【人間界6】
非常用の階段を使って、マンションの一階まで二人で降りる。
男は損傷を受けた身体に四苦八苦で、一段下りるのもやっとという感じだが、しかたがなかった。極力目立たないようにしなければならないので、エレベーターは使えない。
建物の外壁に沿うように備え付けられた欄干は、やや錆びている。屋根はあるが囲いはなく、風雨にさらされているためもあるのだろうが、このマンション自体が、それほど新しい建物ではないせいもあるだろう。室内は新築のように見えたが、おそらくファミリー向けとして売りに出す際に、内装だけリノベーションされたのだ。
正面玄関ではなく、裏口のドアから外へ出た。言うまでもなく、他の生きている人間と出くわすことを避けるためだ。出る際も、用心深く辺りを見回してから、男を先導するようにして先に身体を出した。
男を引き連れて戻ってきた時にも感謝したことだが、今時の人間界でオートロックではないマンションは珍しい。自分一人であれば、壁などあってないようなもので、どこへでも出入りがたやすいけれど、生身の男が一緒ではそうもいかない。
一階に管理人室のような部屋はなく、どうやら大家は別の場所に住んでいるようで、それもありがたかった。
仕事運は壊滅的だが、思えば、ここぞという時の運はいつもよかった。
男に尋ねる。
「目的地まで、どれくらいの距離でしょうか?」
きょとんとした表情で見下ろされた。言い直す。
「あぁ、時間でもいいです。どれくらいかかりますでしょうか」
「あのさ、こういう場合、誰のもとへ届けるのですか、が常套句じゃないのかよ」
目をしばたたきながら花束を掲げてみせる男は、時間を訊かれるのかと思ったら距離なのか、と面食らったわけではなかったらしい。
「何の常套句ですか」
本気でわからなかった。
男は首をかしげながら答える。
「感動もののラブロマンスとか?」
「そういうものがお好みなのですか」
「観たこともねぇよ」
男との噛み合わない会話に、今さら驚きも嘆きもしないが、ため息は出る。
「花束を届ける相手が誰かは、今さほど重要ではないのです」
「そうなのか?」
「そうですとも」
恋人だろうが、恩師だろうが、親友だろうが。死体に花束を差し出されれば、一様に腰を抜かすことに変わりはないだろう。そういう意味では大差ない。
「今いちばん重きを置かなければならないのは、花束を届けるという目的を達成するために要する時間です」
「やっぱり時間だよな」
男はさも最初からわかっていたかのように、うんうんと頷く。
「あなたが動けなくなるのは、そう遠い話ではないでしょう。到着までに長い時間がかかる距離なのだとすれば、申し訳ありませんが、ここで諦めていただくしか」
にわかに男は眉間にシワを寄せた。
「話が違うぞ」
「だから、申し訳ありませんが、と言っています」
「途中で魂が出てきちまった時のために、あんたがついてくるんじゃないのかよ」
「最初から無謀であることがはっきりしているなら、わざわざ危ない橋を渡ることもありません」
「さっきの鰹だって、相当に危ない橋だったと思うけどな」
ブツブツと不平をつぶやいていた男だが、やがて天をあおいだ。
「こんなことなら、あんなクソガキ、かばってやるんじゃなかった」
カロンと対峙して、長い時間が経ったように感じられるが、実際はそれほどでもなかったらしい。
太陽はまだ高く、建物と建物の隙間から射し込む日差しは白く柔らかい。マンションやアパートが並ぶ裏通りに、心配した人の気配はなく、サビ柄の猫がゆったりと横断するだけだ。
「あなたがあんな行動に出るとは、いまだに信じられない気持ちでいます」
「俺は意外にゲスを嫌う人間なんだ」
「その毒牙に、彼女がかかることが許せなかったのですか?」
「……別に、あいつがってわけじゃない。他の人間だったって、同じようにしたさ」
「そうなのですか?」
「うるせぇなあ。もう済んだことだ、この話は終わりにしようぜ」
小さな段差を下りようとすると、アスファルトとの境目に、花が咲いていた。硬さをものともせず生えてきたわりには、青く細かな、かわいらしい草花だ。
わざとなのか無意識なのか、男はそれを踏まずに飛び越えた。
「距離はわからねぇけど、バスだと五分くらいなんだよな。歩きなら、二、三十分てとこかな」
ふらふらと歩き出す男の足取りは、酔っ払いのようにおぼつかない。いつ倒れるとも知れないため、寄り添うようにしてついていく。
「二、三十分ですか」
「たぶんな。そんなもんじゃねぇの」
「今のこの状況では、十分の差がものを言います。もう少ししぼれると、ありがたいのですが」
「そう言われてもなあ。いつも移動はバスかタクシーだし」
「ですよね」
これ以上、男により正確な時間を求めることは無理そうだ。
行って作業を終えて戻ってくるまでに、かかって一時間というところか。決して短くない。それまで、清花の身体が持ちこたえてくれると助かるのだが。
「かと言って、もう二度とバスになんて乗りたかねぇけどな」
男は言って、嘔吐する真似をしてみせた。
「今のあなたが乗り込んでいったら、バスだろうがタクシーだろうが人力車だろうが、周りの方々が卒倒しますよ」
「違いねぇなあ。で、間に合いそうか?」
そう尋ねてくる男の面持ちは、さすがに神妙だ。
「今のあなたの元気さを見た限りでは、大丈夫だろうと思いますが、断定はできません」
「訊いておいてそれかよ」
「申し訳ありません。なにしろ、いまだかつてこんな前例はないもので」
「とりあえず、諦めなくていいんだよな?」
「不安は残りますが」
そう答えると、心配そうにこちらを覗き込んでいた男の顔が、ほっとゆるんだ。
「よし。じゃあ、気が変わらないうちに行こうぜ。まぁ、間に合わなかったら、その時はその時だ」
「潔いというか」
「諦めがいいとも言われるけどな。行くぞ」
その矢先、男の足がもつれて、崩れるようにその場に片膝をついた。慌ててしゃがみ込み、男の肩に手を添える。
「大丈夫ですか?」
「……ちくしょう。自分の意思に身体がついてこないってのは、なかなかしんどいもんだな」
「休みながら行きましょう、と言いたいところですが」
「わかってるって。そんな時間あったら、少しでも先へ進んだほうがいいもんな」
休憩を取っても取らなくても、腐敗の進行は止まらない。男の身体の辛さは、これ以上重くなることはあっても、軽くなることはないのだ。男自身、そのことをよくわかっているようで、よっ、と掛け声をかけて立ち上がる。
「よし、まだ動ける。急ごう」
口ぶりは勇ましいが、息も絶え絶えといったところ。この状態では、想定よりずっと時間がかかると考えたほうが妥当だろう。間に合わない確率のほうが高い。
男もそれを感じていることだろうが、めげることなく、足を前へ前へと踏み出していく。魂がかろうじて留まっているだけの死体であるにもかかわらず、さらにこれだけのダメージを受けた身体のどこに、これほどのパワーが残っているのだろう。
そうまでして花束を届けることは、男にとって、どれほどの大きな意味があるのだろうか。そして、その相手とはいったい。
「何か、気がまぎれる話でもしてくれよ」
歩きながら男がしてきた提案に、考えにふけっていた頭を上げる。
「話ですか?」
「そうだな、あんたの話がいい」
「わたくしの?」
「あんたの仕事の話だよ。今思い返すとさ、俺、あんたがどういう部署で、どんな仕事をして給料を貰ってるのか、詳しく知らないんだよな」
「わたくしの仕事の話ですか」
目をしばたたく。変なことに興味を持つ人間だ。
まぁ、男以外の人間がどうなのか、今までこうして新刊と言葉をかわすことなど一度もなかったから、わからないけれども。
「それはタブーとか言うなよな。いいじゃないか。なんたって、俺たちは社畜仲間なんだし」
苦しそうに眉間にシワを寄せながらも、はは、と男は快活に笑った。
「わたくしは、書店のスタッフである、とお伝えしました」
「だろ? それくらいしか聞いていないんだって」
「それ以上、聞きたいことが何かございますか」
「まぁ、書店スタッフの仕事って言ったら、本を仕入れて売る、がおおまかな仕事だろうと思うけどさ。あんたの場合、人間の魂を運ぶって大役もあるわけだろ? そんな話、めったに聞けるもんじゃないじゃんか」
男の口ぶりに、社交辞令のようなニュアンスは滲んでいない。
「まぁ、そうでしょうね」
「運ぶ先は天国だって言っていたよな。天国が本当に実在するってのも、相当な驚きだけどよ」
「天国ではありません。天界です」
「細かいやつだな。どっちだって同じことだろ。それで、人間の魂と本屋と、どういう関係があるんだ?」
鼻から諦めの息を抜いた。潔い反面、しつこいところのある男だ。
別に、仕事の内容を教えたところで、これからの作業に差しさわりがあるわけではない。ここで聞いた内容は、清花の場合と同様、生まれ変わればすべて忘れてしまうのだ。無事に生まれ変われれば、だが。
「お亡くなりになられた人間の魂は、みな書籍となるのです」
「へぇー、人間は死んだら本になるのか」
「ええ。これです」
身体をひねり、脇に挟んだ状態のまま、書籍を男に示してみせる。
「ずっとそうして持ってるよな」
「大事なものなので。これをなくしたら、始末書では済まされません」
一時的にでも手放してしまったことを思い返して、今さらながら肝がひやっとする。
紛失して、人間の手に渡ることは考えにくいが、何が起こるかなんて誰も予測できない。現にこの事態こそが、まったく予測しえなかったものなのだ。万が一、人間の一生に影響を与えるようなことにでもなれば、天界からの永久追放も覚悟せねばならない。
男がすばやく拾って手渡してくれたことに、改めて感謝の思いが湧いた。
「人間は誰も、俺やあのガキの場合も、その本に魂が吸収されるってわけ?」
「吸収、というのとは少し異なりますが」
どのように説明したら伝わりやすいだろうか、と思い悩む。
「まぁいいや。とにかく魂がその本になって、で、あんたがそうやって持って天界まで運ぶわけだな」
「その通りです」
「死んだ人間のを全部? すごい数じゃないか」
「ええ。毎日どころか毎秒、人間はどこかで亡くなっていますからね」
「そうだろ?」
「スタッフはわたくしだけではありませんし、書店も天界に一箇所ではないのです」
「あぁ、なるほど。何々支店、みたいな感じか」
「そうですね」
話し始めると、これはこれで面白いものだな、と思った。
人間界はもとより、天界でだって、改めて自分の仕事や転生のシステムについて語る機会など、当たり前のことだが一度もなく、新鮮だ。
「天界の本屋、つまりあんたの職場には、人間の魂の本がずらりと並んで、売られているってわけか」
「ええ。広大と言うほどの店舗面積ではありませんが、なかなかに壮観なものです」
ここまでは、ざっとだけども、清花にも教えた。
「売られているからには、それを買いにくる客がいるんだよな」
「ええ、そうです」
「買われて本が減っていかないと、人間はどんどん死ぬわけだし、店がパンクしちまうもんな」
「そこは人間界の書店と同じですね。仕入れるばかりでは、商品が溢れてしまいます」
「人間の本屋の場合は、仕入れをストップさせりゃいい話だけどな」
男は笑う。
「そちらさんでは、そうは行かないだろ?」
「そうですね。彼女にもお話しましたが、我々は、人間の死についての決定権は持っていませんので。調整なんてできません」
「死の決定権てやつは、また別部署の仕事か」
男は苦々しげな表情をする。
自分の事故死を決定した何者かが存在する、ということを知り、さすがに怒り出すかと思ったが、予想に反した。諦めがいいとはよく言われているようだが、こういう時には殊勝である。
「ええ。別部署、と言うより、別機関と言ったほうが正しいかと。我々の部署が所属するのは魂管理局ですが、局内にそういった部署はありませんので」
「会社がまるきり違うってことね」
「そういうことになりますね。購入しに訪れる方々もまた、我々とは異なり、局に所属してはいませんが、局の本部から仕事を任されています」
「転生のジャッジだな」
「よく覚えておられましたね」
「会社の歯車をなめんな」
偉そうに言い放つ男はおかしかった。
「ジャッジマンは、あなたがた人間が、天使と呼んでおられる方々です」
「天使って本当にいるのか!」
「天使という呼び名は、あなたがたが名付けたものですけどね」
「え、そうなの?」
「便宜上、お借りしているのです。彼らははるか以前から天界に存在され、階級は我々よりずっと上です。我々が彼らをひとくくりに呼ぶなど、本来は失礼にあたります」
「ほお」
「ただ、あなたがたがよくご存知の、大きな白い翼を持った姿であることは本当です」
「頭に輪っかがあって?」
「それはフィクションですね」
「なんだ。がっかりだな」
「ジャッジマンである天使の仕事には、我々が運んでくる書籍が欠かせません」
「そうか。人間の魂が本になるんなら、買った本の人間の転生を、買ったジャッジマンが請け負うってことか」
「あなたはつくづく鋭いです」
誰でもそうだろうが、褒め言葉に男は悪い気がしないようだ。照れたような、それでいて誇らしげな顔をした。
「どうやってジャッジするんだ?」
「本は読むものです。一冊の書籍には、一人の人間の生涯が細かく記載されています。それをじっくりと隅々まで漏らすことなく読み、そこから適した転生先を導き出します」
「うわあ」
「読書はなさらないタイプでしょう」
「お。よくわかったな」
これは褒め言葉ではないのだが、なぜか男は嬉しそうに歯を見せる。
「そんな雰囲気です」
「一行読んだら、寝落ちできる自信があるぜ」
「いばって言うことではありません」
「子供の頃は、読書感想文が死ぬほど嫌いでなー。なんたって、長い文章を読むことが苦痛なんだから」
「お察しします」
本当は察していない。
「それなのに、長い休みになると、決まって宿題にあるんだよな。読書感想文。毎回、本のあとがきを丸々写してたわ」
「あなたがジャッジマンだったらと考えると、恐ろしいです」
「褒めるなって」
「ええ、先程からまったく褒めていません」
そこでまた、男がよろめき、片手を地面についた。
住宅地を抜けて、左手には滑り台と鉄棒があるだけの、小さな児童公園がある。もちろん、平日のこの時間に遊んでいる子供も、それを微笑ましく見守る親の姿もない。
「大丈夫ですか?」
実は褒めていなかったことに、ショックを受けたわけではあるまい。
「平気だっつうの。気にしなくていいから、続けろって」
男は手のひらについた砂の粒を払い、笑顔を見せるが、明らかに無理している。
本音を止められなかった。
「なぜ、そこまでして」
「俺だってな、たまには根性見せたい時があるんだよ」
「諦めがいいと言われているからですか」
「まあな」
「それはどなたに?」
「奥さん」
男はそばの電柱に手を添えながら、なんとか立ち上がった。こちらを見て、顔をしかめる。
「なに、目ぇひんむいてるんだよ。そんな変顔している暇があったら、手を貸せって」
「あなたの奥様ですか?」
「なんで俺がよその奥さんに、悪態つかれないとならないんだ」
ありえなくもない、とは言わないでおく。
「失礼いたしました。ご結婚なさっているとは、夢にも思いませんでしたもので」
「謝ってるけど、それ、充分失礼にあたってるからな」
本部からの情報通りなら、いや、そこに間違いがあっては困るのだけども、男の年齢は、とうに家庭を持っていても確かにおかしくない。
外見だってハンサムの部類だが、ただ男の性格は、人間ではない者からしても、とっつきやすいとは思えなかった。相手をけむにまく言動にしても、はっきり言って女性から好かれるタイプとは思いづらい。
「まぁ、昆虫でさえまれに、変わった趣味嗜好を持つものがいると言いますからね」
「すげえ迂回して、とんでもない方向から俺をディスるのやめろ」
「もしかして」
嫌な予感がした。
「その花束は、奥様に?」
男はあっけらかんと答えた。
「ああ。あいにく、いまだかつて愛人のポストが埋まったことがないんだよな」
「やはり、おやめになったほうがいいかと」
「なんでだよ」
「何度も申し上げていますが、あなたはすでに亡くなっています」
「わかってるって。いいかげん、耳にタコができるどころか、たこ焼きができらあ」
男はうっとうしそうに、指で耳をほじくってみせた。
「いいえ、わかっていません」
少し強めの口調で言うと、男がむっとした。
「協力してくれるんじゃなかったのかよ」
「確かにお供すると、花束を渡しにいきましょうと言いました」
「だったら、なんで今さら」
「お亡くなりになったあなたが、生きている人間に、花束を直接手渡すことはさせられません。それは、ご理解いただけますよね?」
「あぁ、それはやっぱり、そうだよな」
落胆はするも、男はやはり諦めがいい。
「しかし、相手が気づく場所に置いておくことならば、可能だろうと思いました」
「お、そうか、なるほど。それなら、さっさと置きに行こうぜ」
「事故から、どのくらいの時間が経過したかおわかりですか?」
「あ? 三十分……四十分くらいか?」
男は自身の腕時計を見やるが、すぐに舌打ちした。止まってやがる、と吐き捨てる。
「あの事故はややセンセーショナルです。すでに報じられていることでしょう」
「まぁ、そうかもな」
「あなたの奥様の耳にも、一報が入っているかと」
「……どうだろうな」
男は濁した。
「まだお昼を過ぎたばかりです。オフィスなどで仕事中であったり、家事に追われたりであれば、まだご存知ではない可能性もありえるでしょう。しかし、時間の問題です」
「だから、何だって言うんだよ」
「それだから、おわかりになっていないと言うのです」
「何がだよ」
男の苛立ちが、空気を介してこちらに伝わるように思えた。
「届けられた花束が、亡くなったはずのあなたからだと気づいたら、奥様はきっと正常な精神を保てません!」
さすがに声を張ってしまうと、男は目を見開いた。
「家族はご友人とは違います。恋人ともまた異なるのです」
頭の中に、あの時の老女の、しぼり出すかのような泣き声が響いていた。涙は流していなかったが、あれは嗚咽だ。泣きながら発せられた声だ。
老女にとって、生きる理由を見出せなくなった大きな理由は、伴侶を亡くしたことだ。どんなに生きづらい世の中であっても、せめて伴侶がそばにいてくれさえすれば、二人三脚で生涯をまっとうできただろう。
男は、命のともしびが消えてしまったというのに、花束を届けに行こうとしている。おそらくその熱意だけが、ぼろぼろの身体を動かしているに違いない。
届ける先が友人や、恩師や、恋人だったとしても、それは驚き、涙してくれることだろう。ただ、嫌な言い方だが、その悲しみの大きさは、家族が抱えるものと比べると小さく、薄れるまでの時間も家族より短い。
赤いバラの花束。「愛情」という花言葉を持つ花。
あの事故の中にあって、花束がこれほどきれいなままなのは、その瞬間に、男がとっさに自分の身より花束をかばったからだ。そのために、どこかに掴まるということができずに、車外に放り出されてしまったのだろう。
今日が何かの記念日なのか、それは知らないが、男と妻の間に、強い愛情が息づいている証しと言っていい。
男の妻が、もしもすでに事故のことを知っているなら、届けられた花束は、追い打ちをかける恐れがある。二重のショックは、精神に大きな負担をかけるだろう。へたをしたら、後追いしかねない。
「あなたが、本当に奥様を想っていらっしゃるのなら」
魂が闇に消えてしまう可能性を、わずかだって遠ざけてあげてほしい。
男は、ふっと笑みを浮かべた。緊張の糸がゆるんだ時に似ている。
「大丈夫。彼女はそんなことで腰を抜かしやしない。自ら命を絶ちもしないさ。心配すんな」
「……その、根拠は何ですか」
問いかけに、男はこざっぱりと笑う。
「彼女のことは、俺がいちばん知っているからだ」
「それは……そうでしょうけど」
そう言われたら、これ以上は反論できなかった。
「あんたが心配しているようなことにはならねぇよ。俺だってさ、奥さんの魂が、あんなザリガニもどきにちょん切られて連れて行かれるのなんて、まっぴらだし」
考えなしということでもない。男は、こちらの杞憂をきちんと理解してくれている。それでもゴーサインを出せずに考え込んでいると、男に思いがけないことを言われた。
「あんたは、いいやつだな」
「……そんなこと、ありません」
腹の底に湧き上がる、このむずがゆさは何なのか。だけど、不快ではなかった。
「……信じていいのでしょうか」
「生前、営業職でもなかった俺が、こんなこと言う機会があるとは思わなかったけどよ。信じてもらえれば、悪いようにはさせないぜ」
弱いため息を吐き出す。
「……わかりました」
強引なこの男にかかると、根負けしてばかりだ。
「よくよく考えれば、あなたのような方に惚れる女性ですものね。そのくらいで参ってしまうような、軟弱な精神をなさっているわけがありませんでした」
「だから、ディスり方が変化球すぎるんだよ。どうせなら直球でけなせ、直球で」
そう不満を垂れ流しながらも、男の顔は笑っている。
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