【人間界8】

 乾いたアスファルトに、男は顔からスライディングしていた。

 そこに、甲子園球児のような疾走感や感動などがあるはずもなく、天井に設置されていたサンドバッグが、何かのきっかけで外れて床に落ちてしまった時のような、鈍い重量感のある音だけが辺りに響き渡った。


「大丈夫ですか!」


 心配する声を上げたものの、かたわらに座り込み、その表情を確かめることにためらいを覚えた。


 人が転ぶとなった際、普通はとっさに両方の腕が出て、身体を支えるものだろう。

 擦り傷で済めば問題ないが、頭をひどく打ちつけでもしたら、ダメージはケガでおさまらないかもしれない。そのことは、外傷性ショックが死因であるだろう男が、いちばん身をもって知っているはずだ。


 それがままならなかったのは、男の体力が消耗しきっているからに他ならない。


 限界か。


 ただ瞳を揺らしながら、地面に伏せったままの男を見下ろしていた。すると、その顔がうめくように言う。


「ぐう……痛くはないけど、なんかこう、別の痛みを感じるよな」


 身体中に安堵が満ちていった。

 喋れるということは、まだ深刻ではないということだ。鼻から吐息をつきながら、その場に仁王立ちで問いかけた。


「別のって何ですか」

「自尊心? プライドが傷ついたみたいな? 大人になるとよ、顔から派手にすっ転ぶことって、そうそうないからな」


 減らず口も健在であることにほっとしつつも、またにわかに胸に不安が広がる。

 男が立ち上がらないのだ。地面に突っ伏したままだ。上体を起き上がらせることさえ、もうできないのだろうか。いよいよ本当にタイムリミットなのか。


「そんな顔するなよ。癒やしのもふもふフェイスが台無しだぞ」


 男は口を動かせるようにちょっとだけ顔をずらして、もそもそと喋った。その息に吹き飛ばされた細かな砂利が、生きもののように四方八方に跳ねる。

 すでに焼けただれていた横顔は、さらに擦り傷が加わって、目をそむけたくなるような無惨な状態になっていた。だけど、その目を見られなかったのは、それが理由などではない。


「……そんな顔とは、どんな顔ですか。第一、癒やし目的でもふもふしているわけではありません」

「へえ? じゃあ、何のためだよ」

「知りませんよ。生まれつきです」

「おぎゃあと生まれた時から、猫の顔?」

「おぎゃあ、とはたぶん、鳴いていないと思いますが」

「あんたは魂の運び屋だから、人間の魂を本屋に連れていく時に、相手の怖さとかを和らげるための、その姿なのかなと思っていたけど。よく考えたら、こうやってあんたと顔を突き合わせることなんて、普通はないんだもんな」

「ええ、そうです」

「そう考えると、俺ってラッキーだな。あと、あのガキもな」


 男が無理やりに明るい声を出す。

 希少動物や、愛玩動物扱いだとしても、会えて幸運だなどと言われて、嬉しくないと言えば嘘だった。


「悪いけど、ちょい手を貸してくれねぇか」

「……はい」


 しかし、気分は晴れない。

 無駄口をきき、元気そうに見えても、男はもう自力では起き上がれないのだ。その事実を目の当たりにすると、なんとも表現しえない脱力感が襲ってきた。


「歩けますか?」


 こちらの補助で、歯を食いしばりながら、どうにか立ち膝の状態になった男に尋ねる。

 酷だとわかっているが、確認しないわけにいかなかった。男の返答次第では、この短い旅に終わりを告げなければならない。


「歩くよ」


 それは、意志だ。


「もう、すぐそこだからな。歩きたい。だけど」


 そう言う男の瞳孔が、縮んだり広がったりを不規則な間隔で繰り返し始めた。身体がゆらゆらと前後に揺れ出す。支えていることが難しい。


「歩けませんよね」


 見ないふりはできない。ワイシャツの襟から覗く首元にまで、先程はなかった死斑が広がってきていた。急速な広がり方だ。


 男は何も言わない。

 自分の身体が、もはや限界だということをわかって絶望しているのか、それとも、呼びかけに応える余裕すらないのか。後者だとしても、納得はできる。なぜなら。


 溢れ出るものを堪えるように、ぐっと口元を噛む。ヒゲにも力が入った。


「魂が……出かかっています」


 目に見えるのではなく、肌に感じる。

 ごく弱い静電気が、肌にぴりぴりと軽い刺激を与えてくるような感覚だ。痛いというほどではないが、不快感とともに肌が突っ張るような感じがある。

 不本意ではあるがこれまでにも、回収する魂が出てくるのを待ったことがある。だから、わかった。


 もちろん、その時には新刊に意識などなく、出てくるまで冗談の応酬をすることも、お互いの仕事の話を語り合うことなどもなかったけれども。


 だからだ。

 そんな都合のいいことがあるわけないと思いつつ、心のどこかで期待してしまっていた。目的を果たすまでは、花束を届けない限りは、男の魂は外に出てこないのでは、と。

 そんなことはないのだ。肉体に限界が訪れれば、やはり魂は体外に押し出されてしまう。


 待ち望んでいた瞬間だ。これでなんとか無事に任務を遂行できる。清花のもとに戻り、天界にもじきに戻れるだろう。しかし。


 うつむき、脇に挟んだ書籍の背表紙をぎゅっと握った。


「……諦めてしまうのですか?」


 頭の上に砂袋でも乗せているかのように、男がようやっと頭を持ち上げる。ゆらゆらと定まらない頭の位置や、まぶたが降りたり開いたりする様子は、まるで高濃度のアルコールで酩酊しているかのようだ。


「……諦めたくねぇよ。でも」


 それでも、男にはまだ言葉を発する気力がある。そのことに、自分で思う以上に奮い立たされた。もうなるようになれ、だ。


「見損ないました」

「なに……?」

「あなたはやっぱり、諦めの早いお人なのですね」


 男の頬に、ピクピクと細かな筋が走る。


「そんなでは、奥様に呆れられるどころか、あっという間に忘れ去られてしまいますよ」

「ふざ、けんなよ」

「じゃあ、根性を見せてください」

「……ド根性は、さすがにもう、打ち止めだろ」


 その情けない言葉に知らず知らず、こぶしを握った。


「立ってください! 諦めてはいけません」

「あんた……」


 見開かれた男の目は、出会ってから今が一番、信じられないものを見るようだ。


「目的地はすぐそこなのでしょう? もう一踏ん張りではないですか」


 ここまで、こちらが呆気に取らされるほどの精神力で、強引に突き進んできたくせに。ちょっと転んだくらいで何なのだ。ちょっと身体の融通がきかなくなったくらいで、何なのだ。それくらいで気弱になる精神ではないだろう。魂ではないだろう。


 最初はその場しのぎに過ぎなかった。でも、男のことを少しずつ知るうちに、いつのまにか、男の願いに寄り添ってやりたいと思うようになっていた。ここまできたら、花束を適した場所に置くまでを、きちんと見届けてやりたいのだ。


 しばらく茫然としていた男だが、やがて笑った。


「……だよな」


 それは、ふっ、とか弱い息を吐き出しただけに過ぎない。だけど、胸の中に温かい喜びが、花の蕾が音もなく開くかのようにじわりと広がった。


「目前まできて、諦める、はないよな。男がすたる」

「その通りですとも。さぁ、行きましょう。わたくしが介添えいたします」


 男の脇腹から入り、下から持ち上げるようにして腕を掴む。


「まさか、もふもふにシッターされる日がこようとは」


 身体はあいかわらずだるそうで、動くごとに息を切らすが、男の語気には力が戻ってきたように思えた。改めて、とんでもない精神力だと感心する。


「わかるか? シッターと叱咤を、掛けてるんだぜ」


 得意そうに言ってくるが、それは無視しておく。


「なんでしたら、この顔で良ければ、眺めて癒やされてくださってけっこうですよ」

「お触りはなしか」

「どうしても必要と言うのでしたら、我慢しますが」

「マジか。ありがたい申し出だけどさ、俺、実は犬派なんだよな」

「今お言いになりますか、それ」


 これまでよりもゆっくりと、しかしながら確実に、一歩一歩を刻む。前へ、前へ。

 男の身体は岩のように重く、支えて歩くこちらまで息が上がる。普段おこなっているのは、書籍程度の重さしか持たない軽作業であるため、ちょっとした肉体労働でもきつい。しかし、反して気分は清々しかった。


 角を曲がると、しだれ桜が流れるがごとく咲き誇る向こうに、古い寺が姿を見せた。濡れているのかと見まがうほど、深い艶のある木材で作られた屋根付きの門を、男は指さす。


「あの中に……入ってくれ」

「あの中に、ですか?」


 頷くだけで、男の口からはそれ以上の言葉が続かない。

 まさか意識が途切れてしまったのではと、不安になって顔を覗き込むと、苦笑いを浮かべてきた。残りわずかな体力を温存したいのかもしれない。


 あの門の奥が、男の目的地。


 男の妻はあの奥にいるのだろうか。あの寺が、男の妻の職場なのだろうか。もしくは、あの寺が、男と家族の住まいということなのだろうか?

 考え込んだ一時いっときを、自分たち以外の人の存在を案じたものと、男は受け取ったらしい。


「……大丈夫。この時間は、誰もいねぇよ」

「誰も……そうなのですね。助かります」

「よく、きてるからな」

「よく……? いえ、わかりました。もう喋らなくてけっこうです」


 ここまできても、謎は深まるばかりだ。だが、質問攻めにして男の体力を奪うことはしたくない。考えふけっている暇もない。行けばわかるのだ。

 花束を直接手渡さない、を了承した男を信じて、中へと足を踏み出した。


 指図されるままに、古めかしい門をくぐる。天界の扉とはまたおもむきが違うが、こちらはこちらで荘厳な雰囲気だ。


 敷地内は男の言う通り、人の気配がさっぱりない。静まり返っている。静けさが耳に鳴るほどで、昼間だというのに、夜更けさながらだ。それほど離れていないはずだが、商店街の活気も、保育園のにぎやかさもここには届いてこない。時間が止まったかのような雰囲気といい、まるで街から切り取られたような空間だ。


 現れた寺院は横に長く、木彫りの装飾が繊細なのに荒々しい。境内は広々としていて、点在する石碑や建造物などは歴史を感じさせる。

 これほど立派な寺院なのに、住職はいないのだろうか。いや、今は不在なだけで、通いなのかもしれない。花木はこまめに手入れされていることが窺えた。


 男が視線で促す。


「その先に、行ってくれ」

「その先、ですか? その先は……」

「行ってくれ」


 困ったように笑いながらも、男はきっぱりと言った。

 あぁ、と軽い眩暈がした。すとん、と謎が解けた。


 男と二人で、その場所に足を踏み入れる。

 こちらも手入れが行き届いている。管理する者は、とても几帳面なのだろう。敷き詰められた丸く細かな砂利には、紙くず一つ落ちていない。雑草も顔を出していなかった。


 黙っていることがいたたまれず、感想をまじえて言った。


「これは……奥様は、とても落ち着かれて過ごされていることでしょうね」

「だろ……? きれい好き、だからなあ」

御影石みかげいし、は、正式な名称に、花という文字が入っています」


 墓石に使われることが多い、花崗岩かこうがん。男が届けることを諦められなかった、真っ赤なバラの花束。そして、清花の名前の一文字。どれにも「花」の文字が入る。

 偶然なのだろうが、どこか運命的に思えてしまう。


 男がささやくように噴き出した。


「あんたは、本当に、いろんなことを知っているな。人間以上に、知ってる。マジで勉強家、だ」


 秩序正しく並んだ墓石。そのうちの一つの前に辿り着き、そっとたもとに花束を置くと、男は墓標に向かって笑いかけた。


「……よう。一ヶ月ぶり。そちらは、変わり、ないかい?」


 はにかんだ笑顔をこちらに向けてきたのは、それから少しの間を置いたあと。


「あなたと違って、歳を取らないのよ、だと」


 どうにかこうにか、といった感じではあっても、男の軽口はやはり安堵をくれた。


「毎月、ここにいらしているのですか」

「ああ、月命日に」

「そうでしたか」

「俺の問いかけに返事をしてくるようでは、うちの奥さんは」

「はい」

「まだ、あんたのとこの本屋で、お世話になっている、みたいだな」

「そのようですね」


 まだ生まれ変わらずにいるのだろう、そう言いたいらしい。


 男の妻は、すでにこの世にいなかった。

 相手が墓地の一角に眠っているのでは、どんなに他人の興味を引く事故であろうと、そのニュースが耳に入るわけがない。事故に巻き込まれたはずの男から、花束が届けられたところで、驚いたり悲しんだりするわけがないのも、当然だった。


「な。驚かないって、言っただろうが」

「ええ」


 腑に落ちたけれども、晴れ晴れとはしない種明かしである。

 しかも、男が今声をかけたのは、妻にだけ。男の子供はここにはいないのだ。

 つまり、その子供は生きている。これからは、両親ともが先にこの世から去った、天涯孤独の身として生きていかなければならない、ということも、自動的にわかってしまった。


 親として、子供に先に旅立たれてしまうことは、きっと身を引き裂かれるほど辛い。だけど、親に遺されてひとりぼっちになってしまう子供を思う気持ちだって、辛く、悲しいに決まっている。それを考えると、気分が重くなった。


 だからといって、運命は変えられない。変える力も権利も、自分にはない。

 男や妻の代わりに、その子供を支えて、惜しみない愛情をそそいでくれる存在がいるといい。せめてそれだけを、切に願う。


「奥様は……ご病気、でしょうか?」

「いや、病気ではない、けど」

「そうですか」


 あまり語りたくない、か。それもそうだ。

 妻の年齢だって、男とそう変わらないはず。原因が病気であろうと、事故であろうと、どちらにしろ早すぎる。こんなに若くして、しかも二人とも、子供から引き離されてしまうとは。


 死の決定とは、どのような基準でおこなわれているのだろう。こうなると不思議を超えて、やや腹立たしくも思えてきた。


「あなたが、あれほど花束を届けることにこだわった理由が、やっと理解できました」

「そう、か」

「毎月の恒例行事では、何がなんでも届けたいですね」


 男の妻への愛情は、相手がもうこの世にいなくとも、変わらず深いのだ。

 しかし、これでついに男は目的を果たしたことになる。身体の状態もあるし、いつ魂が出てきてもおかしくはない、と気を引き締めた。


「いや、実は」

「はい?」

「正確に言うと、違う」

「違う?」


 男が座りたい、という目くばせをしたので、地べたに尻をつけさせてやった。

 バッテリーが切れかけているような身体の重さは感じても、疲れという感覚はないだろう、と認識している。まぁ、それも、想像の域を出ないのだけれど。だから、腰をすえて話したいことがあるのでは、と思った。覚悟を決めた、最期の話だ。


「何が違うのです?」

「月一で、ここにきていることは、本当だけど」


 男は墓石を見ながら語り出す。すらすらと話し出したところを見ると、やはりその説明をしたかったに違いない。ただ男はこちらの質問に答えている、と言うより、自分の説明が間違っていないかどうか、逐一妻に確認してもらっているかのようだ。


「はい」

「花は、ここではなくて」


 その時、子供のはしゃいだ声が降ってきた。

 はっとして顔を上げる。墓地を囲む塀の向こうからだ。


「お婆ちゃん。桜。きれい」

「うん、きれいだね」


 どうやら、幼児とその祖母が、塀の向こうを通りかかったらしい。この近くにあるという保育園からの帰りなのだろう。


 塀はそれなりの高さがある。こちらから人物の姿が見えないように、向こうからも見えないはずだとは思うが、きゅっと緊張する。見ると、男も神妙な表情で声のするほうを眺めていた。


「お母さんのとこ、行きたい。桜きれいって、教えてあげるの」

「うん。それはまた、あとにしようねえ」


 声は立ち止まっている。移動せずに、そこでしだれる桜を眺めている気配がある。

 季節の美しさを感じているところ、申し訳ないが、早く立ち去ってほしい。今の男にとっては、一分一秒だって惜しいはずなのだ。


「あ、今日はお父さんがくる日だった!」


 子供が急に声を弾ませる。声の感じからすると、女の子のようだ。


「そうだね」


 変わって祖母の声は、あまり歓迎の色が窺えない。


「毎月、よく忘れずにくるよ。もっとあっさりした男なのかと思っていたけど」

「お父さん、いつも、きれいなお花買ってくる!」

「お婆ちゃんとの約束だからだよ。それも……今日で終わりだね」


 聞き耳など上品とは言えないと思いつつも、なぜか会話に耳をすませることをやめられない。男も同じ様子だ。


「早く帰ろ。お父さん、お婆ちゃんちにきちゃう」

「連絡がこないから、お父さんはまだお仕事だよ。ねえ」

「なあに?」

「毎月、お父さんと会えるの、楽しみ?」

「うん!」

「お父さんと、暮らしたい?」

「うん」

「お婆ちゃんと、お爺ちゃんと、一緒のほうがよくない? お父さんはお仕事が忙しいから、あんまり遊んでくれないでしょう」


 そこで、少し間が空いた。


「遊んでくれなくてもいいよ。お父さんはお仕事を頑張ってるから。それより、ちょっとしか会えないほうがいやだ。お母さんがいた時みたいに、おうちでお父さんがお仕事から帰ってくるの待ちたい」


 保育園児にしてはしっかりとした口調で、しっかりと自分の意思を述べる様子に、聡明、という言葉が脳裏に浮かんだ。


「そう」


 祖母のため息には、落胆と同じくらいの濃さで、諦めも滲んでいた。


「じゃあ、早く帰ろう。お洋服とかおもちゃとかまとめなくちゃ」


 そうかと思えば、声が急にすっきりとした雰囲気をまとった。


「お父さんがいるおうちに、帰れる?」

「帰れるよ。約束だからねえ」


 女の子のきゃらきゃらと喜ぶ声が上がる。


「たまには、お婆ちゃんちに遊びにきてね」

「行くよー。お父さんといっぱい行く!」

「いい子だねえ、さやかちゃんは」


 そして、遠ざかっていった。


「さやか……?」


 胸がざわついた。その名前。

 男を見る。いつのまにか墓石に向き直っていた顔は、穏やかに微笑んでいる。だけど、その目からは、こぼれるはずのない涙が光って見えた。


「まさか、今のお子様は」

「ばれちまった、な」

「やはり、あなたの……?」


 そうか。なぜ思いつかなかったのだろう。ここが菩提寺であるなら、妻が生まれ育った家がこの近所であっても、何も不思議なことではない。

 男の子供。ならば、祖母らしき声の女性は、男にとっての義理の母親、ということか。


「お子様は、ずっと奥様のご実家に?」

「たぶんさ、俺にはできないって、そう思ったんだろ」

「子育てが、でしょうか?」

「あんたも見て知ってる通り、俺はいいかげんだからな」


 はは、と乾いた笑いを男は吐き出す。


「義理の両親に、あまり、好かれてねぇのもあるし」

「……そうでしたか」


 これもまた想像でしかないが、男手一つでの子育てとは、やはり大変なものなのだろう。子供というものは、どうしても母親を求めるものだと聞く。

 確かに男は甲斐甲斐しいほうではなさそうだし、出会ってばかりの時であれば、無理でしょうね、と即答しただろうと思う。でも、今は。


「やってみなくては、わからないでしょうに」


 やる時はそれなりにやる男に違いない。そう信じられる。


「ありがと、な」


 男は照れ臭そうに笑った。


「だから、花はずっと、奥さんの実家に、持っていっていたんだ」

「なるほど」

「だけど、さすがに今回は、そうもいかないだろ?」

「そうですね」


 そこまでの説明に、矛盾を感じるところはない。ただ。


「では、約束、というのは?」


 娘婿が月命日に花を届けにくることは、自分との約束だ、と義母は言っていた。そんな約束事などかわさずとも、男ならすすんで、時間が許せば毎日だって、愛する妻と子供の待つ実家に訪れたはずだ。


「約束、か」

「はい」

「実家にきていいのは、毎月、一回だけ。月命日だけ」

「え」

「それが、義両親が出した、条件だった」

「そんな」


 家族を亡くした悲しみは、男だって同じだ。仮にも自分たちの娘が愛した男性だというのに、孫にも頻繁に会わせられないほど、折り合いが良くなかったというのか。


「俺の、奥さんはさ」

「はい」

「ちょっと特殊な仕事、していて。親は、それに反対、だったわけよ」

「はい」


 それと、条件とどういう関係が?


「で、まぁ、仕事絡みの事故で、亡くなっちゃったわけ」

「そうでしたか……」

「それを、さ、俺のせいにしたいんだよ。俺は、奥さんの仕事、賛成してたし」

「なるほど」


 そういういきさつがあったのか。

 それは誤った恨みではあるが、親にしてみれば、男にあたることで心の均衡を保ちたいのかもしれない。


「一周忌まで、花束を届けることを、続けられたら」


 塀をぎこちなく振り返る男のしぐさは、かぶった着ぐるみの中から、身体を動かすかのようだ。


「そしたら、あの子を……さやかを、返してくれる、と」

「そうでしたか」


 事情を知らなかったのだから、しかたがないとしても、図らずも男に条件の上乗せをしてしまっていたとは。


「どうせ、続けられやしないって、高をくくっていたんだ」


 男はまた墓石に視線を戻した。


「諦めが早いからですか」

「みくびられたもんだろ」


 その言葉は妻がよく口にしていたらしいが、きっと本気で呆れていたわけではないのだろう。性格がどうであれ、男の持つ愛情の深さを知っていたはずだから。笑いながら言っていた、という男のセリフからもそれが窺える。


「義理のご両親は……他に見つけられなかったのでしょうね。突然に娘を失った悲しみを、消化できる方法を」

「そうかもな」

「そのことは、あなたにもわかっていたのでしょう?」


 だから、愛する子供を一時的にでも預けるなどということを、素直に受け入れたのでは。一年間、娘の忘れ形見をそばに置くことで、二人の悲しみがわずかでも癒されればいいと。


 男はそれに答えなかった。ただ、威勢良く言った。


「一年間、子供と一緒に過ごせないことなんて、どうってことねぇよ。折り合い悪い義実家に顔を出すことだってな。おあいにくさま、だよ」


 きっと、義両親のほうだって、本当はわかっていたのだ。


 安心した。両親を失った子供の行く末を案じていたけれど、義理の両親が支えてくれれば、おそらく道を踏み外すことはないだろう。


「あなたが」

「うん?」

「あの時、とっさに動いてしまったわけは」


 やっと本当のことがわかった。すべてのピースが、おさまるべき場所におさまった。


「さやか、という名前に反応したのですね」


 自身の娘と同じ読みの名前。今思えばあれは、カロンに尋ねられた清花が、自分の名前を名乗った直後のことだった。


 男は答えなかったが、静かにこちらを振り向き、柔らかく微笑んだ。


 こんな偶然が、あるものなのだろうか。奇跡にしか思えない。

 男もあの瞬間にそう感じたからこそ、それが役目とばかりに、自分の身をなげうってでも、清花を守ろうとしたのかもしれない。


「もしかして」


 その答えを聞いたところで、どうにもできないことはわかっていた。ますます気が滅入るだけだ。でも、気づいてしまった以上、知らないふりもできない。


「今日が、約束の一周忌なのですか……?」


 本当にそうなのなら、なんてタイミングだ。


「そんな顔、するなよ」


 呆れたように、男が目を細める。


「言っただろ? 俺はもう、自分を許したんだ」


 またも男は質問に答えないが、正解だと言っているのと同じだ。


「運命は、もう、どうしようもないだろうが」

「確かに、そうですが」

「いいんだ。俺は諦めずに、よく頑張ったし、約束をきちんと守ったことは、この花が、伝えてくれる」


 自分はもう旅立たなくてはならない。どんなに嘆いても、大切な人を守り、愛してあげることはもうできない。そんな自分を、自分で許す。

 男は簡単に言ってみせるけど、簡単なわけがない。とても難しく、悲しいことでもある。


 それでも、人はそうやって前へ進んでいかなければいけない。自分一人が立ち止まっても、時間は立ち止まってはくれないから。悲しみはそこに膿のように溜まっていくだけで、誰も幸せになれない。


 だから、人は、我々もそうだ、この世界に生きる誰もが、悲しみや苦しみにぶち当たり、振り切って、明日へと歩いていく。


 だけど、忘れない。感じた痛みを、こぶしを叩きつけて流した涙を。そうして、いつか必ず、その勇気は混じりけのない優しさとなり、大きな花を咲かせる。


 未来で誰かをまた癒やすだろう。


「泣くなよ」

「泣いていません」

「俺は、あまたの魂のうちの、一つに過ぎないんだろ? ネコちゃん」

「その呼び方はやめてください」

「猫も、泣くんだなあ」

「猫ではありませんし、泣いてもいませんったら」


 控えめな笑い声を立てる男の身体から、白い靄が立ちのぼり始めた。


「おお……」


 男がそれを眺めて、感心するかのような声を出す。


 その時がきた。寂しさを抱えつつも、ここまで長かったと苦笑して、脇から書籍を持ち出す。ピンク色の肉球の上に、最初の真っ白なページを広げた。


 いよいよそれがきたのだと、男にも伝わったらしい。


「あの子……清花を、よろしくな」


 最期の挨拶をしてきた。


「お任せください。必ず無事に回収し、天界へ運びます」

「頼んだぞ」

「念を押しますね。やはり、気になりますか」


 自分の娘と同じ呼び名を持つ魂。


「それもあるけど、怒られる、からな」

「怒られる? どなたに?」

「奥さん」

「奥さん。あなたの、ですよね」


 二度目は突っ込まねぇぞ、と仏頂面したあとで、参ったというふうな苦笑いを、男は浮かべた。


「あのセリフは、効いたな。大人はそれだから、相談できない、てやつ」

「ああ。そういえば、彼女がおっしゃっていましたね」


 二人が最初に対面した時。男との突発的な口ゲンカの際に、清花が興奮して放ったセリフだ。


「あんなこと、言われるなんて、奥さんに会えた時、俺は大目玉だ」

「なぜです?」

「俺の奥さんの仕事は、青少年の育成とかの、関係で」

「ああ」


 言いたいことが理解できた。


「それなのに、俺が、青少年の、気持ちを理解できない、とか」

「なるほど。確かに、奥様の面目丸つぶれですね」

「だろ」


 靄は男の全身を包み込み、その中には、手持ち花火にも似た細かな光の粒が弾け始めていた。互いにぶつかり、パチパチと音を立てている。


「あの子を、あのまま、消してしまわないでくれ」

「もちろんです」

「あんな悲しいこと、言わせたまま、なんて」

「わかります」

「新しい、人生では、出会えるから。必ず、頼れる、誰かに」

「そうですとも。わたくしも、そう思います」


 思うだけではない。強く願っている。


「あんな、年齢のうちから、心残りを、残す人生なんて」

「ええ。悲しいことです」

「早く、生まれ変わらせて、やってくれ……あの、クソガキ」


 男はそう言って、苦しそうに笑う。

 思えば、彼の放つ「ガキ」という言葉の、なんて愛に溢れていたこと。それもそのはず。男にとって、清花はまさしく自分の子供同然だったのだから。


「ご安心ください」


 頭の中には、慈愛に満ちた笑顔を浮かべた、あのひとが真っ白な翼を広げている。


「子供の魂を率先して転生させてくれる、とても優しい天使がいるのです」


 子供を世界の宝と呼び、自らの身体と精神を削ってでも、子供の幸せな生涯をひたすらに願う、壊れそうなほどに優しく偉大な天使が。


「それは」


 男が満面の笑みを見せた。


「心強いな」


「あなたも、早く生まれ変われることを祈っています」

「ありがとよ……なあ」


 一時は持ち直したように思えていた男の焦点が、また定まらなくなってきた。そしてこれはもう、二度と持ち直さない。


「はい」

「そこに……俺の、魂が……?」


 持っている、この書籍を指しているのだろう。


「はい。この中に、あなたの生涯がすべて、漏らすことなく記録されます」

「そっか……大した、内容じゃねぇ、な」

「そんなことはありません」


 大したことのない人間の生涯など、一つもない。


「奥さん、みたいな、生涯……なら、よかったのに」

「奥様の生涯ですか?」

「びっくりする、くらい、いろんなこと……やって」

「はい」

「とてもじゃ、ねぇけど……一冊じゃ、おさまらなかったと、思うぜ」

「それ」


 その瞬間、頭にひらめくものがあった。


「担当したのは、わたくしです!」


 思わず大きな声を出してしまったが、間違いないだろう。足りなくなった書籍を取りに、天界と人間界を二往復したことは、比較的まだ記憶に新しい。


 男は目を見開いたあとで、顔をぐちゃぐちゃに歪めて爆笑した。


 男の身体を取り巻いていた光の粒は、その頭上に高く舞い上がった。周りの空気を取り込みながら、そこで渦を巻く。ゆらゆらと揺らめくシャボン玉色のオーロラの中で、きらめく星々が遊ぶかのようにくるくる回る。まるで小宇宙だ。


 それからすぐに、手元の真っ白なページを目がけて降りてきた。匂いのない、やや温もりのある風にマントがあおられ、ヒゲが揺れる。

 パタパタとページはめくられていき、まばゆい光が撫でると、ものすごい速さでそこに文字が連ねられていく。終わりに近づくにつれて、ミニチュアの竜巻さながらのそれは、次第に小さく、弱くなっていく。


 最後の句点が記し終えられると、書籍は勝手に閉じて、表紙には男の名前と享年が浮かび上がった。光る小宇宙は鱗粉のような余韻をわずかに残して、やがて消えた。


 あっという間の、出来事。

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