【人間界7】
「良ければ、わたくしにも、あなたのことを教えてください」
隣を見上げてそうお願いすると、男は目を丸くして驚いた。
あいかわらず裏通りを歩いていた。えっちらおっちら、よろめきながら、だ。
道の端に建てられていた看板によると、ちょうど商店街の裏にあたるらしい。近所には、お寺や保育園もあるという。
それらが、人が多く集まる場所だという認識はあったので、裏道を通っているとはいえ、いつ他の生きている人間に出くわしてしまいやしないか、気が気ではなかった。そういった心配ごとをあまり考えたくない、と思っていた部分が大いにある。
男と一緒だ。最悪なことばかり考え込んでいても、生産性はないし、何より気が滅入る。気が滅入ると、しなくていい失敗を招くものだ。雑談で気をまぎらわせるのも得策かもしれない、と思った。
そして、この人間自体に興味が湧いてきていることも、正直なところ否めなかった。
自分のことを訊かれるとは夢にも思っていなかったのか、男はあからさまにうろたえた。
「俺の話なんて、聞いたってしかたないだろ」
「確かにあなたは、取り扱うあまたの魂の一つにすぎませんが」
男はとたんにうんざりとした顔をする。
「はっきり言うなよ。この広い世界の中の、自分という存在のちっぽけさに落ち込む」
「では、つべこべ言わずに教えてください」
「良ければ、なんて言っていた遠慮はどこに行ったんだ。俺の話なんて、山場も面白さもないって」
「それは、わたくしの話も一緒です」
「いや、あんたの話はなかなか興味深かったぜ」
「なら、わたくしにとっても、あなたのお話はきっと興味深いはずです」
「けっこうしつこいんだな」
「あなたには敵いません」
男はため息をつくが、どこか嬉しそうでもあった。
「何が知りたいんだよ」
「そうですね。お仕事とか?」
「なんで疑問符なんだ。本当に知りたいことなのかよ」
「本当に知りたいですよ」
「棒読みじゃねぇか。大した仕事じゃねぇよ。中小企業に勤めてる。ふつーのサラリーマン」
「中小企業にもいろいろあります」
男はけっ、と吐き出した。
「博識なのも考えもんだな。でも、これはわからないだろ。付箋」
「ふせん?」
「バカにするなよ、付箋。ないと地味に困るんだぜ」
「わかりますよ」
「あ、そうなの?」
「あなたの勤める企業は、付箋をお作りになっているのですか?」
「そうだ。俺は、それの企画する人」
「なるほど」
確かに山場のない内容だった。
「あとは、何が知りたいんだよ」
「そうですね。ひょっとしたら、あなたは」
「ん?」
「お子様がいらっしゃるのではありませんか?」
それは、単なる好奇心からの質問ではなかった。
ここまで見聞きした状況から、自分なりにこうではないかと推察した事柄を、確認して整理する作業と言えた。男のプライベートに少し踏み込んでみたい気になったことは、本当だ。だけど、少し前から、この推理が合っているかどうかを確かめたいと思っていたことも、本当だった。
「やぶから棒だな」
「そうでしょうか」
男は否定しない。だから、素直に種明かしをした。
「奥様がいらっしゃると聞いた時に、もしやと思ったのです」
「特別、奇妙なことでもないだろ」
「ええ」
前を向いた。進んでいく先は、突き当たりでゆるく右に曲がる道になっている。先程からずっと、石を組んだ塀が続いていた。
「そうだとすれば、すべて納得できます」
まだ中学生の清花の自死に、男が必要以上に憤ったことも。身勝手さをひどく責めたことも。身をていしてまで、カロンから守ったことも。
「人の親という立場であるあなたは、とてもじっとしてはいられなかったのですね」
男は清花に、自分の子供の姿を重ねていたのではないだろうか。
もしも自分の子供が、親である自分を置いて先立ってしまったら。
それが自死であったなら、子供がそこまで思い詰めていたことに、どうして気づけなかったと悔やみ、自分を責めて、守るものを失うとともに生きる希望まで失い、それこそ自ら命を絶ったかもしれない。
親であれば誰でも、思いがけない子供の死に、それほど大きく深く悲しむのだということを、男はきっと清花に理解してほしかったのだ。
自分の身体が傷つくこともいとわず、他人である清花をカロンからかばったことに対しては、過ぎると思えなくもないが、人間の親というものは多かれ少なかれ、そういうものなのだろう。
「そういうこと、わかるのかよ」
男はやはり否定せず、ただぶっきらぼうに言うだけだった。
「想像でしかありませんが」
今日出会ったばかりで、かわした言葉はそれほど多くない。それでも。
「物言いは多少乱暴ですが、あなたは愛情深い、良き夫で父親なのですね」
わずかな、他愛ないやり取りの中に、その人間性が透けて見えてくることがある。だから、なおのこと辛くもあった。
「想像か」
こちらからの印象については、男は返事をしなかった。やはり、照れ臭いのだろう。
「あんたはこうやって俺と普通に話ができて、それは人間のことに詳しいからなんだろうなって思うけど、他の仲間……て言うか、スタッフ? も、そうなのか?」
「我々は普段、人間と話をする機会がありませんので、会話については何とも言えませんが。ただ我々は、きっとあなたがたが思っている以上に、人間に関心がありますよ。人間そのものに、と言うより、その文化や食べ物などについてですが」
「へえ、そうなのか」
「花の種を採取してきて咲かせてみたり、特殊なルートで特産物を取り寄せたり」
「マジか」
「マジです」
男ははっとした顔つきになる。
「もしやと思うけど、さっきの鰹」
「ええ。天界に海産物などありませんからね」
「やっぱりそうか」
「脂の乗った鰹が晩酌のお供に最高なのです。一度
「密輸みてぇだな」
そう言って男は噴き出した。
「でも、なんか嬉しいな。俺らが普通に好きで食ってるものを、想像もつかないところで、同じように気に入ってくれているやつがいるなんてさ」
「確かに、想像もつかないでしょうね」
晴れ渡った青い空を見上げる。はるか高みに白い雲が浮かんでいるが、当たり前だが天界は見えない。
我々が人間界のものに興味を持つのはきっと、本当は知的好奇心などではない。
人間界に、ひいては人間に憧れているのだ。だから、彼らが触れるものに、自分たちも触れてみたいと思うのだ。
我々の世界にはないものを、美しいものを、人間はたくさん持っている。その事実に、気づいていない人間は意外と多い。なんともったいないことかと思う。
「中でもわたくしは、同僚たちよりも突出して勉強家だという自負があります」
「なるほどな」
男は愉快げに歯を見せた。カロンを、鰹一匹で撃退した場面を思い出したのかもしれない。
「あんた、面白いなぁ。仕事場でも人気あるだろ」
「とんでもない。どちらかと言うと、鼻つまみ者ですよ」
「へえ? そうなのか? 意外だな」
「どこの世界でも大抵、真面目すぎる者は煙たがられるものです」
「ああ、確かに、そういうのはあるかもな」
そのあとで、空に視線を投げた。
「あんたみたいな不思議なイキモンだって、そうやって想像することができるのになあ」
晴れた空に、男の言葉はぽっかりと浮かぶようだ。
「お辛いですね」
「なぁ。仕事から帰ってきてさ、見つけるんだぜ。子供がぐったりと倒れてるのを。あの子の親の気持ちを思ったら、たまらないよな」
「あなたですよ」
「俺が?」
男は目をしばたたく。立ち止まった。
「お子様を、ご家族を遺していくことは、とてもお辛いでしょうに」
初めてその顔から、表情が失われるのを目の当たりにした。
おそらくそうでもしないと、いかに飄々とした男とはいえ、さすがに感情をセーブできないのだ。泣き崩れるところなど、見かけはケモノの小さなイキモノになど見せたくはないのだろう。
我々は魂を運ぶが、人間たちに死の運命を運ぶことはない。それでも、そんな顔を見ると、ひどく胸が詰まるものだと知った。男が善良な人間だからに違いない。
「我々を、恨んでいることでしょうね」
恨んでいないわけがない。
その決定をおこなっているのは別の機関とはいえ、同じ天界の者。
この世界に、人間は星の数ほどもいる。
非情な運命を背負うのは、何も男でなければいけないことはない。取り立てて悪いことなどしていないのに、どうして自分が選ばれるのか、と。もっとふさわしい人間が他にいるのではないか、と。いくら殊勝な男とはいえ、そう訴えずにはいられないはず。
それなのに、責めるどころか、笑いかけられる強さはどこからくるのか。
「何を言っているんだよ」
男に表情が戻る。でもそれは、先程と同じ、何かがほどけるかのような弱い笑顔だ。諦めが漂っている、とも表現できた。
「俺が死んだ理由に、あんたらは無関係だって言っていたじゃないか」
「わたくしどもの部署は、確かに、関わっていないのですが」
「恨んでねぇって、別に」
「いいのですよ。素直な思いをおっしゃっても。告げ口しようとも思いませんし、それで転生先に影響があるわけでもありませんし」
吐き出すことで、わずかでも気持ちが軽くなればいい。
それを聞いたから、ということではないのだろうが、男は初めて愚痴のようなものをこぼした。
「そりゃあさ、なんで俺なんだよ、とは思うよ。なんで酒飲んで運転していやがるんだ、法律知らねぇのかって、突っ込んできた車の運転手を怒鳴りつけたくもあるし」
それでも、顔はあいかわらず笑っている。
「でも、時間は戻らないじゃんか」
「そうですが」
「だから、俺は許すんだ」
「許す……?」何を?
「家族とか、大切な人たちのために、俺はもう生きられない。そんな俺を、俺は許す。諦めるんじゃないぜ。許してやるんだ」
それは、思いもしない言葉だった。頭が冴える。
「それが……あなたにとっての、正しさなのですか?」
「正しさ? ああ、うん。まぁ、そうなんかな。よくわからねぇけど」
照れた笑いに、男のこれまでの生き様を見た気がした。
最初からそんなふうに割り切れるわけなどない。苦しんだり、泣いたり、つまずいたり、転んだり。人が生きる道は、決して平坦ではないから。そうして傷ついて、誰かをののしり、打ちのめして、気がついたのだ。
気がつかないままの人間もいる。だけど、男はそうではなかった。
もちろん、辛くないわけはない。強がりの部分だって、少なからずあるはずだ。それを見せない男は、本当の意味での強さを知っているのだろう。
なんて質の高い魂を持つ人間なのだろうか。
「それをさ、あなたはいつも諦めがいいんだから、なんて笑いながら言われたら、やってられないっつうの」
「奥様ですね」
男が口をへの字に曲げて言うものだから、笑みがこぼれてしまう。
「だから、あんたも許してやったらいいよ」
「わたくしですか?」
「後悔しているんだろ? 前に、魂を運びそこなったことをさ」
面食らう。まさか、人間が、ウリエルとそっくり同じ言葉をかけてくるとは。
「でも、その経験があったからこそだって思うんだよ。今度は絶対に連れていかせないって、あんたが強く心に決めたのはさ」
「そうですね……確かに」
「ほら、糧になってるじゃんか。だから、もう許してやったらいいんだって」
男は明るく笑う。
まったく。
本来ならとっくに作業を終えて、社員食堂の日替わり定食で腹を満たし、今頃は中庭のベンチでうとうとしていたことだろう。厄介な魂を二つも抱えるはめになって、残業の一言では片づけられないほどの作業に、辟易としていていいはずなのに。
むしろ、これでよかったかもしれない、なんて思っている。
「ええ」
やはり、ギリギリのところで、運に見放されていないらしい。
「そうします」
「よし!」
自分の身体にまさしく鞭打つようにして、男は再び足を踏み出し始めた。
「まあ、そう言いつつ、俺はこの花束を奥さんに届けられないことは、許せないわけだけどな」
「じかに渡すことはできませんよ」
「わかってるって。何度も言うな」
「今日は、お二人の結婚記念日なのですか?」
「いいや」
「では、奥様のお誕生日?」
「いいじゃねぇか、なんでも」
そこを濁す理由は、よくわからない。
「そんなことより、急ぐぜ。せめて三時のおやつまでには、あんたを職場に帰してやりたいからな」
「ありがたいですが、なぜ三時?」
「三時って言ったら、おやつの時間だろうが。そういう習慣は天界にはないのかよ。昼前からこっちにいるんだろ? さすがに腹減っただろうと思ってさ。俺はもう空腹なんて感じねぇけど」
「鰹は持っていますが」
ポケットに手を突っ込もうとすると、男が止めた。
「やめとけって言っただろ。マジで腹壊すぞ」
「食べませんよ」
「なあ」
塀に向かってよろよろと進みながら、男が言う。
「なんでしょう?」
「天使が、生まれ変わり先を決めてくれるんだろう?」
「ええ、そうです」
「次の人生はさ」
「はい」
「とりあえず、飲酒運転にものっくそ厳罰がくだる世界になってるといいよなあ」
笑う男の身体が、視界から崩れ落ちた。
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