12話「瀬戸際のわたし」
津田さんはうつむきがちに、辛そうな顔をして話し始めた。津田さんの目はずっと、りんごジュースに向けられていた。
「はい。私自身は、幼い頃両親が亡くなって、預けられた親戚の家でずっと虐待を受け、就職を機に抜け出してから、病気を発症しました」
私はそれを聞いて、心臓が止まるんじゃないかと思った。
「当然勤め先もやめて、病院に入院をし…。ですが、少しずつ良くはなりました…。まだまだ、それから十年しか経っていませんから、全快ではありませんが、口を利くことも物を食べることもできなかった状態からは、抜け出せました…。働くことはできないので、生活保護を受けながら、今は薬の調整をしています…」
「そんな…辛い過去が…。しかも、今もですか…?」
私は、信じるしかないけど、信じられないような辛い話だと思った。そんなに何年も続く苦しみの中で生きてきたなんて。そんな人が、やっぱり居るんだ…。
寂しそうな、津田さんの微笑み。その髪はボロボロで、服だって同じだ。部屋の中も。私は、“辛い目に遭ったのに、なんでこの人がこうしてなくちゃいけないの”と、怒りで涙が滲みかけた。
「だんだん、良くなってきました。私のような者でも、良くなるんです」
津田さんはそう言って、また笑うけど、その背後には嵐があることを、私はもう知ってしまっている。
私はその時、津田さんの壮絶な過去と自分の現在を比べれば、私なんて大したことがないんじゃないかと考えていた。そこへ、それを読んでいたように、津田さんが付け加える。
「もちろん、あなたの今と私の過去は、比べるものではありません。だってそれはそれぞれ、私たち「自分」にしかわからないでしょう?だから、今「とても辛い」と感じている自分のために、休みましょう?」
私は、津田さんのその優しさに、一瞬で泣いてしまった。
それから津田さんも涙を流して、「あなたがこうして話を聞いてくれたから、私、もう少し生きられるかもしれません」と、泣き顔のまま微笑んだ。
「そろそろ、帰りますか…?」
「はい…」
津田さんは、私を家の近くまで送り届けてくれた。
「ご自宅を私が知るのはまずいですからここまでですが、本当に危ないので、気をつけてくださいね。では、おやすみなさい。今晩は遅くまで、本当にすみませんでした…」
最後まで申し訳なさそうに前かがみの猫背になって、津田さんは私に謝っていた。
「ありがとうございました。おやすみなさい」
私が帰宅してドアを開けた時、“お母さんがまた走ってきやしないか”と、少し心配だった。でも意外なことに、お母さんは眠っていた。だから私も、家出の荷物をどこか気恥ずかしく感じながらもほどいてから、放ってあったパジャマに着替えて布団に入った。すると、眠っていたお母さんがすぐに目覚める。そして、私を見ながら目をこすった。
「凛…こんな時間にどこに行ってたの?電話したのに…」
お母さんは起きたけど、まだどこか夢の中に居るように、瞼を持ち上げられないままで枕に肘をついている。
“本当のことを言ったら、今度こそ怒られるかも…”
「散歩…眠れないから…。ごめん、着信とか、気づかなかった…バイブにしてて…」
私がそう言うと、お母さんはすぐに納得したようにゆらゆらと眠そうに頷いた。
「そう。でも、危ないから夜中に散歩するのはやめなさいね」
そう言った切りで、お母さんはすぐに眠ってしまったのだ。
“もう、お母さんは私の心配もしないんだ…私なんか、どうでもいいのかな…”
私はそう思わずには居られなかったけど、“そんなはずない…きっと、最近体調が良くないだけ…”と、自分に言い聞かせた。事実、お母さんは「朝の四時には目覚めてしまって眠れない」と、近頃言っていた。
それから数日間、私は学校に行かなかった。でもその間で、お母さんの様子を確かめることができた。とは言っても、子供の私の前だからなのか、泣き言を言ったり、愚痴をこぼしたりはしなかったけど。
お母さんは家事をあまりしなくなって、布団に寝転んでいることが増えて、食事はいつも安い弁当を近所の弁当屋で買ってくるだけになってしまった。
「お母さん…体調、悪いの…?」
ある日の昼に、私はダイニングから寝室を覗き込んで、寝そべっているお母さんにそう聞いた。お母さんは後ろ向きに横になっていたところから顔だけ振り向かせる。
「そんなことないのよ、少し、あんなことがあったから…疲れが出たのかしらね…」
“あんなこと”というのは、お父さんとの喧嘩別れだろう。もしかしたら、長年連れ添ってきたお父さんと別れてしまわなければいけないというのは、お母さんにとってとても辛かったのかもしれない。
“私が考えてたみたいに、解放感があるものじゃないのかももしかしたら、お父さんを心配してるのかもしれないし…”
だから私は、“私より、もしかしたらお母さんの方が辛いのかも”と思い、「お弁当、今日は私が買ってくるから、少し休んで」と、初めてお母さんに言えた。
「ありがとう…じゃあ、お願いしようかしら…」
お母さんはまるで病床に居るようで、今にも死ぬんじゃないかと思うくらい、儚い笑顔だった。
私はその日から、少し元気が出るようになった。勇気が出たからかもしれない。
“お母さんの代わりに私が頑張らなきゃ”
そう思えば、学校にも頑張って行けたし、保健室でみずほさんと喋っているときだって、たかやす君のことを思い出して悲しくなることもなかった。
私はある日、現国のテキストを解きながら、みずほさんと勉強の辛さを語り合っていた。私達は、保健室登校をしている生徒のために用意されている、向かい合わされた二つの机に座っていた。
目の前には、つまらなそうに淡々と世界史のプリントを解いていくみずほさんが居た。彼女は窓に背を向けて頬杖をつき、細くて長い髪を机に向かって垂らしている。
午後の明るい日光が彼女を後ろから照らすので、彼女の輪郭は輝いていた。顔の表情は物憂げに陰り、長いまつ毛が下に向かって流れているのを見ていると、美しいと思った。女の私だって、見ているだけで気分が良くなるくらい。
「ああ、もう。勉強ってなんでこんなに面倒なんだろう。でも、クラスに行かなくても、勉強だけはしないと先生たちが納得してくれないですよね」
私はそう言ってちょっと笑いを付け足した。みずほさんは三年生だけど、私と仲良くしてくれるから、私はいつも中途半端な敬語で喋っている
。
するとその時、みずほさんはこちらを見ないで急にこう言った。
「あなた、それをやめないと、ダメになるわよ」
「え?なんですか?」
「てんで空元気じゃない。ずいぶん上手く繕ったようだけど、中身が透けてるわ」
私はその時、「そんなことないですよ」ともなんとも、言えなかった。背中に水を浴びせられたように、血の気が引くのを感じていた。
End.
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