2話「私の家と、ライブのチケット」
目の前にあるのは、スマートフォンの画面。私は学校から帰って来て、着替えと食事が済んでからすぐに、自分の部屋に鍵を掛けた。
リビングから聴こえてくる音を遮るために、イヤホンで大好きなアイドルグループ、「Sister"P"」の新しいアルバムを聴いている。それなのに、その隙間から、「あんたみたいな飲んだくれなんか」や、「お前なんかになんにも」という、両親が罵り合う声が入り込んで来る。
私は構わず音量を最大にして、耳がジリジリ痛んでも、その声を聴くまいとしていた。両目から涙が溢れる。体中が燃えるように熱くて、手が震えて、涙が止まらない。
“昔はこうじゃなかった。どうしてこんなことになっちゃったんだろう。子供の私にはなんにもできないのかな…。”そんな思いで胸が痛んで苦しくて、静けさが戻って来るまでは泣き続けていた。
しばらくすると、隣にある両親の寝室から、お父さんのいびきが聴こえてきた。少し離れたキッチンからは、お母さんがすすり泣く声がする。私はよっぽどお母さんのところへ行って慰めたかったけど、前にそうした時、お母さんは混乱していて泣き喚くばかりだったから、怖くてそれはできなかった。
部屋のドアを開けて、キッチンからは見えない洗面所に行き、顔を洗ってから鏡を見た。
そこには、険しい顔つきでこちらを睨みつけ、唇を突き出した私の顔が映っている。
怒り。悲しみ。切なさ。それが私の眉を、唇を、頬を歪めていた。
その時の私にはそんな感情の色が見えるだけで、自分の心が何を感じているのかなんて分かっていなかったけど、私はその自分の顔を、「嫌い。醜い」と思った。
“どうしてこんな顔なんだろう。笑わなくちゃいけないのに。”なぜかそう思って、それができない自分を責めようとした。でも、そんな気力はなかったから、その後トイレに行って、そのまま眠った。
ある日を境に、家での食事があまり統一感がなくなっていった。それに気づいたのは、「今日はハンバーグよ」と、部屋から呼び出された時だった。
私が台所に行くとテーブルにはハンバーグの乗った皿が二つあって、大きなサラダボウルと、ごはんが盛られたお茶碗も二つ、それからうさぎの箸置きに乗った箸が向い合せに並べられていた。お父さんは仕事でいつも遅くなるので、夕食は私達よりずっと遅い。
「わあ」
私が胸をワクワクさせてため息をつき、“早く食べたいから、お母さんを呼ぼう。”と思って振り返ると、お母さんは燃えないゴミの箱に、何かを捨てるところだった。よく見えなかったけど、それはレトルトハンバーグの袋のようだった。その時、“おかしいな?”とは思った。
うちのお母さんは料理に凝る人で、ハンバーグだってしっかり玉ねぎを炒めないと気が済まない。それが今日に限ってレトルトのハンバーグだなんて、変だった。でも、“今日は疲れてるのかな?”とも思ったし、私は気づかなかった振りをして食卓に就いた。
それからも、“昨日はきちんと作っていたのに、今日は全部レトルト”という日もあったし、“ほとんどが近くのスーパーのお総菜コーナーで見たもの”なんて時もあった。
おかしなことはまだある。お母さんはきちんと整理整頓をするのに、台所が洗い残しの皿や、ほったらかしのティーポットなどで雑然としている日が増え、廊下も、埃が目立つ時が多くなっていった。私はそれで、“家の中の混乱が、お母さんの心と体を蝕んでいるのだ。”と知った。
お父さんは、酒飲みだ。昔はそんなことはなかったのに、今じゃ家に帰ってきたらまずビールの缶を開けて、テレビを観ながら番組に向かって愚痴をこぼしたりしている。
本当に昔は、私とよく遊んで、話をしてくれて、優しくて面白いお父さんだった。でも、お父さんはある日会社から帰って来ると、いきなりお母さんに泣きついて、「もうダメだ、もうダメだ」と繰り返した。幼かった私は、なぜお父さんが泣いているのか分からなかった。
ずっと後になって、私が中学生になった頃、お父さんはよく酒を飲むようになって、ある晩、お母さんが話してくれた。
「お父さんね…泣きながら帰って来たことがあったでしょう」
「え、うん…すごい前、だよね…?」
リビングにはその時私とお母さんしか居なくて、寝る前にベッドに入ろうとしていたところを起こされたのだ。
「そう…もうずいぶん前だけど、お父さん、会社が変わったでしょ…」
「あ、そうだね、なんか、新しい会社で部長さんになるからって聞いた」
私はその時、誇らしい気持ちでそう言ったのに、お母さんは首を振っていた。そして、言いにくそうにしていたけど、「これを聞いたって、お父さんには絶対言っちゃダメよ」と言った後で、こう言った。
「…左遷なの。部長さんになったのは、前の会社よりずっと小さい会社で…これからはお給料も上げてもらえない。だから、ああしてお酒を飲むの…」
そう言ってお母さんは泣き出してしまった。私がショックを受けて、目の前で泣いているお母さんを慰められないでいるうち、お母さんはずっとこう言い続けていた。「お父さんが悪いんじゃない」と…。
“お酒なんかこの世から消えちゃえばいいのに”。私は何度となくそう祈っては、やっぱりお母さんにひどいことを言うお父さんを責めたり、そんなことをする自分を咎めたりした。
話は今に戻って、私は学校終わりにスマートフォンに届いた通知で、とんでもないことを知った。
“Sister"P"の公演が決定!全国47都道府県ツアー!”
「きゃっ!?」
私はスマートフォンの画面に映ったその通知の文字を見て叫び声を上げ、それからすぐに家に走って帰った。
帰宅した私は、制服を脱ぐのも忘れて自室に引きこもり、チケットサイトを何軒もめぐって、自分の県で開催される二日間の間の“シスピ”のチケットが残っていないか、死に物狂いで探し回った。そしてやっと、抽選でチケットが手に入れられそうなサイトで、申し込みをした。
それから一週間が経ち、申し込んだチケットの抽選日がやってきた。その日の私は落ち着きがなくて、昼も珍しく学校の屋上に行かずに、クラスで自分の席に座って、ずっとスマートフォンをいじっていた。いつ“シスピ”のチケットの結果が来てもいいように。
“ああ~当たっててください!神様仏様お願いします!こんなに毎日辛いんだから、そのくらいいいでしょ~!!”
私はそんな理屈の通らないお願いを、行き当たりばったりに手当たり次第祈って待っていた。
結果がメールで送られてきたのは、学校から帰宅して十分くらいしてからだった。スマートフォンが短く三回震えて、メールが届いたことを知らせる。私はベッドからがばと起き上がった。そして掴み取ったスマートフォンの電源を入れ、怯えながら、期待しながら、メールボックスのアイコンをタップした。一番上には、新着メールのタイトルが「マイライブからチケットの抽選結果のお知らせです」と書いてある。
“どうしよ~、外れてたらそれこそ生きてけないよ…!”
そう思って、“お願いします!”と祈りながら、メール画面をタップして、おそるおそるスクロールした。そこにあったのは。
「残念ながら、チケットのご用意が出来ませんでした。」
それ以外の文字なんか全部目に入らなくなって、私はそのまま体から力が抜けて、ベッドに仰向けにどさっと横になった。なにこれ。
“なんでよ。…ちょっとくらいご褒美くれたっていいじゃん。神様のケチ”
「凛、ごはんよー」
「今行くー」
その翌日、私は学校なんか行きたくなかった。お母さんが「早く行きなさい」と送り出すから登校はしたけど、授業になんか出たくなかった。だから、いつものあの場所へ。長い階段の最後にある扉を引っ張り上げて、天空の庭に登った。
「あれ…?」
そこには、この間と同じ男子生徒が立っていた。今度はこちらを向いて、彼は扉の真正面のフェンスにもたれていた。まるで誰かを待っていたように。
「よく会うね」
彼の声を聴くのは二回目だけど、私はその時、初めてその違和感に気づいた。なんだか、彼の声は雲の向こうから聴こえるような、世間から離れたような調子だった。“どこから声が出てるんだろう”と思うような、少しふわふわした声。
「そうですね」
そう言って私は彼に近づいてはいったけど、やっぱりこう聞いた。
「授業はもう始まってますけど?」
私がそう言うと、彼は下を向いて「ふふふ」と笑ってから、「君も、行かなくていいの?教室」と返してきた。
「ここにいたい気分なの」
「そうか、じゃあそうするといいよ」
なんにも事情なんか知らないのに、彼は私を責めなかった。でもその口調もやっぱり、どこかふわっとして、あまり感情の感じられない音色だった。
それから私は、少し間を空けて彼の隣に座る。膝をたたんで制服のスカートに顎を乗せていると、不意に彼がこんなことを言った。
「今度、ライブに行くんだ。でも、チケットが一枚あまっちゃった。だから、一緒に行かない?」
私が左を見ると、私と同じく行儀よく体育座りをした彼もこちらを見ていた。でも、デートに誘っているようなふうには見えない。私達はそんな間柄じゃないし。“どういうことだろう”と思って、私は聞き返した。
「なんのライブ…?」
ちょっと彼の顔色を窺って遠慮がちになった私の声が、その時、屋上を撫でていく風にかき消されそうになった。でも、彼は相変わらずぶかぶかしているブレザーのポケットから、チケットらしきものを二枚取り出して、私に見せた。
そこには、「4月23日(水) Sister"P" キングシティーホール F列4番」とあった。私はそれを見て、思わずチケットを手でぐいと引き寄せてしまった。もう一枚のチケットはG列4番だった。ちょうど隣だ。
「うっそマジ!?え、これ…シスピの…行きたかったやつ!」
彼はおもしろそうに笑っていて、チケットをポケットにしまい直してから、笑い過ぎて目に滲んだ涙を片手で拭った。私はとにかく驚いてしまって、「えー!」とか、「どうしよう!」などと叫んでいた。
やっと私が落ち着いてきた頃、彼は「よかった、好きなんだね」と落ち着いて言った。
「うん!好き!大ファンだもん!あ、ファンクラブは会費が高くて入れてないけど、ファン!一応!」
「ファン心理って複雑だよね」
彼はそう言ってまた笑った。
「じゃあ、再来週の水曜日、校門で待ち合わせよう。学校のすぐあとで行かないと。ちょっと電車に乗るし」
「うん!ありがとうございます!」
私はそう言ってあらかじめ頭を下げて、彼を見つめた。すると彼はまだおもしろそうに笑っていた。くすぐったそうなその笑いの後で、彼はこう言う。
「ところで、君の名前は?」
“あっ!”と私はそれに気づいて、慌ててまた頭を下げる。
「ごめんなさい!名乗る前に、チケットもらおうとなんて…」
「いいよ。で?なんていうの?」
“チケットをいきなりポンとくれる”なんていう、私にとっては大恩人を前にして名前を聞かれたものだから、私は肩を縮めてうつむいて、上手く喋れなくなってしまった。
「えっと…跡見、凛、です…」
「“凛とした”、の、凛?」
漢字を確認するためとはいえ、不意に呼び捨てにされて私はちょっとドキッとしてしまって、「あ、はい…」と、おどおどとした返事しかできなかった。
「そっか。僕は内田たかやす。漢字は説明しづらいからいいよ」
「は、はい!よろしくお願いします!」
私が思わずしゃっちょこばって答えると、彼は片手を振って、「堅苦しいのはいいよ」と笑った。“よく笑う人だなあ”と思っていたけど、私はそこで、大事なことを忘れていたのに気付いて、「あっ!」と叫んだ。
それで思わずたかやす君のブレザーに飛びつきかけたけど、直前でその近すぎる距離に気づいてちょっと思い止まり、なんとかこう言った。
「チケット代!ちゃんと払うから!」
「いいって。だいじょーぶ。これも実は貰い物なんだ」
「え、そうなの…?でも…」
「いいよ、貰い物なのにお金取ったら変でしょ」
「そ、そうだね…」
私達は「えへへ」と笑い合って、この間知り合ったばかりなのにライブに行く約束をした。でも、私には気になることがあったので、そこでちょっと考え込んでうつむく。
“ライブから…九時までになんて帰ってこれないよね…”
“でも、行きたいな…”
私は考え込んで、屋上を冷たい風でどんどん体温をさらっていくのを感じていた。すると、たかやす君がひょいと私の顔を覗き込んでくる。
「わっ!?」
私は顔の真ん前にあるたかやす君の顔に驚いて、叫び声を上げてしまう。それからすぐに、「ごめん」と言って、ちょっとだけ元のように彼と距離を取った。
「えへへ、ごめんごめん。あのさ、もしかして…おうち、門限があるの?」
私は、“どうしてわかるんだろう”と思って不思議だった。だからいくらか詰まり気味に、「うん」と言う。
「うーん、でも、どうしても行きたいんでしょ?そんな感じだよね?」
「う、うん…」
私は不安だった。いつもくたびれているお母さんを、これ以上心配させていいんだろうか。でも、急に家庭の話なんか出来なかったから、たかやす君がまたふわふわとした声で言った、「いつもきちんと守ってるなら、許してくれるって」という言葉に、もう一度頷くしかなかった。
Continue.
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