【人間界5】

「……何が、起きたの?」


 そう最初につぶやいたのは、少女だ。

 恥ずかしながら、まったく同じ気持ちで立ち尽くしていた。


 カロンに魂を抜き出され、目を閉じて深く寝入っていたかのようだった少女の本体は、ぱっちりとその目を開けて、せわしなく睫毛を上下させている。頭の上に浮かんでいたはずの少女の魂は、いつのまにか跡形もなく消えていた。


 カロンは、少女から少し離れたところの床に、大きなハサミとともに転がっていた。こちらから見ると左手に当たる位置で、角度的に顔は見えない。小さくうめき声を上げているので、意識はあるようだ。


 つい今しがたまで、熱でこちらを威嚇していた火柱は、もう影も形もない。


 カロンの意識がそれたからに違いなく、そのために、少女の魂も元の身体に戻ったのだろう。同じタイミングで、少女の意識を支配していた魔術も解かれたようだ。


「え、どうして……?」


 次に浴室に浮かんだのは、少女の戸惑いの声。


 自分を守るように覆いかぶさっている人物に、ようやっと気づいたらしい。カロンが言うところの新世界へ旅立てなかったことを惜しむ気持ちだったり、邪魔されたことへの憤りだったりは、そこに滲んでいない。

 ただただ信じられない気持ちでいっぱいのようで、やはり、同じ気持ちだ、と思った。


 サラリーマン風情の漂う安スーツ姿の、どことなくピンとがずれた、あの男だ。


 少女のすぐ横、こちらに背中を向けた体勢で、両方の膝と手のひらを床についている。ちょうど少女の肩口に顎を乗せた状態だ。

 カロン同様にこちらからその表情は窺えないが、呼吸に合わせて、肩が短い間隔で上下している。とりあえずは無事らしい。


 カロンがハサミを引き抜いた瞬間だった。


 背後から飛び出していった影に、ぎょっとした。はっと気がついた時にはもう、炎のバリケードにまっしぐらに走る、男の背中があった。引き留める間もなかった。


 男はその勢いのままに、カロンに体当たりした。


 大きなハサミを構え、今まさに少女と魂を切り離さんとしていたカロンは、男の力の限りのアタックを食らい、横に弾き飛ばされた。身体自体は子供なので、倍以上の大きさと重量のある、大人の男に本気で突進してこられたら、ひとたまりもない。

 外野手どころかフェンス向こうの観客が、隙を突いてホームベースに突っ込んでくるとはまさか夢にも思わず、油断もあったのだろう。


 それはこちらも同じで、カロンが濡れたタイルの上に肩から転げ落ちるまでを、瞬きもできずに見ていた。


 冥界の使者の魔術によって呼び出された、燃えさかる炎の柱は、幻であって幻ではない。しっかり熱さを感じるし、触れれば火傷する。


 そこに生身でぶつかっていった男の衣服は、当然だがボロボロに焼け焦げて、そこから露わになった皮膚がただれているのが見える。

 痛みを感じないことが幸いだが、肉体が損なわれれば、それなりにダメージは受けるはずだ。男の魂が、まだその身体の中に留まっていることが、嘘みたいに思えた。


 おかげで、と言うのは恥ずかしく、申し訳なさもあるが、きっぱりと目が覚めた。


「あなた……なんて無茶を! 大丈夫ですか!」


 マントの裾を引きずりながら、急いで駆け寄る。

 男の安否をしっかり確かめたい思いと、よくぞ流れを止めてくれた、と褒めたたえたい思いとが、胸の中を半分ずつ占めていた。回り込んで男の顔を覗き込む。


「……おお。なるほどな」


 男はちらりとこちらに目線を寄越して、言った。


「なるほど?」

「俺は猫とか犬とかを飼ったことがなくてさ。仕事に忙殺されて帰ってきて、もふもふに癒やされる飼い主の気持ちってやつが、今ようくわかったぜ」


 そして、頭をふらりと持ち上げて、消耗し切ったようにそのまま後ろに尻餅をつく。


「大丈夫そうですね」


 小さく吐息をついた。まさか男の減らず口が、これほど嬉しく感じられることになろうとは。

 しかし、近づいてみてわかった。


 男のダメージは予想以上に大きい。身体だけでなく、顔までひどい有り様だ。突っ張った腕で、自身の身体を支えているのさえ辛そうだ。息は上がり、意識がもうろうとしていることが見て取れる。軽口を吐き出すことも簡単ではないのだろうと思うと、自分さえしっかりしていればと改めて悔やまれた。


 カロンの様子を横目で窺う。

 倒れふしたままで、起き上がる気配はない。あちらもかなりの痛手であるようだ。とうとう意識が途絶えたのか、うめき声も聞こえなくなった。


 体格の差はもちろんだが、カロンにぶつかっていった時、男は火を身にまとった状態だったのだろう。魔術によって起こされた火は、ただ火傷を負わせるだけの火であるはずもなく、カロンは自身の魔術にあてられたのかもしれない。

 こんな事態はもちろん初めてのことで、推測でしかないが、男の炎症のひどさから見ても、その仮説はありえそうだと思った。


 何にせよ、助かった。


「……ちくしょう。なんだよこれ。すげえ辛いぞ」

「当たり前です。火災現場に、身体一つで突っ込んでいったようなものですよ」


 それも、有害な薬品が燃えさかり、毒ガスをまき散らす、化学工場の火災現場だ。


「なぁ、俺死んでるんだろ? そのわりに、めちゃくちゃ身体がしんどいじゃないかよ」

「神経が機能していないとは、確かに言いました。ただ痛みは感じなくとも、身体には重度の火傷を負っているのです。動けることが不思議なくらいですよ」

「俺のほうが、あいつよりよっぽど化け物みたいじゃねぇか」

「まったく、なんて無謀な。うまく行ったからよかったものの。一歩間違えば、あなたも一緒に冥界に連れ去られていたかもしれませんよ」


 男は耳を両手でふさぐ。


「なんだよ。せっかく頑張ったのに、お説教かよ」

「心配しているのです。しかしながら、助かりました。あなたのおかげで、わたくしは同じ過ちを繰り返さずに済みました」

「じゃあ、連れていかれずに済んだんだな」


 男はそこでようやく、少女の魂がまだそこにあることを認識できたようだ。

 おや? と首をかしげたい思いだった。男の物言いに引っかかりを覚えた。矛盾している気がする。


「……なんで?」


 こちらが口にするより先に、少女が、戸惑いと怒りがないまぜになった声で男に問いかけた。


「なんでわたしを止めたの? こんな世界から早く解放されたいのに」


 状況をやっと飲み込めたらしい。それと同時に、顔を歪めて悔しさを滲ませる。


「わたくしもそれが不思議です。あなた、なぜ彼女を助けたのです? こんな……無謀な真似までして」

「別に……助けたつもりじゃ」


 二人から詰め寄られて、夜遊びの現場を親に見つかってとがめられた、思春期真っ盛りの少年よろしく、男は不満げに顔をそむけた。


「あなたは、彼女の魂を早くなんとかしろ、とわたくしにけしかけていたではありませんか」

「まあな」

「早く花束を届けに行きたくて、居ても立ってもいられなかったはずです」


 男が飛び出す寸前まで立っていた場所に、視線をやる。


「その願いを、諦めたわけでもないようですし」


 花束がそっと置いてある。とっさに放り出した感じではなく、傷つけられないようにと位置に気をつけて置いたことは明らかだ。


 カロンに冥界に連れていかれることは、イコール魂が消滅するということ。その話を聞いた時の男は、確かにショックを受けていたように見えたが、それは、自分の身にもその危険が迫っているのでは、と怯えていたに過ぎないのだろうと思っていた。

 その後、カロンが担当するのは、自死した魂だけだということを、我々の会話から知った。ほっとしたことだろうが、同時に余計なことまで知ってしまった。


「あなたは、自分の時間も残り少ないと悟ったはずです」


「え?」

 少女が驚いてこちらを見て、それからまた男を見た。


 亡くなったはずの魂が身体に留まり続ける。そのリミットがいつになるかわからないと、男に言ったことは嘘ではない。

 しかしながら、心臓をはじめ様々な臓器が運動をやめた肉体は、血液も酸素も循環せず、当然のことながら腐敗していく。カロンが言った通りだ。


 身体が朽ちてしまえば、器を失くした魂は出てこざるをえない。

 つまりは、ジ・エンド。魂が出てくるのを待ちわびる、こちらにとっては好都合だが、男は自分の願いを叶えることができなくなる。


 男は唇を尖らせるだけで、何も言わない。


 でも、男は少女よりも元気に見えるが、やはり死体なのだ。

 すでに腐敗の兆候が身体に現れていてもおかしくなく、そのことに男が気がついていたとしても、不思議なことではなかった。


「しかも、あなたは反吐が出るくらい、彼女のことがお嫌いであったはずです」

「ぐは! わかっていたつもりでも、言葉でちゃんと聞くと傷つく!」


 図らずも少女を傷つけたようだが、今はそんなことに気を割いている暇はない。


「カロンがさっさと彼女の魂を持ち去ってくれるなら、あなたにとって、願ってもないことだったのではないのですか?」


 男は答えない。透明な瞳には、どんな感情が移ろっているのかまったく読めない。もう一度問いかける。


「あなたが、彼女の魂をここに留まらせたのは、いったいなぜなのですか?」


 どうして男は身をていしてまで、毛嫌いしているはずの少女の魂を、カロンの魔の手から救ったのか。


 男を目の上のたんこぶかのように思い、あれほど睨みつけていたはずの少女も、いつしか細かく瞬きを繰り返すだけになっていた。男の行動のちぐはぐさに気がついたのだろう。


 そうだ。あれは、決して邪魔をしたのではない。むしろ、少女を危険から守ったのだ。

 まさか、急に少女に情が湧いたわけでもないだろうし、同じ社畜として、異界の書店スタッフに同情したわけでもあるまい。何かしらの理由が、そこにあるはずだ。


「俺は」


 男が少女を、清花をまっすぐに見た。


 戸惑いからなのか、清花のまぶたの開閉が、より激しくなる。

 ふてぶてしい口調で、男はとうとうそれを白状した。


「むなくそ悪かっただけだっつうの」

「むなくそ?」


 図らずも、清花と声が重なってしまった。


 男は身体をひねり、転がるようにして四つん這いになった。重くなかなか言うことを聞いてくれない身体は、たったそれだけの動きで根を上げる。呼吸が浅くなる。


「だって、そうだろ。何も知らないバカなガキを、うまいこと口車に乗せて連れていく、なんてよ。あんたも言ってたけど、まんま風俗に落とす手口みたいじゃねぇか。むなくそ過ぎるだろうが」

「またガキって言った!」

「連れていくにしてもよ、もっとマシなやり方があるだろうがよ」

「やり方の問題なんですか?」


 肩を落とすのと同時に、呆れた息が漏れてしまう。


「甘ったれたガキも、もちろん嫌いだ。それよりも俺は、昔からそういうのが本当、虫唾が走るくらい大っ嫌いなんだ」

「そんな潔癖には見えませんが」


 男が立ち上がろうとするので、微力ながらサポートする。先程のお返しだ。


「うるせえわ。そんなことどうだっていいだろ。それより見ろよ」


 男が顎でしゃくった。示された先を見る。


「カロン」


 いつの間に意識を取り戻したのか、片方の膝を立てたカロンが、悪魔たる鬼気迫る形相でこちらを睨んでいた。


「……ふざけたことをしてくれやがって」


 浴室内の空気が、さらに重苦しくよどむ。室内の至る所を振動させるかのような、低い地鳴りの音が響き始めた。


「俺を本気で怒らせたようだな。思い知らせてやる」


 口では威勢がいいが、ふらつく身体にはまだダメージが残っていることが見て取れた。


「ふざけたことをしているのは、あなたのほうですよ」


 盾になるようにして、男と少女の前に出る。

 カロンは脂汗を額に滲ませつつも、にやりと犬歯を覗かせた。


「なす術なく震え上がっていたくせに。お前に何ができるんだよ」

「ええ。まったくお恥ずかしい」


 脇に挟むようにして持っていた書籍の背表紙を手に掴み、そのまま正面へ差し出す。ブーメランを放り投げたかのようなフォームだ。

 男が、清花が固唾を飲んで、背後で事の成り行きを見守っていることを感じた。


「しかし、新刊にあのようなド根性を見せつけられては、彼らを運ぶ使者として、尻尾を巻いている場合ではありません」


 あの瞬間、横っ面に張り手を食らわされたような思いがした。

 まさか、新刊の突飛な行動で目を覚まされることになろうとは。情けないところを見せてしまったが、不思議と悪くない気分だ。

 あのまま、またしてもカロンに魂を奪われたとなれば、ウリエルに顔向けできなかった。何より、二度と自分を誇れなくなるところだった。


 カロンは馬鹿笑いをした。


「なんだよそれ! 魔術の真似っこか?」

「いいえ。そんなつもりは毛頭」

 首を振る。


「ただですね。わたくしは魔術は使えませんが、無駄に知識は持っているんですよね」


 そう言って、すばやくマントのポケットに、空いたもう片方の手を差し入れる。カロンの視線が引っ張られる。こうなれば、しめたものだ。

 さっとそれを取り出すと、書籍の影から、目にも留まらぬ速さで空中へ投げた。


 天井近くで星のようにきらめく、銀色の光。


「あ?」


 カロンの目がくらむ。

 それからすぐに、空間が割れるような絶叫がとどろいた。


「……な、なんだ?」


 男が手でふさいでいた耳を解き放った時、そこは元の浴室に戻っていた。

 家族用のやや大きめの浴槽に、洗い場。シャワーヘッドの先端から、水滴がぽとりと落ちる。明かり取りの窓からは、燦々と明るい太陽光が降りそそぎ、カロンはいない。


 ふう、と息を吐き出した。


「うまく行きましたね」

「え? なに? あれは何を投げたの?」


 うろたえる清花の声を背中で聞きながら、床に落ちた小ぶりなそれを拾い上げた。


「鰹です」

「かつお?」


 清花と男の素っ頓狂な声が揃った。


「ええ。悪魔というものは、銀を恐れるそうですよ」

「ぎ、銀て……それ、魚だよな。色が銀色なだけじゃねぇか」


 そう突っ込む男は、銀で作られた弾丸や剣に聖なる力が宿るという話を、映画か何かで耳にしたことがあるのかもしれない。


「そうなんですよ。実は、いちかばちかの賭けでした。カロンが単純でよかったです」

「光りものに撃退される悪魔……」


 男はなぜかガッカリしている。


「ていうか、なんでネコちゃんは、そんなものポケットに入れてるの?」


 清花は鼻をつまんでいる。生魚のにおいが苦手なのだろう。


「わたくしのおやつです」

「まさかのおやつ!」

「ええ。また今回も長丁場になるようなら、お腹が空いた時にいただこうかと思っていましたのに」


 てろんてろんと身を揺らせた鰹を、また元のポケットに戻す。


「いやあんた、それ食ったら、絶対腹を壊すって……」

「そりゃそうですよ。カロンの毒気にあてられているやもしれませんし。食べません」

「そういうことじゃなくてさ」


 マントの中のスマートフォンが鳴る。

 まだ何か言いたそうな男だったが、こちらが「静かに」のジェスチャーをすると素直に口を閉じた。


「そろそろ連絡がくる頃かと思っていました」


 スマートフォンを頭の上にかざして、相手が話し始める前に言った。その様子を指さす男と清花が、何やら文句がありそうな顔を見合わせているが、ガン無視だ。


「わたくしの運の悪さは、天下一品です」


 その言葉で、こちらがどんな状況になっているのか、同僚はだいたい掴めたようだ。

 しかしながら、かえって好都合だという。記録保管庫ではあいかわらず人の手が足りず、新しい白紙の書を届けることもままならないらしい。


「了解しました。こちらはこちらで、最善を尽くします」


 通話を終える。

 根本的な問題は何も片づいていないが、清々しい気分だ。このくらいの壁など、なんてことはないと思えた。もちろん、根拠なき自信だ。

 しかし、そういうものが意外と物を言うことがある。同僚が余計なことを言わなかったのは、それを感じ取ったせいかもしれない。


 男に向き直った。


「行きましょう」

「うん?」

「花束を届けに行きたいのでしょう? 約束通り、わたくしがお供いたします」

「え」


 男は目を輝かせる。露骨にそわそわし出した。


「い、いいのかよ」

「しかたありません。心残りを解消させない限りは、おとなしく生まれ変わっていただけそうにありませんし」

「でも、こっちの仕事が完了してからって」

「いいのですか? 彼女の件が完了するのを待っていたら、身体が腐って悪臭を放ち出すのは、あなたのほうが早いかもしれません」


 男はううむ、とうなる。


「それは、確かに困るな」

「それに、約束ですから」

「約束……条件、とは違うのか」

「約束です」


 そうきっぱりと言い切ると、男は嬉しそうに口角を引き上げた。

 スキップを踏みながら、とはもちろん行かないけども、いくぶん足取りが軽く花束のもとへ戻る。その背中に、釘を刺した。


「ただし、急がなければなりません」


 男が振り返った。その瞳に覚悟が滲んでいる。


「俺の身体が腐り始めているからか」

「やはりそうでしたか。ええ。しかも、カロンの炎に飛び込んだことで、あなたはかなりの痛手を負いました。身体が劣化するスピードは、さらに加速するものと思われます。のんびりしていたら間に合わないかもしれません」


 男は黙って睫毛をふせた。

 自分でしでかしたこと。誰に文句を言えるでもないことが、よくわかっているのだろう。


「そして、それだけではありません」

「それだけではない?」

「ま、待って。わたしはどうしたらいいの?」


 清花が不安げな声を出す。

 男がこれ見よがしなため息をついてみせた。


「お前なあ。ネコちゃんじゃわたしを救えない、なんていきがっていたくせによ。思惑が失敗したらコロッと態度を変えるとか、虫がよすぎないか?」

「だって」

「だってじゃねぇよ。どうせ大した言い分もないくせに、口答えするな」

「まぁまぁ。よしましょう。あの時彼女は、カロンに操られていた部分もあったのです」


 清花が一人にされるのは、これで二回目になる。何も知らなかった最初の時とは状況が違い、弱気になる気持ちも理解できた。


「あなたには、やってもらいたいことがあります」

「わたしに?」


 目を見開く清花に向かって頷く。


「カロンは退散しました。しかし、一時的であって、戻ってくることも考えられます」

「おい、マジかよ」

「よく考えてごらんなさい。鰹ですよ。いかに単純なカロンであっても、魚介に魔を払う効力がないことなんて、冷静になればわかるはずです」

「やっぱり効力ないんじゃねぇか」

「騙されたとわかったら、それこそ怒り心頭で乗り込んでくることでしょう」

「どうするんだよ。あんたがいなかったら、今度こそ魂を持っていかれちまうぞ」


 男の口ぶりには、焦りが滲んでいた。


「ですから、彼女にお願いするのです」

「わたし……何をすれば?」


 カロンが現れる前から一転、急にしおらしく問いかけてくる。清花の中でも、何かしらの心境の変化があったのかもしれない。


「残された時間があまり多くないことは、あなたも同じです。わかりますね?」

「うん、わかる」

「限りある時間を有意義に使うためには、あなたの協力が欠かせません」

「うん」

「あなたがすべきことは、ここでおとなしく待つことです。彼が目的を遂行できるよう、祈りながら待っていてください」


 男を指さす。清花は頷いた。


「わかった」

「そして、待っている間にもしもカロンが現れて、またあなたを誘うことがあっても」

「うん」

「決してついていかない、強く拒むと約束してください」

「はあ? そんなの、無理に決まってるだろうがよ」


 わめいたのは男だった。身体をひきずるようにして、こちらへUターンしてきた。


「こいつは、たいそう自分だけが辛いようなことを言って、生きることを放棄したんだぞ」

「ええ。承知していますとも」

「そんなの、こいつに限ったことじゃない。俺だってそうだし、この世に生まれ落ちた誰もが、少なからず苦しみを背負って生きてるもんだろ」

「その通りです」

「しかもこいつは、この先の命まで放棄しようとした。誰も辛い目に遭わせたくない? お前は何なんだ。正義の味方か? お釈迦様か?」


 男の剣幕は、これまでと比べて激しい。これでは、せっかく清花が心を入れ替えかけているのに、振り出しに戻ってしまいそうだ。それは困る。


「落ち着いてください」

「お前はただの甘ったれだ。それでもここまで生きてこられたのは、誰のおかげだ? お前なんかを守ってくれていた誰かがいたからだろうが」

「もう、そのへんにしましょう」


 いきなり男に罵声を浴びせられて、当の清花は顔をぐしゃぐしゃに歪ませるだけだ。応戦する気力も湧かないほど、男に気圧されているのだろう。


「身勝手で考えなしのクソガキが。お前のその甘えた根性が、さっきのザリガニもどきを呼び寄せたんだよ!」


 そう怒鳴ると、一時的に体力を使い切ったのか、男はその場にへたり込んだ。

 清花はというと、幼い子供が、泣きながらしゃっくりを止められないでいるかのように、肩を小刻みに弾ませている。


「どうなさいました。急に興奮なさって」


 荒く呼吸を繰り返す男の背中に手を添える。


「……なんでもねぇよ」

「なんでもないこと、ないではありませんか」

「なんでもねぇんだって」


 手を振り払うようにして、男はそっぽを向いた。


「そうですか。でも、だからこそ、わたくしは彼女に賭けたく思います」


 清花の震える目がこちらへ向けられた。

 その目に訴えかけるように、ゆっくりと言う。


「先程も言いましたが、この世の命は、誰も等しく生まれ変わる権利があると、わたくしは思います」

「わたし……」

「あなたには、必ずこの意味がおわかりいただけます。わたくしは、あなたを信じています」


 一旦は力なくふせられた睫毛が、再び持ち上げられた。


「しばし留守をお願いします。あなたとも、約束です。またここでお会いしましょう」


 まっすぐにこちらを見る清花に、そう念を押してから、静かになった男の肩を叩く。


「落ち着きましたか?」

「……まあな」

「では、参りましょう。時間は待ってくれませんよ」


 男の身体を支えて立たせる。最初に会った時と同じように、男はしぶしぶとながらも頷いた。


「わかったよ、わかった」

「身体が持つといいですね」

「まあな。それよりよ」

「なんでしょう?」

「俺のベルトを掴んでるの、さっき魚触った手だろ? 勘弁してくれよ。生ぐせえ」

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