13話「溶けない氷」





私はみずほさんに、「空元気」、「取り繕っても中身が透けてる」と言われて、あっけにとられていた。でも、何かを言わなければいけない。だから考えたけど、やっぱり「そんなこと…」と言いかけてやめることしかできなかった。みずほさんは、そのあとは何も言わなかった。




みずほさんの言うことは確かだった。


私はそれから笑っているのが辛くなり、自分は危機をまだ脱していなくて、そして家族や周りの大人には頼れないことに、悩まされていった。お母さんはいつも体調が良くなさそうだし、私が自分の悩み事を切り出せる状態じゃなかった。




私はまず、スクールカウンセラーの先生に少しだけ話してみることにした。それでも、なかなか全部を言う気にはなれなかったから、「お話を聴いてくれる時間を定期的に持ちたいんです」とお願いしただけだった。


カウンセラーの先生からはすぐに快諾をもらい、私は水曜の十三時から、三十分話をしてもらえることになった。







その日は、一回目のカウンセリングだった。カウンセリングルームとして使っている部屋は、保健室の間に一室を挟んで隣にある。


私は時間通りにノックをして部屋に入り、「よろしくお願いします」と言って、先生に勧められた椅子に腰掛けた。


小ぢんまりとして掃除が行き届いた部屋の中には、先生と生徒が対面で座る椅子とテーブル、小さな先生のデスクがある。それから、ガラス扉の向こうにファイル類が見えている細長い灰色の棚が、部屋の片方に寄せられていた。そして壁の隅には、緑鮮やかなドラセナが、風にでも吹かれているようなたおやかさで大きな葉を鉢植えから伸ばしていた。


私は先生がなんと言って話を始めるのかわからなくて緊張していたけど、先生はまず、こう言った。


「お願いしてくれてよかったわ」


「えっ…よかったって、どういうことですか?」


先生は私の前で、記録をつけるノートに私の名前を記入しながら、話を続けた。


「いや、SOSが出てないなって思ってたの。二度だけど、話したことがあったでしょう?でもそれであなたからは何も求められなかった。だからね、少し心配だったのよ」


先生はそう言いながら今日の日付をノートに書き込んで、何気なく長い髪を耳に掛けた。


スクールカウンセラーの先生とは何回かしか会ったことはないけど、八木路子さんという名前で、三十歳くらいに見える、愛嬌のある微笑みが特徴の人だ。いくつかの学校を兼任しているらしく、私の学校には水曜と木曜だけ居るらしい。私が不登校になりかけて保健室登校を始めた時、クラス担任の先生の勧めで、二度だけお話をした。でも、たかやす君の話はできなかった。


路子先生はあらかじめ書きつけておくことが済んだのか、顔を上げて私を見て、「じゃあ、何から話しましょうか」と言った。


私はテーブルの上に乗せられた先生のノートを見ていた。まだ何も書かれていない。


“ここに、たかやす君のことを書くのかな。文字にしたら、二、三行で終わりそう…”


私はそう思って、言えるか言えないか、言うべきか言わないべきか、まだ考えていた。


もちろん、重荷は降ろしたい。


“でも、そうすることで私がいつかたかやす君のことを忘れてしまう手助けになってしまったら?仲が良かったわけでもない同じ学校の生徒が死んだだけでこうなった変な子だと思われたら?”


私はそんな不安な想像しかできなかった。だから、まずはその不安が消えてからにしようと、慎重に話し始める。


「悩みがあるんです。でも家族は具合が悪くて、それを相談できなくて…」


「大変な悩み?」


「はい…話しても、誰にもわかってもらえないんです。多分…」


路子先生は「そうなのね」と言って、私と同じようにテーブルに目を落とす。


「どうしてわかってもらえないのかしら?」


「どうしてって…」


“大したことがない悩みに苦しむのはおかしいから”、と私は言えなかった。


「それは…どういった類のもの?悲しいとか、苦しいとか、それか現実に迫るおそろしいこととか…どれだと思う?」


私はそこで、初めてこの悩みについて、具体的に考えたと思う。


“悲しくてたまらない。そう私は言いたいけど、それがわかってもらえるかわからないから、言うのが怖いんだ…”


それらの言葉から、私は一つだけ選んだ。


「悲しくてたまらない…そういうものです」


「そう…」


私達の会話は一旦途切れ、私は息苦しさから、こちらから見える壁の隅にある緑の葉をぼーっと見ていた。すると、しばらくして先生はこう言った。


「ねえ、跡見さん。ここではね、何を言ってもいいの。それに、ここは今あなたのための空間だから、先生は何も付け加えたりしない」


私はその言葉に思わず顔を上げて、先生を見つめていた。その時、先生は私を見ていて、まるであの夜、ボロボロの部屋で私の前に座っていた、津田さんのような目をしていた。


“この人も、悲しかったって、わかってくれるのかな。でも、こういうことに慣れてる立場の人だし、もしかしたら受け流されてしまうかも…”


私はそう思って、まだ不安だった。それに、本気で相談するのは今日が初めてだったから、まだ怖い。


なんとなく先生の目を見続けているのが怖くなって、私はうつむいてしまった。それからどんどん時間は流れていったけど、先生は何も言わない。それで私は沈黙が苦しくなって、その間もたかやす君のことを考え続けているから、どんどん辛くなっていった。


“なぜ、彼が自分だけで考えて、誰にも何も言わずにいってしまったのか。それが悔しくて、悲しくて…。それはやっぱり、私がたかやす君のことを、近しい人だと思っていたからで…。でも私は、そう信じてもらうほどの材料がないんだもの…それなら、先生だって私をどうすればいいかなんて、わからないはず…”


私はそこで、初めてわかった。ちらりと光が閃くかのように、心の中に、暗い重苦しい何かが生じるのがわかった。


“そうだ、私はこの悲しみをどうやって拭えばいいのか、どうしたら拭われたことになるのか、まったく知らないのよ。それでどうやって、人に話して救われようっていうんだろう…”


するとそこで先生はノートを閉じて、自分が座っている椅子の背もたれに背を預けた。


「ねえ、跡見さん。悩み事を話せないでいると、辛くならない?」


私は、先生が急に当たり前のことを言い出したから、少し驚いた。どうしたんだろうと思ったし。


私は先生の顔を見ていたけど、先生は伏し目がちに、まだテーブルの端あたりを見ていた。それから、どこかさみしそうにこうつぶやいた。


「悩み事を一人で抱える。それは辛いこと。そうするとだんだん、辛さがふくらんでいって、それを吐き出すのはもっと勇気がいることになる…。だからね、先生は跡見さんがすごく追い詰められてるんじゃないかと思うの…」


私はその言葉を聞きながらドラセナを見ていたけど、もう一度先生の顔を見たときには、もう心を決めていた。







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