3-2 コーヒーとチョコレートドーナツ
二人はカフェに入った。レオが座って待っていると、先生がトイレから戻ってきた。肌が白くなっている。ポケットに化粧落としのコットンをしまっている。実践授業で、頬に塗った迷彩カラーを落とすのに使っていたことを思い出した。
ふぅ、と腰を下ろす彼に、レオは身を乗り出した。
「全然気づかなかったっス」
「そりゃそうだ」
彼が笑うと、ジャンパーがゆさゆさと音を立てる。
「そんな恰好するって思わないじゃないっスか」
「たりめーだ。変装ってそういうもんだ」
「クオリティ高っ。もしや先生って、何かのエージェントだったりして?」
「さて、どうだろうな」
「怪し~」
「まぁまぁ、何か食え」
彼は丸テーブルの真ん中にある小さなメニュー立てを取り、レオへ渡す。
「いいんスか?」
「教え子との再会だぞ? おごってやらなきゃ体面がアレじゃないか」
「じゃ遠慮なく」
小気味いい笑顔で、レオは好物を二、三個ポンポンと頼んだ。カフェと言えど、ほとんどファミレスのような豊富な品ぞろえがあった。すると先生の笑顔がどこか崩れ、「お前なぁ……」とバッグの中で財布を弄りだす。レオは気が楽になった。
学生時代は、今のように笑顔のままスパルタする彼が怖かった。生徒の半分くらいは彼の餌食になった記憶がある。笑顔のまま、穏やかな声色で殴ったり蹴りを入れたりするものだから、みな一様に縮みあがった。大人になると、少しは対等になった気がするのだ。少なくとも学校外では殴りはしないだろうから。
彼はコーヒーだけを頼んだ。
「先生って、いま何されてるんスか?」
ジャケットを背もたれに掛け、彼は答える。
「ん? 今は学校辞めて、塾の講師してる。非常勤だけど」
「辞めたんスか? 意外っスね」
「そうでもないだろ?」
その時、コーヒーが運ばれてくる。シュガーやミルクも付属したが、先生はそのままカップを傾ける。ズズッとすする音と、漂ってくる苦味の湯気、レオは唇を引き締めた。
――――あ、そうか。
変装のことが衝撃的過ぎて忘れていたが、彼はダンの援交の噂の的になった教師張本人だ。スパルタだった彼は、ダンとはよく会話していた。それは単に、ダンが優秀だったからだろうと思っていたが、やましいことをしていたのか、と。
「あ、じゃぁ……そのことでクビに?」
「いや、違う。海外に留学してた」
「めっちゃすごい!」
匂わせて、結局全然違うことを言ってくる。掴めない。
「……ていうか、ダンと、兄弟なんスか」
「言ってなかったけどな」ホッと口を離す先生。
「本当に?」
レオは彼の頭に視線を向ける。視線に気づいた先生は、そのストレートヘアをつまんでみせる。
「ダンは確かに天パだったが、俺はうなじしかくるくるしなかったんだ」
そう言って、きれいに整えたうなじをざりざり撫でる。レオは「まじっスか」と仰け反った。
「俺たち結構仲いいからイチャイチャしてたんだが、誰かに見られたらしくて、ダンの、ちょっとアレな噂が立ち始めてな」
「そうスね……」
実のところ、この二人は兄弟だった。それなら、休日に一緒だったりお金のやり取りだったりがあっても不思議ではないだろう。しかし、兄弟関係ということが知られていようといなかろうと、飛び出た釘だったダンには、良くない噂が立つのが必然的だったのかもしれない。
「だから途中から変装し始めたってわけだが、これはこれで、いま思うと、よくなかったみたいだな」
パリピみたいなやつと絡んでいたという噂。事実だが、中身は一緒で、ただの兄弟だった。まったく見た目が違う相手に乗り換えたように見えたダンは、すっかり蔑まれる対象になってしまった。
――――カチャン
「特に、お前に誤解を与えてしまった」とカップを置く先生。
「え」
レオはぼんやりとし始めていた焦点を、先生へ合わせた。
「仲良く、してくれていたんだろう、ダンと。申し訳ない」
仲良く、の部分に含みを持たせて先生は言う。レオは頬が熱くなった。
「お、俺はダンと、別にそんなんでは」
しどろもどろに言い訳すると、先生は意外そうに首を傾げた。
「ダンはお前が好きだったみたいだから、てっきりそうかと思ってた」
「すっ……」
レオの胸の奥がしびれた。恋人だと思っていたのは自分だけでなかったのだ。ダンは自分を特別だと思ってくれていた。言葉では言わなかったが、きちんとした絆があったのだ。
溢れ出る幸福感に、レオは浸った。
瞳を輝かせたレオを見て、先生は肩を落とす。
「だから、もしかしたら……というか絶対俺のせいで、お前に浮気を疑われたって、八つ当たりされた」
先生は視線を落としていた。
レオは浸っていた幸福感が、いつの間に後悔に変わっていることに気付いた。
「酷いことを言われた、って言ってた」
先生は、コーヒーに映る自分の顔を見ている。
レオの胸が搾られるように痛くなった。
確かに、酷いことを言った。
「俺のこと見下してたんだろ」「股開いて点を稼いでたんだろ」「クソ変態」「ビッチ」「死んじまえ」などなど。
自分がやったことは、彼を詰った輩と同じだ。思い出せば、胸糞悪く、死にたくなってくる。
ドーナツが運ばれてきた、レオは受け取る。腹はペコペコだったが、口を付ける気になれない。レオの心を塗り固めていた幸せが剥がれ、錆びた苦しさがよみがえった。
いつのまにか、先生のコーヒーからは湯気が立ち上がっていない。
「ちが、ちが……」
違う先生のせいじゃない。自分がちゃんと言葉で伝えなかったから、話し合わなかったから、そうなってしまった。
レオはそう伝えたかったが、心のどこかで、彼のせいにしておきたい、背負いたくない、と歯止めがかかっていた。
もごもごと口ごもっていると、急に先生がレオのほうへ手を伸ばした。その手がドーナツへ伸びていることに気が付くと、レオは手で覆い隠した。
反射神経に、にやりと笑う先生。
「一つくらいいいだろ?」
「絶対嫌です」
「ダンにならやる?」
「う……」
悩んでいるレオを見て、先生はフフンと笑い、手を引っ込めた。レオは学生時代からこうだ。友人や後輩に気前良く奢りはするが、「一口くれよ」といったお願いには絶対応えなかった。
でも、恋人にはその境界がかすかに揺らいだ。すでに相手に対して所有物のような感覚があるからかもしれない。
「ダンの名誉回復のために言うが、あいつは浮気してない。成績だって、俺がえこひいきしたわけじゃない。努力を他人に見せるのが恥ずかしいと思い込んでた」
レオは何も言えなかった。わかっている。彼の努力は、あの夜、部屋で見て、知っていたはずなのに。どうして疑ってしまったのだろう。
「ただちょっと、誤解されただけだ。わかってくれ…………手がべとべとになるぜ?」
言われて、「わっ」とレオは手をどけた。チョコが手のひら全体に付着している。もったいないので、そのまま舐め取る。ついででそのドーナツを手に取り、かぶりつく。舌と喉の奥がまばらに痛い。後輩のコーヒーで火傷してしまったのだろう。ドーナツの甘い匂いが、コーヒーに交じって広がった。
先生はカップをくるくる回し、冷たくなったコーヒーを揺らす。
「それにしても、ダンはどこだろう」
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