【天界2】
「やぁ、やっぱりここだと思ったよ」
柔らかく穏やかな春の風のような声に振り返れば、ベンチの後ろに、いつのまにきたのか、ウリエルが笑みを浮かべて立っていた。
食堂のある建物と、記録保管庫へ続く通路のある建物の間から差し込む光は、彼を包み込み、さながら彼自身がまぶしさを放っているかのように見えた。
「あ。申し訳ございません」
しばしぼんやりと見とれたあと、持っていた湯飲みを板の上にじかに置き、立ち上がる。腰を曲げて深々と頭を下げた。
「バタバタして、ウリエル様にお礼を申し上げることを、すっかり後回しにしてしまいました。遅ればせながら、その節は大変お世話になりました」
魂が身体から出てこないという、とんでもなあの騒動から、丸一日が経っていた。
絶対にこの手で二人の魂を連れて帰ると決め、最後にはその見通しも立ったものの、ウリエルに白紙の書を届けてもらえなければ、それは叶わなかった。
「いいんだよ。礼など。頭を上げなさい」
言われた通り頭を上げると、ウリエルはひらひらと顔の前で右手を振っていた。
「あれも仕事の一貫だ」
白紙の書の配達などをさせられたというのに、ウリエルは寛容だ。
あんなもの、この天界で二番目の位を持つ彼の仕事のわけがない。
その懐の広さは、彼らしいと言えばそうなのだが。それに甘んじることなど自分には許せなかった。
「いいえ。こういうことは、きちんとしなければなりません。本来でしたら、ウリエル様のお手を煩わせた要因を作ったとして、わたくしは首が飛んでいてもおかしくないのですから」
それをまぬがれた裏に、当人の口利きがあっただろうことは、想像にたやすい。
「僕としては、新鮮な経験ができたと喜んでいるがね。楽しかったし」
「楽しかったのですか?」
目をしばたたいてしまう。
「楽しかったよ。人間に……生きているわけではないから、そう呼ぶのはおかしいのかな? まぁ何にしろ、天界の者が下の世界で姿を見せることなど、そうそうないことだからね。それに、びっくりしただろう?」
「ええ、まぁ、びっくりしました」
「じゃあ、いいじゃないか」
ウリエルは、いたずらが成功した子供のような満面の笑みを浮かべた。
ふっ、と肩から力が抜けるように笑ってしまう。
「しかし、そもそもですよ。耳を地べたにこすりつけてお礼と謝罪を申し上げなければならないのは、32番のやつです」
腕を組んで憤慨した。これだけは言っておかないとならない。
「いったいあやつは何を考えているのやら。頭がいかれているとしか思えません」
白紙の書が手元にないというのに、次の現場に行ってくれと、強引な指示を飛ばしてきたのは彼だ。それを了承した自分にも、もちろん責任の一端はある。だが、ウリエルに白紙の書を届けてもらおうなどと思いつき、実際に依頼するだなんてとんでもないことだ。
「わたくしに、ウリエル様に対して馴れ馴れしすぎる、と注意してきたのは、彼のほうです」
その畏れ多い相手に、よりにもよってメール便のような役割を頼むとは。言うこととやる事が一致していないではないか。
「いいじゃないか。結果的にそれで助かったのだろう?」
「助かったことは確かですが、第一あれは記録保管庫側の不手際です。その尻拭いをウリエル様にさせるだなんて、無礼も良いところです。お灸の意味合いを兼ねて、彼は謹慎くらいは受けるべきでした」
清花の書籍を手に記録保管庫に戻り、諸々の作業に一旦ケリがついたところで、32番には、しっかり礼儀を通したのかと問い詰めた。本人は心配するなと笑って答えたが、怪しいものである。
こちらは至って大真面目なのだが、ウリエルはお腹を抱えて笑うばかりだ。
「はははは。76番はあいかわらず手厳しい」
「礼節を重んじる、とおっしゃってください」
人間界には、親しき仲にも礼儀あり、という言葉がある。
ウリエルとの仲がそこまで馴れ合ったものだとは言わないが、最低限の礼儀をわきまえない間柄は、いつしか必ず壊れるものだと思っている。
「ところで、休憩時間だったのだろう? もう終わりかい? すぐに仕事に戻らなければならないかな」
「あ、いえ」
ベンチの上に置いた、コスモス柄の湯飲みに視線を落とす。新芽色の煎茶が、まだ半分ほどを満たしている。
いつもは食事を終えたら、休憩時間が残っていてもさっさと職務に戻ることも多い。でも、今日はできるだけゆっくり、のんびりとお茶を飲み干したあとに戻ればいいかと考えていた。そこに咲く花々を眺めながら。
「では、僕もここで少し休んでいくとしよう。隣、いいかい?」
「え」
目を見開いたあとで、思わず噴き出してしまう。
「ウリエル様にお窺いを立てられたことなど、初めてです」
今日の花壇には、ガーベラが咲いていた。天に向かってバンザイをしているかのような、花びらの鮮やかな黄色と、きっぱりと緑色の葉とのコントラストが美しい。
不格好なベンチに二人並んで腰かけ、少しの間無言でレプリカの季節を感じたあとで、ウリエルがおもむろに口を開いた。
「32番を責めないでやっておくれ。白紙の書を届けさせてくれないかと言い出したのは、実は僕のほうなんだ」
「そうなのですか?」
目を激しく開閉しつつ、隣を見上げる。そんなこと、同僚は匂わせもしなかった。
「書店にたまたま顔を出したら、かなり困っていたようだからね。どうしたのかと尋ねてみた」
「たまたま?」
大量に書籍を購入していったのは、つい昨日のこと。たった一日で読んでしまったわけではないだろうし、再び記録保管庫に訪れるどんな用事が?
まさか、自分の出向を案じてくれていたのでは。
「どうかしたかい?」
「あ、いえ」
「まぁ、他に方法が思いつかないとはいえ、彼も二つ返事で了承したわけではないよ。彼だって、記録保管庫のスタッフに従事して長い。そのくらいわきまえているさ。だけども、僕の申し出を断れる立場でもない」
それは確かにそうか、と思う。事態は急を要していたこともある。ウリエルの話が本当で、苦しまぎれに申し出を受け入れたのなら、同僚に悪いことをしてしまった。
ウリエルは微笑む。
「僕たちのために、君たちはいつも頑張ってくれている。そんな君たちのためなら、僕だって一肌脱ぎたくなるのさ」
「ウリエル様」
「僕が出向いたことは、彼女にとってもよかったんじゃないかな」
その言葉に、ウリエルが舞い降りたあの瞬間の、清花の表情を思い出した。
白紙の書を運んできたのが、記録保管庫の別のスタッフだったとしても、おそらく彼女はもう転生をためらわなかっただろう。とはいえ、ウリエルの思いがけない出現が、あともう一つの後押しとなったことは間違いない。
「ひょっとして、ウリエル様は」
「うん?」
「何もかも、わかっていらっしゃったのですか?」
彼女が転生を拒んでいた理由。本当に怖がっていたもの。自分が出向くことによるメリットと、そのための最適なタイミングまでも、前もって。
だから、本来は必要のない記録保管庫にわざわざ出向き、自分が白紙の書を運ぶことを申し出た……?
信じがたいことではある。そんなことが本当にできるのかと、疑っている部分もある。だけども、きっとゆくゆくはこの天界を背負っていくだろう、言わば超越した存在である彼なら、可能かもしれないと思った。
曖昧な言葉での問いかけに、ウリエルはただ凪のような笑みを浮かべるだけだ。
「リプレイ」
唐突に、ウリエルが言った。
「リプレイ?」
「人間の言葉で、もう一度やり直す、という意味だ。再演であるとか、再試合と訳されることもある」
「もう一度、やり直す」
ああ、と思う。それは、このたびの出向の間、何度となく口にした言葉だ。
「これまでより悪い成果を得るために、リプレイに挑む者などいない。それが叶うのなら誰もが、現時点よりずっと良い結果を願って、舞台にしろ、試合にしろ、もう一度挑んでいくものだ」
「はい」
「人生も」
「ええ」
「もちろん、同じ人格で人生をやり直すことはできないがね。魂は引き継がれる」
「わかります」
ウリエルが澄んだ蒼い目を花壇に向けたから、つられるようにして自分も視線を移す。
「望んでいた世界を見られた時の喜びは、何ものにも代えがたい。きっと人生をやり直した時だって、願った通りの道を歩めたら、例え過去の記憶は失われていようとも、幸福感を得られると僕は思う」
「ええ。わたくしも同感です」
ウリエルの口角が満足そうに持ち上がった。
「人生のリプレイ。僕たちの仕事とは、そのサポートだと思うんだ」
「サポートですか」
目をみはる。
そういう考えは持ったことがなかった。
人間の転生のジャッジを担うのはウリエルたち天使で、彼らが命を生み出して、輪廻の輪を回していると言って過言ではない。我々はそのために魂を運び、書籍にして売り場に並べる。人間の、と言うより、天使たちの補佐をしているという頭だった。
でも、言われてみれば、自分が今回やったことはすべて、清花とあの男のより良い転生へと繋がるもの。むしろ、それをただ願って奔走した気がする。
記録保管庫のスタッフは、天使の滞りない作業のためだけに存在するのではなかった。
我々は人間に憧れ、人間が好きで、人間のためにここに在る。人間の幸せだけを願い、またせっせと魂の回収に向かうのだ。
それはきっと、ウリエルたちも同じなのかもしれない。
「本来ならまずないことだが、今回は魂に意識があった。意識があるということは、感情がある。今生を捨ててリプレイへと踏み出すには勇気がいる。根性もいる。体力も必要だっただろう。そのサポートをするほうだって容易ではない」
確かに、と苦笑するほかない。
「でも、担当が76番、君だったから」
「ウリエル様」
「だから僕は、何も心配していなかった」
ウリエルは目を細めて笑いかけてくれた。
「後悔した者は強い。やはり、僕が信じていた通りだ」
「強くなれたのかどうか、自分では実感できていませんが」
それでも、机にかじりついて学んだことは、決して無駄にはならない。知識が多ければ多いほど、その分、誰かと共有できる思いが多いから。
その誰かにはもちろん、人間も入る。そのことを、今の自分はもう知っている。
「もちろん、強くなっているさ。だからこそ、とても難しい事案だった今回だって、無事に次の命へ繋ぐことができた。リプレイが叶ったんだ」
「そうだと、嬉しいです」
「リプレイしたあとの人生が良いものになるかどうか、あとは本人たちの努力次第だけどね」
「そうですね」
でも、おそらく、あの二人に限っては大丈夫だろうと思う。
「君たちのように心優しく、有能なスタッフたちばかりだから、天使たちだって励みになる。僕も頑張れるよ」
「それは」
さすがに照れてしまう。
「もったいないお言葉です」
ウリエルは嬉しそうに微笑んだ。
「しかし、本当に難しい事案でした」
照れ臭さを隠すように腕を組み、うーん、とうなる。
「単体でも大変ですのに、ダブルで襲いかかってくるとか。こうなると、困難な魂がわたくしばかりを狙って寄ってきているような気さえします」
それを聞くと、ウリエルは声を立てて笑った。
「本当にそうなのかもしれない」
「勘弁してください」
「狙っている、というのは冗談だとしても。選んでいる、というのはあり得るのかなと思うよ」
「選んでいる? 魂が、わたくしを?」
顔をしかめてしまう。どちらの言い方であったって、また苦労する事案を抱え込む可能性があることには変わりない。
「魂も、きっとわかるんじゃないかな。何が起こっても、君なら決して最後まで諦めないで、導いてくれると」
「それは」
口元をゆるやかに引き結ぶ。
「確かにお約束できます」
それが、我々の仕事なのだから。
「でも、やはり一筋縄でいかない魂はごめんです」
ウリエルはお腹を抱えて、またひとしきり笑った。
「ああ、そうだ。これを伝えておこうと思ったんだ」
「はい?」
「あの少女の書籍」
「あ、はい」清花のことだろう。
「僕が購入するから、カウンターに取り置きしておいてくれないか」
「了解致しました。来られた時にすぐに対応できるよう、スタッフたちにも伝えておきましょう」
ありがたかった。
ウリエルには面倒をかけてしまうが、清花をできるだけ早く転生させることは、同じ呼び名の娘を持つ、あの男の最期の願いでもあったから。
「それと、あの男性の分もね」
「え?」
あのサラリーマンの書籍も?
「それは、とてもありがたいことですが……」
「ああ、子供以外だからかい? 別にかまわないよ。昔は大人の書籍だって購入していたんだし。まぁ、確かに久しぶりだから、ジャッジの仕方を忘れてしまっているかもしれないけどね」
そう言って歯を見せるから、思わず噴き出してしまった。
「本当に、ありがとうございます」
座ったままで、うやうやしく一礼する。
「お礼を言われるまでもないさ。これが、僕の仕事なのだから」
「あ、お仕事と言えば、申し訳ございません。長々とお引き留めしてしまいまして」
「いや、かまわないよ。話しかけたのは僕のほうだ」
「しかも、わたくしばかりがお茶を飲んで。気が利きませんでした」
「気にすることはない」
「喉を潤されますか? わたくしの飲みかけですが」
「……実を言うと僕は、いちばん失敬なのは君なのでは、と思う時がある」
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