2-1 ゼリージュース

 昨夜言われた通りに、博物館の裏へ回ると、火照った顔のケイトが缶コーヒーを飲んでいた。缶は結露していて、その雫が彼の袖を濡らしていた。よくこんな場所で待っていたな、とレオは感心する。


「あんた、顔色悪いな。寝てないのか?」


 言われたレオは、目をしばたかせる。

 

 昨夜、レオは通話の後も片付けをしていた、しかしどうやっても部屋は片付かなかった。集中力が続かなくて、一つの場所を片付けているうちに他のものに目が移ってしまう。結局、いつのまにか部屋は真っ白く、朝になっていたのだ。


 真上に上ろうとしている陽光がコンクリートから反射していて、レオは手で遮って顔をしかめる。


「寝れるわけないじゃないスか」

「寝ろ馬鹿」


 それを聞いてレオの胸がギュと苦しくなる。

 ケイトはポケットから、ダンのスマホ、部屋の合鍵、それと薄手の白手袋を取り出した。


「あり得ないが、指紋を残すなよ」


 受け取ると、鼓動が早くなるのをレオは感じる。どうしてダンの部屋の合鍵を持っているのだろう。訊こうとしたが、現時点での彼との関係性ではありえないこともないか、と思い直した。


「……っっあ」


 突然、ケイトの体がふらついた。


「わ」


 レオは反射で手を伸ばした。その青白く皮膚の薄い腕を掴んで、体を支えてやる。


「だっ、大丈夫スか?」


 声をかけながら、ケイトの肩を持つ。とても熱い。


「……平気だ。あんたを待っていただけだから」

「ぇ、ああ……すんませんした」


 厭味ったらしくケイトが汗を拭いた。レオは謝るしかできなかった。

 早々にケイトは中に戻った。すぐに館内の極楽な冷気に包まれていることだろう。


 レオも一歩一歩退散しながら、先ほどの衝撃を思い出す。受け止めたケイトの体は、とても熱かった。その感触は、覚えがあった。


 ――――殺したきっかけ。


 戦地から帰ったレオは、二週間ほどは恩給を使い、家でだらだらと過ごした。

 それに飽きて、外へ飛び出した。

 公園で噴水を見て涼んだり、木から下りてきたリスと戯れたりしているうちにすっかりリフレッシュされた。その時、木に風船を引っ掛けてしまった子どもがいて、取ろうとしたが、割ってしまったこともある。泣いている子どもと、紐を持ったまま困っているレオを見かねた店員が、もう一つ渡してくれた。恥をかいたが、その後たまたま会った同級生とゲーセンで遊んではしゃいで忘れた。


 彼らと別れて大通りを歩いていると、ある人物が目に入り、体がこわばった。

 それがダンだ。

 最悪な絶交ぶりだった。博物館の入り口に、後ろに腕を組んで立っている。帽子を被って制服を着ているから、おそらく警備員に就職したのだろう。目が離せなかった。相手はこちらに気が付いていない。


 すると、同僚らしき人が声をかけて交代した。ダンはどこへ行くのだろう。追いかけるように博物館の中へ入った。


 展示物を見るふりをしつつ、さり気なく彼の姿を探した。だが、対面したいわけではない。彼に認識されたら怒りの余りおかしくなるだろう、とレオは思っていた。


 しばらく彷徨い、気が付くと、スタッフしか入らないような殺風景な場所へ来ていた。自分の足音だけが反響している。なんで俺、こんなストーカーみたいなことしてるんだろ……――――レオは虚しくなる。曲がり角が見える、これ以上奥に行こうか、どうしようか。レオの歩みがどんどん遅くなる


 ――ガチャン――


 すぐそばで扉の音がした。ハッと息を飲むレオ。向こうから小さな影が現れた。ぽすっ、とダンが抱き着いてきた。熱く火照った体だった。


 今思えば、ダンが抱き着いてきたのは、ただ日射病でふらついただけだったのかもしれない。それで衝動的に怒りをぶつけたのは、さすがにかわいそうだったかも。


 しかし、過去に自分を裏切った事実は消えない。うっかり殺されて当然だ。レオは息荒く、そう強く思い直した。



 早速、レオはダンのマンションへと向かった。今日は朝からバイトがあったのだが、深夜帯へのシフトを希望すると喜んで変更してくれた。


 マンションの場所は学生時代と変わっていなかったので、すぐにわかった。クリーム色の壁で、八階建て、階段で行き来する。ご老人が管理しているので大変そうだ。


 ダンの部屋は六階の突き当りだ。一階一階、上るにつれ汗が酷くなる。六階に着き、扉を目指すにつれ、心臓がピリピリしてくる。突き当りの扉の前に立手袋をはめる。取り落としそうになりながら、鍵を差し込んだ。


 カチャリ


 扉を開くと、どこか懐かしい匂いに包まれた。慎重に扉を閉め、鍵をかける。

 本人が不在のため、エアコンが点いておらずとても熱気で苦しい。点けたくなる気持ちを押さえ、代わりに蛇口で水を飲む。


 落ち着いてから、部屋を見まわすと、リビングの真ん中にボストンバッグがあった。


「そういえば、里帰りするって、ケイトが言ってたな」


 ふと思い立ち、その中にスマホを入れることにした。チャックを引っ張り、隙間に差し込む。

 やることは済んだし、さっさと帰るのが本当は良いのだろうが、自分がいない間ダンはどうしていたのか気になった。少々物色しよう。


 まずは彼の寝室へ。本棚の参考書が減ったくらいで、ほとんど変わっていない。ベッドを見た。整頓してあって、シワはあまりない。自分と、ダンが同衾した記憶。それに、ケイトとダンが同衾したという妄想が上書きされる。あまり行かなかった、とケイトは言ったが一度は行ったのだろう。気分が悪い。


 寝室を出て、顔を洗うためにキッチンへ戻った。洗面所でもよかったが、あまり形跡を残したくない。顔を洗うと、冷気を求めて冷蔵庫を開こうとした。扉に磁石で貼り付けてあるレシピに、レオは目を剥いた。


「え……まだ、貼ってあるのか」


 それは、あの日彼へふるまったスープのレシピだ。以来とても気に入ってくれたので、チラシの裏に書いてあげたのだ。そのまま、冷蔵庫の扉に貼ってある。レオの胸の内が、温かくなり、切なくなり、苦しくなる。気持ちの整理が上手くいかないことが、結局苦しい。


 扉を開ける。ガコン、と扉棚に立ててあったペットボトルが音を立てる。冷気の雪崩が、レオの足元へ広がった。肌が汗ばんでいたレオは、顔を近づけて中を覗く。自炊したのであろう残り物、食パン、買い置きしている大量のパックジュースが入っている。


 パックジュースには、苦い思い出がある。当時のダンは、学校に設置されている自販機から買わずに、パックジュースを自宅から持ってきて飲んでいた。ココアや様々なフルーツジュースと、野菜ジュースだ。


「委員長は何で買わないんだ?」


 レオがそう問いかけた時、ダンは微笑んだ。


「……節約だよ」


 そう言った彼に、レオはその場で自販機から缶ジュースを買ってやった。振るとゼリーになるやつだ。ダンは戸惑っていたが、「ありがとう。後で飲むよ」とカバンにしまった。きっとお腹がいっぱいだったのだ。


 しかし数日後、彼の部屋を訪れ冷蔵庫を開けた時に、そのジュースはあった。まだ飲まれていなかったのだ。ほかのパックジュースに追いやられるように端に置いてあるそれを見て、とても不安になった。何ですぐ飲んでくれないんだ、と。結局、そのジュースは――――

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