【人間界9】

 スマートフォンに肉球で触れる。冷たいだけの機械は、いつだって扱いが小難しく苦手だとしか思わなかった。

 登録しておいてもらった番号をタップする。同僚は忙しいなどと言っていたわりに、一回半程度の呼び出し音で出た。そのことが、少しだけ心強く感じられた。


「おう、どんなあんばいだ?」

「……たった今、一冊のみですが、回収を終えました」


 胸に抱えた書籍を、より強く抱きしめる。


「どうした? 声が変だな。風邪でも引いたか?」

「引きませんよ」


 そうか、とあっさりと納得されたあとで、ご苦労さん、という事務的なねぎらいの声をかけられた。


「今から、もう一冊の回収に向かいます」

「頼むぞ。まだ手間取りそうか?」

「行ってみないとわかりませんが」


 そう前置きしたあとで、正直にそれを告げる。


「おそらく心配ないかと」

「そうか」


 こちらの自信を感じ取ったのだろう。向こうからも安堵したような雰囲気が伝わってきた。


「白紙の書の手配は、どうなりました?」


 持参した一冊は使ってしまった。いくらやる気があっても、肝心の仕事道具がないことには話にならない。


「安心しろよ。すでに手配済みだ」

「手配済み?」


 同僚の声はいたずらっぽい笑いを含んでいて、何やら嫌な予感がする。


「びっくりするぞ」

「よくわかりませんが。現場で待っていれば、よろしいのですね?」

「よろしい、よろしい」


 同僚は楽しそうな雰囲気で、最後にもう一度、頼んだぞ、と念を押してから通話を切った。





*****


「おじさんは?」


 マンションに戻った時、清花の第一声は、それだった。


 あの男とコンビ芸人でもなければ、男の保護者というわけでもない。それなのに、男の状況を自分に尋ねられても困る、と苦笑してしまうが、清花だってそんなふうに認識しているわけではないだろう。


 今日出会ったばかりで、ほんの一時いっとき絡んだだけに過ぎない。それでも、清花にしてみれば、スピーカーを背負っているかのようなかしましさだった男の不在は、あまりにも静かで、不自然さを感じるほどなのかもしれない。


 言わないけども、実は、同感だった。


「ここです」


 脇に抱えた書籍を指さす。


「魂がやっと身体から離れ、無事にここに回収されました」

「回収?」


 清花はじっと書籍を見つめて、うっすらと口を開けたまま、言葉を忘れたかのように黙った。


 魂の回収の工程など知らないし、見てもいないのだから、清花がピンとこないのは当然だ。

 しかしながら、やがて「……そうなんだ」と睫毛をふせた。男はもう元気に悪態をついてこないのだと、彼女になりに悟ったのだろう。その様子は少し寂しそうで、おや、と意外に思えた。


「カロンは、戻ってこなかったようですね」

「うん」


 清花はうつむいたまま軽く頷く。


 彼女が変わらずここにいるということは、カロンの誘惑に屈しなかったか、来なかったかの二択になる。

 彼女を信じると言ったセリフに嘘はない。

 後者だと決めつけたのは、再会した際の彼女の様子があまりにも落ち着いていたからだ。肩すかしを食らって茫然としながら、こちらを迎え入れたようにも見えた。それだけ毅然とした態度で、カロンを追い払おうと気張っていたということなので、こちらとしては嬉しくもある。


「銀がフェイクであったと、気づいていないわけではないでしょうが。忙しいと言っていたのは、本当なのかもしれません」


 明かり取りの窓を見上げる。そこに不気味な少年が座っていたことなど、まるで嘘のように、窓ガラスの表面はまぶしく白い光に満ちていた。


「忙しい?」

「ええ。年々、自死する魂は増えていると聞きますから。悲しいことですが」


 人間の死の情報を伝え知るのは、おそらくこの世で我々が最も早い。

 出向時には、どんなふうに亡くなったかは知らされないが、任務に従い魂の回収に向かえば、そこで否が応でも死因に触れる。仕事を終えて戻ってきた誰もが口にはしないが、その比率が変わってきていることに気づき、危機感を抱き憂いているスタッフは、決して自分だけではないはずだ。


 カロンはこれまでより格段に対応に追われ、そのさなかにいることになる。天界の使者が付いた面倒な魂になど、いつまでもかまっていられないのだろう。

 もちろん、それを幸運だなどと、手放しで喜ぶことはしない。今こうしている間にも、自ら終止符を打つ命があるということなのだから。


 自分もその中の一つである清花は、バツの悪さを感じたようだ。それについては何も言わず、うつむいたままで暗い声を出した。


「……ねえ」

「はい」

「わたし……腐っていくのかな」


 清花の身体に広がる死斑の範囲は、誰が見てもわかるくらいに拡大していた。

 しかしながら、魂が出ていく気配はやはりない。このまま腐敗していく様を見ることになるのだろうかと思ったら、恐ろしく、例えこれが大人であったとしても訊かずにはいられないだろう。


「必要以上に恐れることはありません。肉体は朽ちるものなのです。ご安心ください。それまでには手を打ちます」


 間を置かず言い切ってやると、清花は複雑な表情を浮かべた。


 清花の家族は、おそらく夕方には戻ってくる。変色はするだろうが、腐るまでに至らずに見つけてもらえるはずだ。娘の変わり果てた姿を発見した時の、家族の胸の内を思うといたたまれないが、考えたところで、我々にはどうすることもできない。


 我々がやるべきことは、その前に、できうる限り早く、きちんと魂を回収すること。同僚には自信のある素振りを見せたが、正直、確信があるわけではない。でも、今は自分の直感に頼るしかなかった。


 心配なのは、白紙の書だ。すでに手配したということだが、手元にはいつ、どのようにして届くのか、さっぱりわからない。


「ありがとうございました」


 とりあえず両手を揃えて深く腰を曲げると、清花が目を丸くして驚いた。


「え? なに?」

「約束を、守っていただけましたから」


 目線を上げれば、素直に喜んでいいのか、考えあぐねているような顔がある。


「守るもなにも、あのハサミの人、こなかったし」

「いえ。そうではありません」

「え?」

「わたくしは、またお会いしましょう、と言いました。あなたは約束をきちんと守れる方です。そう信じたわたくしを裏切りませんでした。そのことに感謝しているのです」


 清花は、額に氷を押しつけられた時のように、はっと目を見開いた。


 場をつくろうつもりもなければ、清花の機嫌を取るつもりもなかった。

 カロンが脅威であったことはもちろんだが、男の魂を回収し終えて戻る前に、清花の魂が身体から離れてしまうことも可能性としてはあった。魂が迷子になる恐れもあったわけで、もしそうなれば、それもこちらとしては困った事態だった。

 持ちこたえていたのは、自分との約束を果たそうと、清花が懸命に踏ん張ってくれていたおかげに他ならない。


「だって……ネコちゃんに、これ以上ガッカリされたくなかったし」


 ふて腐れた口ぶりは、思春期真っ只中といった感じで微笑ましくもある。


「それに」

「それに?」

「信じてるって言われたら、守らないわけにいかないよ」

「そうですか」


 実のところ、その効力を狙わなかったとは言わない。


「だって、わたしは、誰のことも裏切りたくないから」


 それは、友達から裏切りを受けた彼女だからこその、悲しく優しい誓い。


「……おじさんには、最後まで信じてもらえなかったけど」

「そんなことはありませんよ。あの方の態度には、あの方なりの思いがあったからだと、わたくしは考えます」

「え?」

「あの方が、あのような厳しい物言いをされたのは、あなたに幸せになってほしいからです」


 清花は眉と眉の間に、こまっしゃくれたシワを作った。


「嘘」

「嘘をついたところで、わたくしに何か得がありますか」

「だって」

「まぁ、あなたに対してかなりひどい暴言を吐かれていましたし。てっきりわたくしも、あなたのことが憎くてのことかと思い込んでしまいましたが」

「そうなんでしょ?」

「でも、身をていしてあなたを守ったことが、その証拠だと思うのです」


 清花は口を尖らせた。


「あれだって別に、わたしのことをどうとかじゃ」

「いいえ。あの方があなたを守ったのは、決してカロンの汚いやり方がどうとかではなく、あなたを冥界に連れていかせたくなかったから。ただひとえにそれだけだったのです」

「嘘だよ」

「あなたに辛く当たったのは、一人にさせたら、今度こそ誘惑に負けてしまうかもしれない、と親のように案じたからです。あなたの魂が、ここで途切れてしまう可能性がわずかにでもあるならと、あの方はそれが何より怖かったのです」


 清花は反論するのをやめた。あまりにも驚いたからか、ただうっすらと唇を開いた。


「あの方は、あなたに次の人生こそは幸せになっていただきたいと、そう強く願っていたのです」

「そんな……」


 弱くつぶやいてから、清花は目線を下げる。黒目だけを上げて、書籍を見た。


「にわかには信じがたいでしょうが。粗雑ですが、とても愛情深い方でした」


 最後まで、自分よりも、関わった人間たちのことばかり気にかけていた。あのような優しく強い魂は出会ったことがない。

 もっと素直な物言いができていたら。清花のことももちろんだが、義両親との関係も、きっと違っていただろうに。それだけが、少し残念だ。


「でも、わたし……」


 清花はぼそぼそと話し出した。


「生まれ変わって、幸せになれる、自信ない。怖いよ」


 ゆがめた口元から、弱々しく吐き出されたその言葉は、彼女がずっと聞いてほしかった気持ちなのかもしれない。それこそが、生まれ変わりを突っぱねた真の理由。そして、こちらが待っていたものでもあった。

 だから、答えてやる。


「なれますよ」


 清花が顎を上げた。


「なれないわけがありません。だって、そうでしょう? あなたは、この失敗から多くのものを学んだのですから」

「失敗……学んだ?」

「ええ」


 うん、と深く頷いてみせる。


「あなたの失敗は、死を自ら選んだこと」


 そう言うと、清花は口をつぐむ。すぐに付け加えた。


「しかし、失敗は取り返せます。これは言い切れます。そのために生まれ変わりがあるのです。悲しく辛い思いは、必ずや動力となり、あなたの次の人生を幸福な、実りあるものにしてくれることでしょう」

「でも」

「わたくしも、過去に失敗を犯しております」


 清花がはっとした。冥界と天界の使者のやり取りを思い出したのだろう。


 書籍を持っていないほうの手で、胸を押さえる。

 傷はきっといつまでも癒えない。でも、それでいい。この痛みもまるごと、すべて許してやるのだ。ここに刻まれている限り、必ずや糧となり、これからも間違えずに済むだろう。

 よく笑い、よく喋り、まっすぐな目をしたあの人間が、そう教えてくれた。


「この奇妙な縁も、きっとあなたの糧になる」

「縁?」

「ええ、そうです」


 偶然が重なった、この不可思議な数時間。今思えば、関係した誰しもにとって、必然な縁だったのかもしれない、などと思えてしまう。


「人が生まれ変わる理由は、失敗から学び、次こそは幸せになるため。他人より悲しい出来事を乗り越えたあなたの魂が、新しい人生で幸せになれないわけがありません」


 こちらを見上げる、その瞳が揺れている。知らない場所へ踏む出す直前のように、大きな不安を抱えながらも、その奥に、それはごく小さな、地上から見上げる星屑のような希望がきらめいてもいた。


「あなたは、本当は気がついていたのでしょう?」

「え?」

「出かける間際に、あの方から叱責された時。いいえ、もっと前。あの方から、身を犠牲にして守られたと知った時」


 清花は目をしばたたく。何のことなのか本当にわからないのか、まだ自分の中で認められないのか。


「わたくしのことを、先生みたい、とおっしゃいました」

「……うん」

「通う学校の担任教師なのか、もっと以前にお世話になった恩師であるのか、それはわかりませんが。少なくともその先生とやらは、あなたのことを心配して、強い口調で叱ってくださっていたということになります」


 清花にとっては、なにげない言葉だったに違いない。カロンの魔術にかかってもいたのだし。でも結局、それがヒントになった。


 男が清花を怒鳴りつけてでも、気がついてほしかったのは、家族の存在だったのだろう。しかし、そもそも清花にとって、家族は自死のストッパーになっていない。そこは残念としか言いようがないが、救いだったのは、その先生の存在だ。おそらく何度突っぱねられても清花に世話を焼き、悪いことは悪いと臆せず叱ってくれていた、唯一の存在だったのではなかろうか。


「……怖かったけど」

 清花は、ふ、と笑みを浮かべた。


「はい」

「なんでかな。そんなに嫌じゃなかった」


 固い結び目が、そっとほどけるかのように吐き出された言葉。懐かしむような笑顔が、どこか悲しげなのは、この世界からの旅立ちを覚悟したからだろう。


「本当に親身になって出た言葉とは、怖くても嫌ではないものです」

「そっかあ。確かに」


 噴き出す清花の脳裏には、耳障りがいいだけのカロンのセリフが蘇ったに違いない。


「あのおじさんも、うん。そうだね。先生っぽかった」

「ええ。そうだろうと思いました」

「ネコちゃんには、なんでもお見通しなんだね」

「わたくしも、最初からなんでも知っていたわけではありません。日々の勉強、そして、失敗を積み重ねてきたことにより、学んだのです」

「同じだね」

「ええ。同じです」


 生きている限り、誰もみんな過ちをおかす。失敗から立ち上がり、また前を向いて歩いていく。そして、そのためには、誰かの温かい声援が必要だ。

 そこもまた、同じなのだ。


「ところで、カロンが言っていたことですが」

「うん?」

「わたくしは、あなたがた人間の生涯に起こる出来事を、最初から仕組んでおくなどということはできません」

「ああ」


 清花は、少し恥ずかしそうな顔をした。


「あれは、ごめんね。今は、ネコちゃんがそんなことするわけないって、ちゃんとわかる」

「それなら、いいのですが」

「ごめん」


 本当にすまなそうに謝る清花に、首を振る。


「幸せになりましょう。あのサラリーマンのために、先生のために。あなたのために。そして、ご家族のためにも」


 清花の両親は、確かに、悩みに真摯に向き合ってはくれなかったのだろう。だからといって、愛情がなかったとは言えない。そうでなければ、清花がこんなにも素直に育つはずがないと思うのだ。

 今回の人生ではわかり合えなかったが、次に出会った時には、きっと良い関係を築ける。他人からの密かな応援の声にも、必ずや気づけるだろう。


「わたし、本当は……」

「はい」

「この世界で、幸せになりたかったの」


 清花は顔をくしゃくしゃにゆがめた。


「ええ。わかっています」

「……幸せに、なりたい。今度こそ」


 その全身から、ミルク色の靄が音もなく立ちのぼり始めた。


「あなたなら、必ずご理解いただけると、信じていました」


 ようやくだ、とほっとするが、さてどうしたものか。回収するための器がない状態では、魂が路頭にさ迷ってしまう。


 その時、それはやってきた。

 ウインドウチャイムのような、澄んだ音を響かせながら。柔らかく温かい、満ち足りた光を引き連れて。


 まさか。


「……ウリエル様?」


 狭いはずの浴室は、またもや遠近感覚を失う。だけど、先程よりも断然マシだ。


 天井だった場所には、はるか高みまで玉虫色に光る雲が溢れ、そこから、温もりをまとった羽根が、いくつもいくつも雪のように降りそそぐ。床に触れればそっとバウンドして、砂糖菓子のように儚く消えていく。

 まぶしさにくらむ視界の先で、浮き上がるような白さの大きな翼をはためかせながら、降りてきたのは、金色の髪をたなびかせたあのひと。胸に白紙の書を抱き、その蒼い瞳をそっと開けた。


 美しいひとだと、常々思っていたけれど、こうして下の世界で見ると、なんて神々しいのか。


「……マリア、様?」


 ぼんやりと、清花がつぶやいた。


「ああ……なるほど」


 それが、聖なる母の御名であることは、もちろん知っている。


「確かに、似ていらっしゃるかもしれませんね」

「きれい……」

「ええ。とても美しいです」

「あんなきれいな、優しそうな天使様がついていてくれるなら」

「ええ」

「何も怖くないね」

「ええ」


 光に目を細める清花の、全身にも細かな星のような光が満ちていた。


「そうですとも」

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