第5話 黒いエンドロール

今、僕の追いかけている黒髪は、僕の知っているあの頃の黒髪じゃないことはわかっていた。

けれど、あんな七海を見るのは初めてで、このまま放ってはおけなかった。

そして僕はその黒髪を見失わないように…見守るように追いかけていった。

堀之内の街も日が沈みだして、雑然と並んだ古びたビルとビルに挟まれた路地を七海は少しふらつきながら歩いて行った。

しばらく進むと黒いスーツを着て髭を生やした、オールバックの強面の男が声をかけてきた。

「お兄さん…どうですか?これから…ご一緒しますよ」

僕はその言葉を無視して正面を見つめたまま、少し速足で通り過ぎた。

「チッなんだよ!」

強面の男の舌打ちする声が聴こえた。

この街の淀んだ空気は明らかに駅前の賑わいとは違って、まだ空は明るいはずなのに…その一帯は深くうす暗い闇に包まれているようで…なにか嫌な匂いがした。

七海との戻れない日々がよみがえってきて…後を追いながら僕はまた…泣いていた。

「あの七海が…こんなところで…」

その時、僕は気づいてしまったんだ…彼女が自ら命を絶つ前に僕を呼んだことを…死気が僕を呼びよせたことを。

そして彼女はエンドロールと書かれたネオンサインの前で立ち止まった。

僕は近くの電信柱に身を隠して彼女を見守っていると、周りに人気のいないことを確認して七海はそのお店に消えていった。

僕は…ゆっくりとそのお店に近づいくと入口にはエンドロールと書かれた真っ赤なカーペットが敷かれていて、店の壁には川崎特殊浴場協会会員の章と書かれたプレートが貼られていた。

「お客さん?入るの?」

突然後ろから声がして…僕の身体と声は硬直した。

「あっ…いえ…」

そう言うと男はいぶかしそうに僕を見て、お店の中に入って行った。

「お客?こんな時間から?」

この一帯のルールなどわからない僕は…この店に入って行った七海がまた戻ってくるのを、今は待つしかなかった。

「七海はこの中で…」

僕は…それを想像しただけで自分が情けなくなって、怒りのような何かが湧き上がって、いつの間にか拳を強く握り締め手の平に爪痕が残っていた。

「どうして…どうして」そう繰り返していた。


どのくらい時が過ぎたのか…辺りは暗闇に包まれて、その闇に紛れた雄がエンドロールと書かれたカーペットを踏み越えて帰って行った。

僕は…電信柱にもたれ掛かって、それをただ見ていることしか出来きなかった。

周りのお店のネオンが消えて、街路灯の薄暗い灯りだけが街を照らし始めた時、エンドロールと書かれたネオンも静かに消えた…

しばらくして、そのお店で働いていた女性がお店から出てくるのが見えた。

「七海?」

薄暗い街路灯に照らされた横顔が一瞬見えて、僕はもたれ掛かっていた身体を起こした。

七海はエンドロールに入る前とは違って、昔のように黒い髪を後ろに束ねていた。

誰もいない街灯だけの暗がりを七海は大きな歩幅で歩いて行く。

僕は少し離れて七海の髪が左右に揺れるのを見つめていた…

七海は川崎駅から僕と待ちあわせしたハンバーガー屋を通り過ぎて酒と書かれた看板が下がってるファミリーマートに入って行った。

「日進町…時代に取り残されたようなこの街に七海は住んでいるのか?」

僕はまた電信柱に身を隠して彼女が店から出て行くのを息をひそめて待っていた。

ファミリーマートから少し重そうなレジ袋を肘の内側にかけて七海が出ると、誰もいない路地に入って行く。

僕は足音を立てないように、薄暗い中をゆっくりついていくと、七海は古い3階建てのマンションの前で止まって辺りを見渡してその中に入って行った。

僕は足早にそのマンションの下に立って上を見上げると3階の一番左の部屋の灯りがついた。

「ここか…」

「このあと…どうする?」

過ぎていく時の中、僕はこの見知らぬ街で7時間以上も七海を追いかけていた…ただ彼女をこの街から救い出さなければと思っていた。

しばらくマンションの前で七海の部屋を見上げていると部屋の灯りがフッと消えた。

その時、僕の背中がゾクゾクし出して、心臓の鼓動が乱れて胸か苦しかった。

「まただ…この感覚…」

僕は自分の心臓を掴むように左胸に手を当てた。

「七海…」

七海のいる3階の部屋まで階段を駆け上り一番左の部屋にたどり着いた。

僕は大きく深呼吸してドアを2度ノックすると廊下に鈍い金属音が鳴り響いた。

「七海…七海?入るよ」

僕はドアノブをゆっくり回すと「キィィ」と嫌な音を立ててドアがゆっくり開いた。

真っ暗な部屋の奥にぼんやり白いものが映っていて、僕は小さな声で名前を呼んで、靴を脱いで部屋の中に入って行った。

「七海?」

暗闇に目が慣れてきてワンルームの奥にはベッドと部屋の真ん中にテーブルが置いてあってその上に吊り下げられた電灯の紐を引っ張った。

部屋の中はまるで殺菌灯のように青白い光に照らされて、テーブルの上には琥珀色のウイスキーのボトルとグラスが置いてあった。

「ウィスキーなんて飲めなかったのに…」

ベッドには、黒い髪がシーツの上に広がって、タンクトップ姿で横たわる七海の背中が見えていた、僕はベッドに近づいて七海の肩を揺すった。

「七海?七海…」

タンクトップ姿の七海が仰向けに反転すると左胸と背中に何かが貼られてコードが壁に伸びていた。

「なんだよこのコード?電極?」

「七海?」

「これって?」

電極から伸びたコードは壁のコンセントに付けられたタイマーに固定されていた。

僕は…僕は泣きながらそのタイマーを外して七海を抱き起こした。

「冷たい…七海…七海 起きろ!起きて…起きろよ!」

そう言って左胸と背中に貼られていた電極を剥ぎ取った。

ウイスキーの匂いがする七海を強く抱き締めると七海はゆっくりと瞼を開けた。

「陸…どうして?」

「大丈夫…もう大丈夫だから」

「陸…ごめん、ごめんね」

そう言って七海は僕の胸で子供のように泣きじゃくっていた。

七海の身体に体温が戻ってきて、僕の身体はまた鉛のように重くなっていった。

僕たちはそのまま長い眠りについた。

「おはよう 陸!」

七海が好きなコーヒーの香りがした。

「七海?」

「うん…もう大丈夫!もう死んだりしないから」

そう言って七海はカーテンを開けると、差し込んだ朝日が彼女の笑顔を照らしていた。

その後、七海は大学時代同級生だった弁護士に相談して、仙台にいる父親が自己破産の手続きをしたと連絡があった。

「陸…いろいろ、ありがとね」

「僕はなにも…」

「なんで?なんであの夜…私が死のうとしていた夜、陸はあそこにいたの?」

「それは…」

「私、嬉しかった…もう私たち戻れないけど…陸だったらきっと素敵な人見つけられるよ」

七海の瞳から大粒な涙が溢れていた、でもそれは悲しい涙じゃなくとても美しい希望の涙だった。

「じゃ、行くね」

七海はそう言って仙台行の新幹線に乗り込んだ。

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