が、

「まあ、でも仕方ないじゃない? だって役割なんだし。それにこれからはずーっと、でれーっとして、ぼけーっとして、楽に生きていけるんだしさ! 前々から思ってたけど、お姉ちゃんはねえ、頑張りすぎ! もっとほどほどに、ラフにいこうよ! ラフに、ラフに。ラッフッにぃー? ふふふー!」

 へらへらと馬鹿みたいに笑っていたことも。

 姉が母を明確な憎しみを持って睨みつけていたことも。



 結局その日、私の役割が書かれた葉書きは届かなかった。

 郵便屋のバイクはいつも通り夕方にやってきたが彼は私宛ての葉書きなど持っておらず、本当にないのかと訊ねてみても、ないですよ、とだけ言いそのまま去っていってしまった。いくらなんでも冷たすぎる人だと思ったが、どうせ彼もそういう役割なのだろう。

 絶望に打ちひしがれながら家に入る。役割についての公式ページを開き、隅々まで読み直したが『役割の葉書きが届かない場合』という項目はどうしても見つからない。

 役割がない、ということは、もしかすると私がこの国にとって要らない人間だということだろうか。役割も与えられないのに、二十歳になれるわけがない。

 一体私は、明日からどう生きていけばいい?

 なんでもいい、どんなものでもいいのだ、役割を、誰か私に役割を与えてくれ。

 何十分もかけてホームページを繰り返し往復していると、ヘルプページの中に小さくお問い合わせの電話番号が書かれていることに気づいた。即座にスマートフォンでそこへ電話をかける。九コール目でやっと繋がったそれは間延びした若い女の声で、

「はーい、役割担当事務局でーす」

「あの、私明日二十歳になる者ですが、まだ役割の葉書きが届いていないんです。いつ届きますか? 葉書き以外で知る方法はありませんか?」

「えー? それってえ、ほんとなんですかー?」

「本当です、いつ届きますか?」

「えー、どうだろ、いつごろだろー? そんなこと今まで起きてないし、わっかんないんだよなあ……え、どうしよ。うふふ……あっ、じゃあー、うーん、ちょっと待ってもらっていいですか? 偉い人に訊いてきちゃうんで! んふふふ!」

 若い女はへらへらと喋り、挙げ句の果てには乱暴に受話器を置き、電話の向こうで「部長おー、なんか役割の葉書きが届いてないよーって人から電話がきてるんですけどお、しかも明日が誕生日当日らしいんですよー。こういうのってどうしたらいいと思いますう?」と、いかにも頭の悪そうなことを宣っている。私は彼女の役割を地獄のようだと思う。私の役割はどんなものだろう。『聡明で高潔』、あるいは『勝ち気で男勝り』などであればいいと考えている。

 宛がっていた電話からゴトゴトと派手な音が鳴る。音が鳴りやんだころ、今度は年配の男の声で、

「お電話代わりました。ええと、明日が二十歳の誕生日で、なおかつ役割の葉書きがまだ届いていらっしゃらない……? とのことでよろしいでしょうか」

「はい、そうです」

「ちなみに郵便屋は?」

「他のものならば先ほどきましたが葉書きは持っておらず、訊ねても“ない”とおっしゃっていました」

「なくした可能性もないんですよね?」

「勿論です」

「はあ、なるほど……」

 男は酷く困惑した様子だった。本当にレアケースの事故らしい。男は私の名前、住所、電話番号を訊き出すと、

「上と連絡を取ってみます。一時間程度かかると思いますが、確認が取れ次第私“神田”がお電話差し上げますので」

「はい、よろしくお願いします……」

 スマートフォンをタップし、暗くなった画面を睨む。何もかもが空虚だった。



 電話はわずか二十三分後に鳴った。ワンコールで受け取れば、

「役割担当事務局、神田です。井上響子さんでいらっしゃいますか?」

「はい、そうです! えっと、早速なんですけど、私の役割は……」

 心臓が狂ったように鳴っている。

 血液の流れが手に取るようにわかる。神田という男は、ええと、と前置きしてから、

「大変申し訳ありませんでした。こちらの手違いで井上さんへ送るはずの葉書きだけがまだ私共の手元にありまして。今から速達で送っても確実に明日になってしまうので、失礼ではありますがこの電話にて明日からの井上さんの役割をお伝えさせていただきます」

 息をのむ。

「井上さんの役割は」

 時が止まる。

「『天然、及び、鈍感な感性の人間』となります」

 死ぬまで続く地獄が私の肉体を一息で飲み込んでいった。



 一次会が終了し、同僚は「明日は用事があるので」とだけ言い残すとヒールを鳴らして家路についた。

 私はべたべたと身体に触れてくる先輩に、やあだ、もうー、くすぐったいですってばー、といかにも頭の悪そうな返しをしながら、どうして私と同僚の役割が反対ではなかったのかと一方的に彼女を羨んでしまっていることに気がついていた。


 本来の私は、同僚のような女だったのだ。二十歳までの私は誰にも媚びず、馬鹿な人間は全て拒絶し、断罪し、自身に妥協など一切許さず、ひたすら自分自身を高めて生きてきた。

 もちろん役割そのものを否定するつもりはない。役割がなければ自身の身の振り方を判断することすらできず、自身の感情を持て余し、何者にもなれずに死んでいく人間に満ちた世界は腐ってしまうだろう。そもそも役割とはそういう人間の救済として誕生したシステムなのだ。だから私は役割をなくせなどとは思わない。


 ただ、どのような形であれ、この世界を虚しいと思う。

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旧式 柴田彼女 @shibatakanojo

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