青い絆創膏

桐生甘太郎

1話 「透明な屋上」





「ねえ…もう帰ろうよ…多分大丈夫だって」


「でも…」


「だって、暗くなってきたし、怖いよ…」


その声は、子供のものだった。そこは草深い林を流れる川のほとりだ。どこかの山の中だろうか。子供二人はランドセルをそれぞれ背負っていて、どちらもほんの小学低学年ほどの男子らしい。一人の子供は半ズボンから元気そうな膝小僧を出し、もう一人はわりあい厚着の子であった。Tシャツの上にさらにニットカーディガンをはおった子供が、半ズボンの子に、「帰ろうよ」と繰り返している。


半ズボンの子はどうしても帰ることに戸惑い、その場に留まろうとしていた。それには何か深いわけでもあるように、子供は二人共、不安そうな顔をしていた。


「しかたないよ。怒られちゃうし、早く帰ろう…?」


暗闇が迫り、薄紫のベールがかかったように、林の中は光が乏しくなっていく。それに耐えかねてほとんど泣き声のような声を出し、カーディガンの子供は半ズボンの子の手を引いた。引かれた方は曖昧に嫌がる素振りはしてみせたが、友達を気遣うのか、手を引かれるままに林のゆるやかな斜面を降りて、やがて子供達は見えなくなった。


そこには当たり前の暗い林だけが残り、どこか不気味さの漂う中、日が暮れて山から吹き下ろす風が、草や木をざわめかせるだけだった。










「凛、ごはん食べたの?もう八時よ?」


私はその朝、ちょっと考え事をしながら、ちんたらとごはんを食べていた。いくらかは眠れたはずなのに頭は重かった。その中で、漠然とした何かを脳みそが勝手に追いかけ、消化しようとしているように、頭の中には意味のない言葉が散らばる。


“大人ってなんだろうか。下らない理由のために日々をただ消費してるだけでも、年齢が上なら大人なんだろうか。私はそんな下らない人間にはなりたくない。”


そんなふうにどこかすねていて、私の考えは疑いの中で停滞していた。そこへお母さんが横槍を入れた。


「今食べてる」


そう返すと、「そう、じゃあ早く終わらせて学校に行きなさい」と、母は振り向かずに、父の分の皿を洗っていた。


私は食事を終えてシンクに食器を下げ、それでも洗い物から顔を上げない母親をちょっと見ただけで、「行ってきます」と言って学校に向かった。




家から歩いて五分の場所に、私の通う県立高校はある。特に受験では困らないし、それなりで入れてしまうところだからか、周りの生徒は遊ぶのに夢中だった。


中学では、相手に合わせて意味のないことを喋ったり、馬鹿馬鹿しいことではしゃぐふりをするのが苦痛だった。でも高校に入ってから、それに加えて、犯罪まがいのことに手を出す生徒も影で見るようになった。高校生の方が質が悪い。私はそんなことはしないし、高校に上がってからは、生徒と喋ることもあまりしていなかった。


私はいつも学校では、本を読んでいるふりをしていた。その実、適当にページをめくるだけで、頭の中では空想をしているんだけど。


歩道の横に、大きな校舎を抱えた広いグラウンドが、柵越しに見える。桜の木が柵に沿って植えられているけど、今は立ち枯れたように幹と枝だけになって、かえって幹が堂々と太いのがよくわかった。私は何人もの生徒に追い越されて、するりといつものように校門をくぐった。


下駄箱のところで、不意に「おはよう、凛ちゃん!」と声を掛けられて、振り返ると、クラスメイトで後ろの席に座っている、木野美子が立っていた。


「おはよう、美子ちゃん」


仕方なく返事はしたし、笑いもしたけど、私はやるせないほどに虚しさを感じていた。この「朝の挨拶」というのを、クラスメイトといちいち交わすことが、私には理解できない。だって、それはたいがい、全員と交わすものではない。


あるクラスメイトとは挨拶しないけど、この子とこの子とこの子とはする、なんて、変じゃない?


「今日も寒いねー」


「そうだね。今日、体育の実技だけど、体操着持ってきた?」


「あ、忘れた!…もー、借りに行くと佐原にいつもちくちく言われんの、うざいよねー」


「まあね」


ああ、なんでこんなこと言わなくちゃいけないんだろう。それでも自分から話題を広げてでも、なぜか喋ろうとしてしまう。


いよいよひねくれていきそうな頭を少し掻いて、私は木野美子と一緒に、一年一組の教室に吸い込まれていった。





「では次の問題はー…跡見、前に出てきて訳しなさい」


昼前の英語の授業で、私は出席番号順に回ってきた問題を解いた。長い英文を和訳しなくてはいけないけど、先生がすでに単語はすべて黒板に書いてくれているので、その順番を間違えずに入れ替えればいい。


黒板の前で私はいくらか上を向き、白いチョークの硬い感触を心地よく感じながら、それをカツカツと削った。


「…うん、正解だ。席に戻りなさい。ここでみんなに理解してもらいたいのは…」


私は、先生の説明を大して真剣に聞いていなかった。だってちゃんと教科書に書いてあるし。でも一応聞くだけは聞いておけば、テストでは90点近くまでとれる。


よく、誰かが軽率に「こんなこと勉強してなんになるんですかー」と、いかにも退屈そうに教師に聞いたりする。もちろんそれは、実際に解いた問題が役に立つことはほとんどないという意味で、不平不満を言うんだろう。でも、もしそういう問いの答えが今すぐわかって、「まったくの徒労」だとしよう。だとしたら日本中、世界中にこんなに学校が溢れているわけがない。その答えは、ずっと後になって、後悔をするか、感謝をするかの形で、身を持って理解するんだろうと、私は思っていた。そして私は、多分後悔をする方の部類だと思う。真面目に勉強はしていないし。





昼になり、教室で昼食を食べる生徒たちを残して、私は一階廊下を右へと折れた。私が居る一年の教室は、一階にあるのだ。


廊下の突き当りを左に折れて更に進むと、玄関の近くにジュースの自動販売機がある。そこで小銭をいくらか入れて、紙パックのフルーツ・オレを買うボタンを押した。ガッコンと取り出し口にクリーム色の紙パックが落ちてくる。それを取り出すと、私はすぐにストローを刺した。


それから廊下をずっと戻ったけど、一年一組の教室の前を通り過ぎて、逆方向の突き当りにある階段へと、私は進んでいった。


一足一足、いつもどこか疲れている足を引きずって、甘みの強いフルーツ・オレを飲みながら、階段を登る。見えてきたのは、行き止まりになった四階に通せんぼをするような、古い鉄の扉。


「よっ、こい、しょっ…」


私はその重い扉を少々持ち上げながら、体ごと押して開けた。みるみる扉の隙間から眩しい日差しが現れ、私は誰も居ない屋上に解き放たれる。



上を見れば、空だけが見えた。青いカーテンを神様が作ったような、だだっ広い空は、目に収まり切ることなんかない。それを眺めるために屋上に横になってジュースを飲むのが、私の日課だった。


屋上に出れば、面倒ごとなんか追ってこない。それに、誰も私にとやかく言わない。そんな気がするのだ。



ただ、その日は違った。



私が扉を開けた先には、知らない男子生徒が立っていた。錆びかけた屋上のフェンス前に、髪が茶色で体の細い、背の高い男子が居て、制服はいくらかだぶついて見えた。その生徒の向こう側には、私達が住む街がぼんやりと見える。


おかしいな、と私は思った。この屋上の鍵がいつも開いていることは、生徒のほとんどが知らない。錆びてボロボロのドアノブを見て、ほとんどの生徒は、「開かないのか」と思い込んで引き返していく。実際に挑戦しても、強く持ち上げながらでないと扉は開かないので、そのうちに「開かずの屋上」なんて囁かれるようになった。


“私だけが開けられる扉だと思っていたのに”と、私は少し残念な気持ちになったけど、別に悪いことをしているわけじゃないし、そのまま足を踏み出した。すると、その足音にびっくりしたように、男子生徒がすぐさま振り返った。


私達の目が合った時、その生徒は驚いて、何かをひどく怖がっているように見えた。まるで悪いことをしようとしていたように。私は煙草でも吸ってたのかな?と見てみたけど、その子の手にも、足元にも、煙草なんかなかったし、別段何もなさそうに見えた。


私達はしばらく睨み合っていたけど、いつまでそうしているのも不自然だし、私がなんとなくその生徒に近寄る。


「あの…ここ、よく開いてるって知ってましたね」


敬語で話しかけるのも変かもしれないけど、まあ初対面なんだしと、そう声を掛けた。男子生徒は見つけられたのを恥ずかしがっているのか、気まずそうに後ろ頭をボリボリと掻いていた。


「君、よく来るの?」


私が言った質問に近い言葉には答えずに、男子生徒がそう言う。


私は「屋上」という時間を感じさせない場所だからか、返事をあまり急がずに、ちょっと男子生徒の顔を見つめた。


彼までは、まだ十歩ほどあったけど、特に顔立ちが整っていて、素直そうな微笑みが好感の持てる男子だった。



細くて濃い眉は垂れていて、大きな目も心持ち垂れ下がり気味だった。その目を縁取る睫毛は、束になって長く伸びている。それから、鼻は細く高いけど、唇は極端に薄くて主張がなかった。


長いわけではないが細い顔の中にそれらが収まっていて、顎も細くて、あまり骨の厚みを感じない。


いい人そうではあるけど、じっと見ているとどこか不安な気持ちになるような、儚い顔立ちだった。



彼の顔を確かめ終わって返事をしようとしたけど、私の心はなぜか、「毎日来ています」と素直には答えたがらなかった。質問に答えを与えるより、謎を残しておきたくなった。


それはおそらく、この「屋上」という場所が、どの人からも肩書きを奪い、誰にも指図をしない場所、誰からも正体を取り去るような場所だからだろう。だからこう返した。


「あなたは?」


そう言うと彼はすぐに吹き出して首を振り、さらに顔の前で片手を振り回した。


「ぜんぜん。今日が初めて」


「そう。私、座っていい?寝転んでも?」


私がそう聞くと彼は、「いいよ、別に、許可はいらないじゃない」と言って笑ってくれた。私は彼から三歩ほど離れた場所に寝転ぶ。



ああ、空しかないな。でもそこに、制服がちょっと映り込む。


空だけが見えることを期待していたはずだけど、私はそこにだぶっとした制服姿が混じるのを、嫌だとは思わなかった。



それから私はたまに横を向いてジュースを飲んでいたけど、ちょっとの間を置いただけでその制服姿は、「教室に戻るから」とだけ言い残し、目の端へと消えていってしまった。



「邪魔しちゃったかな…」


そんな独り言を言った。



そのうちに予鈴が鳴ったので立ち上がり、生徒たちの声が響く階段を降りている間に、彼のことは忘れていた。





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