3-1 「昨日あのマンションにいました?」
レオはケイトとの電話を切った後、涼しい店内へ戻った。夜とはいえ外は蒸し暑く、店内はいつもより人が多い気がする。レジに立っていると、冷気を求める人がまばらに入ってくるのだ。くたびれたサラリーマンや、工事現場で働いている作業着の男数人、たまに耄碌した老人が入ってくるのだが、大丈夫だろうか。
レオは徹夜が続いているはずなのだが、ハイになっているのか、まったく眠気が襲ってこない。それどころかいつもより頭が冴えていてミスもまったくしなかった。ずっとレジに立ちっぱなしでいると、同じシフトの後輩が「大丈夫ですか」と声をかけてきて、ようやく休んだ。
スタッフルームで休んでいると、後輩がポットからコーヒーを汲んでくれた。店内にずっといるとむしろ冷え冷えしてくるのでありがたい。「目がちょっと怖いです」と言われた。徹夜続きだと言うと、「帰ったら寝てくださいね」と引かれてしまった。
温かいコーヒーが喉と胃袋を焼いていくのがわかる。苦しい。舌で感じる温度と、実際の温度が異なっているのかもしれない。一瞬、ものすごい眠気が襲ってくる気配がしたが、首を振って堪えた。
それからまたレジに立っていると、しばらくして窓の外が白んできた。
通勤ラッシュが治まってくる頃合いに、レオは退勤した。
陽光がまぶしい。何もかもが、それとなく白く見える。さすがに疲れているかもな、とレオはぼんやり考えた。ビルが立ち並ぶこの地域、直射日光とビル影を交互に浴びていると、自分がどこを歩いているのかわからなくなりそうだった。
いささか景色が開けた。新設の駅の近くは住宅街になっているのだ。高い建物が少なくなった分、多めに陽光を浴びる。すると、体が温まってきたのか、急に体から力が抜けてくる。レオはふらふらと駅へ歩く。ひょっとしたら体力だけでなく、精神面でも疲れているのかもしれない。
――――あぁ、何か……
胃袋が切ない、と腹を撫でるとグルルルルと音を立てた。
「あ、腹が減ってんのか」
レオは辺りを見まわす。駅近くは何でも食べる場所はあった。弁当屋、カフェ、コンビニに、ファミレス――――どこへ入ろうか、と考えていると、ポケットの中の携帯が派手に音楽を鳴らし始める。
「ぅわっ!」
一昨日、友人と遊びに行く前にセットしたアラームが鳴り始めた。設定をミスっていたようだ。あくせくとポケットから取り出す。通勤ラッシュを過ぎていたとはいえ、かなり人の目を集めてしまった。
気まずく一人で笑うと、ついでに何か通知が来ていないか見ていると、
「すみません」
声をかけられた。
「あ、はい」
血の気が引いた。そこにはレオの見覚えのある人物が立っていた。サングラス、カラフル過ぎる虹色ドレッド――――ダンの浮気相手……じゃなくて、お兄さん?
レオは息が詰まった。
そいつは、色黒の手に、白い手袋を持ってレオへ差し出している。
「落としましたよ」
意外に落ち着いた声で、それをレオの胸元へ近づける。思わず、一歩引きそうになるレオ。
「ぁ、あ、すんません。どうも……」
いそいそとその手袋をポケットにねじ込み、退散しようとした。が男は続けて話しかけてきた。
「昨日○○マンションにいました?」
――――ドクン
レオの心臓がひときわ大きく鼓動する。そのマンションは、ダンのマンションだ。確かに、レオはこの虹色ドレッドとすれ違った。 焦ったが、レオは平然と、
「いなかったです」
「いたと思うんですけど。階段ですれ違ったでしょ? 俺は目立つ見た目ですし」
覚えているでしょ? と有無を言わさないような鋭い瞳が、サングラス越しに見える。
間髪入れずに痛いところを突かれ、レオの口が引きつる。
「あー……えー、いっ、いつの話っスか?」
「昨日って言ったでしょ」
「あ、き、きのうは……確か、に、そのマンションに友達に行ったことはあるけど、その時スかね?」
レオはしどろもどろになりつつ、不自然にならないよう努める。男はかすかに首を傾げる。
「それはわからないけど、多分その時かな。ちょっと詳しく聞きたいんですけど。向こうで」
彼は、ジャンパーのポケットへしまい込んでいた右手を抜いて、人差し指を駅から真正面へ向けた。大通りにあるカフェだ。人気のあるカフェで、昼になったら満席になることで有名である。入るなら今がちょうどいいだろう。
「おごりますから」
「え、なんで? というか誰スか」
浅い呼吸を繰り返し、レオは適度に距離をとる。男は「ああー」と感嘆し、
「そういえば失礼。ダンの兄です。あなたの同級生だったダンの。覚えてますか」
兄で確定のようだ。レオの胸がチクチクと痛む。その刺激が、全身にくまなく疲労を行き渡らせる。ここでしくじったらまずい。
「……あぁ、おぼー……えてます。ダン、はい、ダン」
否定しても変だろう、とレオは一旦認める。濡れてきた手を拭うため、ズボンを掴む。
「やっぱり。ちょっと連絡が取れなくてですね。そろそろ警察行こうかと思ってるんですよ」
「けいさつ? この後?」
レオの息が詰まる。周りの喧騒が一気に遠のく感覚。
「ええ」兄の胸が、ふぅと下がった。
「あの子ちょっと大きな人に囲まれることにトラウマがありまして。できればそうならないようにしたいんですが……」
そうなのか、レオは考えた。検査ではじかれた時、教師たちや試験官に囲まれていろいろ言われたらしい。それが原因なのかもしれない。
でも、これ以上彼と話していたくはなかった。
「はぁ。俺は卒業以来連絡とってないスけどね」
「姿も見たことないですか? あなたちょっと前からここに戻ったんでしょ?」
「え……」
「前ニュースで見ましたよ。決着ついたから派遣されていた人たちが戻ったって」
「どうして……」
確かにそうなのだが、どうしてそこまで確信を持った言い草ができるのだろうか。ダンはそこまで詳しく話していたのか。
レオの思わず洩れた声が聞こえなかったのかどうか、兄はスルーして続ける。
「あの子博物館の入り口に立っていることが多いんですよ。あの大通りの。チラッとでも見てないですか?」
「見まし……」
言いかけてハッとする。なぜ正直に答えようとしてしまったのか。レオは自分でもわからなかった。
「見た?」
兄が詰めよる。
「あっ! いえ、見たかもしれないですけど、覚えてないですよ警備員さんの顔なんて。ジロジロ見ないですよ、怪しいじゃないですかハハハハハハ」
もう死んだ。全身が痛い。レオは凍えているように、肺を押しつぶしながら笑い続ける。
「なるほど」
兄は腕を組んで、思案を巡らせている様子で無言になる。
もう行こうか、とレオは思ったが動けなかった。
すると、急に彼は砕けた口調になった。
「んまぁ、そうだな。お前は昔から友達が多かったからなぁ」
「ん?」
その声には何となく聞き覚えがあった。彼はドレッドをふわりと揺らして下を向き、サングラスを取る。
どうしたんだ、と固まっているレオを、兄は白い歯を見せて笑った。
「俺だよ、俺」
手が頭に伸び、むんずとドレッドを掴むと、
すぽん
虹色の毛髪がかたまりになって抜けた。目をぱちくりさせるレオ。さらに彼の頭には、舞台でカツラを使う人が被っている薄い布が巻いてある。それすらもサッと取って、手ぐしで整えられると、レオは息を飲んだ。
「……もしかして先生っスか!?」
レオの声で、周りを歩いていた人や駅員がビクッとする様子を、兄はニコニコと眺めた。
「そうそう」
ドレッドと布をポケットに収め、くしゃくしゃと頭を掻いた。
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