第4話 エリートの泡姫

あれから僕は、アパートに帰ってコンタクトを外すとすぐに、ベッドの上で倒れ込むように眠りについていた。

気づくと、カーテンから覗く窓の外の世界は夜の闇の静寂に包まれていた。

「今…何時なんだ…」

僕は枕元に無造作に置いてあったスマートフォンを手に取った。

「10時間も…寝てたのか…」

ゆっくりとベッドから起き上がって冷蔵庫から水を出して一気に飲み干す。

だいぶ身体は元に戻っていて、頭痛も気にならなくなっていた。

「陸くん、だいじょうぶなの?明日は早番だからね‼️おやすみ😪」

上原さんからのLINEが入っていて返信する。

「体調だいぶ良くなたよ、明日早番大丈夫です👍」

LINEを送った時もう1件のメッセージに気づいた。

「助けて」

「あっ…七海から?」

僕は眼鏡を探してスマートフォンのLINEのメッセージを見直した。

半年前、この部屋から出て行った浅倉七海からのメッセージに間違いなかった。

その「助けて」の一言が彼女らしくなくて…僕の胸がざわついていた。

七海とはリストラになった会社で働いていた時、彼女が取引先の担当者だった頃に知り合った。

相手の役職など関係なく仕事に対して妥協しない彼女の姿にいつの間にみんな引き寄せられて、僕はそんな彼女にいつしか恋をしていた。

彼女は、東北大学で電気工学を学んだエリートで、身長も170センチの長身で、容姿もモデル顔負けだった。

黒くて長い髪を結んで颯爽と歩く姿も自信に満ち溢れていて、彼女と街を歩いていると誰もが振り返って彼女を見ていたのを覚えている。

それが僕には少し誇らしくて、そんなことを全く気にしていない彼女も好きだった。

なぜ僕みたいな冴えない男と付き合うようになったのか、今でも不思議なくらいだった。

僕は七海の少し斜め後ろを歩いて、彼女の束ねた髪が左右に揺れるのを見ているのがとても好きだった。

新型コロナウイルスでリストラになった僕に愛想を尽かして、半年前出て行ったきり音信不通で、今どこに住んでいるのかも知らなかった。

「今どこ?どうしたの?」

僕はLINEにメッセージを送ってまた眠りについた。


「陸くん、身体の方はもう大丈夫なの?」

上原さんが心配そうな顔で訊いてきた。

「この前はごめん…もう大丈夫だから」

「そっ、あんまり心配掛けないでよっ」

そう言ってカウンター奥へ消えて行った。

「おはようございます!」

「あっ…おはようございます…」

昨日、理科大の屋上で抱きしめた黒縁メガネの女子高生だった。

今日の彼女は黒縁メガネじゃなく…この前の制服でもなく…水色の膝丈ワンピースを着て見違えるようだった。

「コンタクトに…してみたんです」

そう言って少し恥ずかしそうに笑った。

「死気が消えた人間は、また新しい幸せが舞い込むチャンスに恵まれる…」

僕は老婆のような少女の言葉を思い出していた。

彼女は一番奥の席じゃなく、駅の見える陽当たりの良い席に座って、チャイティラテのアイスを注文した。


桜も葉桜になって、自転車に乗っていると少し夏の匂いがする4月23日金曜日、僕はすっかり仕事にも慣れて大半の仕事を任せられていた。

「あれ?上原さんは?」

「うん…彼女少し休むことになったんだ…」

店長の山本さんが伏し目がちに言った。

「そうなんですか…」

彼女がいないとお店の中はこんなに物静かで…つまらないものなのかと思っている自分がいた。

午後、休憩を取っていると七海からLINEのメッセージが届いていた。

「陸、今度会えない、出来たら午後4時から5時くらいダメ?」

「4時から5時って…」

僕はその限定した時間帯に引っかかるものを感じながら返信した。

「いいよ、どこ行けばいい?」

「ここに来て欲しい…」

その返信に住所と地図が添付されていた。

「川崎?七海って今…川崎に住んでんのか?」

僕は、彼女に次の休みの日に川崎に行くことを返信して仕事に戻った。


「リストラ前は月曜の朝の雨が憂鬱だったよな…」

僕は雨の匂いを感じながら20分くらい歩いて、少し遅い昼食を食べるために「ときわ食堂」に入って、中おち丼定食を頼んだ。

会社をリストラになってから久しぶりの外食は正直少し贅沢で、僕は味わうようにゆっくりを箸を進めた。

「ごちそうさまでした」

電車に乗るのも久しぶりで…あの老婆のような少女はまだ大手町にいるのだろうか?と考えていた。

15時01分の常磐線代々木上原行に乗って、七海の指定した川崎に向かう。

北千住駅で乗り換えて、上野から上野東京ラインに乗って川崎へ向かう。

いつも見慣れていた車窓がとても懐かしく感じて、小学生の遠足のように少しワクワクして車窓を眺めていた。

鶴見川に掛かる鉄橋を越えると電車は減速して川崎駅のホームに滑り込んでいった。

「川崎駅前わかりにくいからここで待ってる」

「わかった」

七海からのLINEが届いた。

「バーガーキング?七海ハンバーガーなんて食べなかったのに…」

川崎駅に着いて地下街から地上に出て新川通りからチネチッタ通りに入るとバーガーキングの看板が見えてきて、僕はLINEで七海に店の前に着いたことを告げた。

しばらくしてバーガーキングから人目を引く長身の女性が出てきて僕の方へ近づいてきた。

「ごめん…遠かったでしょ」

ピンク色の膝上のワンピースからまっすぐなキレイな脚が周りの男の視線をいっそう引き付けていた。

「久しぶり…元気そうだね」

僕は少し周りの視線を気にしながら小声で言った。

「陸も…元気そうでよかった、仕事は?」

「うん…今は金町のスターバックスで…バイトだけど」

「そぉ…金町かぁ…何だか懐かし」

そう言って七海は長い黒髪をかき上げた、なんだか僕と一緒に住んでいた頃の七海じゃない、初めて逢うような感覚で彼女を見つめていた。

「じゃ、行こうか…」

そう言って七海は多摩川の方に向かって歩き出した。

僕はそのあとをゆっくりついて歩く…僕の好きだった彼女の後姿はもうそこにはなかった。

「どこ行くの?」

僕の声が聴こえていないみたいに七海は振り返りもせず先に歩いて行った。

市役所を過ぎて堀之内のソープ街に近づいた時、七海は急に振り返って僕の顔を見て街の方を指さして言った。

「私…この街で働いてるの…」

「え?ここって…ソープ…」

「陸…私…私、どうしたらいいのかわかんないよ…」

そう言ったきり七海は言葉を発することが出来ず、代わりに彼女の瞳からはとめどなく涙が零れていった。

「どうして…」

「陸と別れてから…仙台にいる親が事業ですごい額の借金背負っちゃって…私が返すしかないでしょ…」

「陸…助けてよ」

「助けるって…」

「私…これから出勤なんだ…コロナでお客さん減っちゃって」

七海は悲しそうに笑って涙を拭いた。

「僕が?お客として?」

「そぉ、いいでしょ?一緒に住んでいたんだし」

そう言って腕を絡めてきて、僕はその腕を振りほどいた。

「陸…泣いてるの?」

「ごめん…出来ない…」

「そうだよね…こんな汚れた私…」

「違うよ!そうじゃない!汚れてなんか…七海は」

僕はそれ以上言葉が出なくてその場で立ち尽くしていた。

「陸…ありがとね、私、陸と一緒に居れた時間が一番幸せだった」

「七海…」

「ごめん…じゃ…行くね」

そう言って七海は堀之内のネオン街へとゆっくり歩き出した。

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