1-10 通じない電話

 「ちかれた」


 ミノルは準備を終えると、使い込まれて傷み始めている革のソファに腰かけた。部屋のど真ん中にまとめてある荷物を見る。明日は弟のダンと地元に帰る日だ。何日も泊まるわけではないが、不要になったものは実家に置いてきてしまおう。墓参りに必要なものは現地で借りて、花は途中で買えばいいだろう。


 向こうの様子も確認しよう、と弟へ電話をかけた。が、出ない。きっと忙しいのだろう。

そのままソファに横になる。冷房からの風が、温まった体を冷やしてくれた。



 寝てしまったようだ。埃被ったレースカーテン越しに見える陽光がオレンジめいている。冷房はタイマーのせいで切れていて、部屋の中が生ぬるい。横に落ちていたスマホを見る。寝てから二時間くらい経っているが、通知は一つも無いようだ。


 もう一度発信するが、八コールすると留守電に切り替わった。


「出ないな」


 メッセージは残さずに電話を切った。

 スマホを腹の上に置き、横になったままゆっくりと伸びをする。


 ひょっとしたら、恋人のもとにいるのか。デートが楽しくて、スマホを見ている暇がないのかもしれない。今日から有休をとっているはずだから、仕事ではないだろう。相手も、休みなのか。ありえなくはない。

 しかし……。


「楽しんでいればいいけど……」


 ミノルから見て、弟の相手はお世辞にも良いやつとは考えられない。弟は、「モテモテ」「多分お金持ち」「きっと良い人」「放っておけない」と彼を評している。

 だが、時折体にあざを作ったり、腫らしたり、日に日に元気を失っていくのを、ミノルは見逃していない。家族だから、身内の変化は敏感に感じ取れた。


 写真で姿を見たことがある。もっとも、彼は写真を嫌がっていたようで、彼だけのものは一つも無かった。だが、ダンが他の同僚と戯れているごちゃごちゃした写真の端っこ。偶然だろうが、写っているものが一枚だけあった。弟はそれを大切に保存していて、こっそりとキスをしているのを見かけたことがある。

 撮られていることを自覚していない横顔。「冷めたやつだ」というのが第一印象。この写真だけで、彼が職場でどのように振舞っていて、周りからどのように思われているのかを如実に表していた。しかし何となく、寂しそうにも見えた。それに、どこかで見覚えのある雰囲気だった。


 彼氏の存在を初めて知ったのは、弟が頬を腫らして帰ってきた時のことだ。普段は別々に暮らしていたが、その日は久々にミノルの部屋に泊まりに来たのだ。


「それどうしたんだよ」

「……ちょっと、ね」


 弟は頬を隠して、指先でいたわるように撫でた。


「先輩なんだけど、ちょっと、怒らせたみたい……」

「パワハラじゃん」

「ち、違う! プライベートだから!」


 あ、彼氏か、とミノルは察する。しかし、暴力をふるうようなやつは看過できない。


「怒らせたって、どんなで」

「…………話す、内容?」


 弟自身もわかっていないらしかった。彼氏の地雷を踏んだのか、それとも手が早いやつなのか。

 ミノルは「見せろ」と弟の腕を無理矢理どかして、あざを詳細に見た。頬骨に沿って紫色になりかけている。近くで見ると、彼の目が充血していた余韻を残しているのに気づく。


「冷やせ、跡が残る。氷持ってくるから」

「ちゃんと水に入れてね」

「わかった」


 弟を革のソファに座らせて、冷凍庫を開けながら問いかける。


「それでお前は、なんか言い返したのか?」

「いや……。『え?』っては、反射で。びっくりしたから」

「そのあとは」

「『何かしましたか?』って。あとは何も……先輩何も言わなくなったから」


 声が苦しそうだ。こっそりチラ見すると、目元をこすっていた。泣いていたのか。どうしてお前が泣く必要があるんだ、ミノルは視線だけで責めた。


「そんなの、殴り返せばよかったんだ」

「いや、それは手が早いよミノル」

「(お前がそれを言うのか……)碌なやつじゃないだろ。DVだDV」

「酷いよ」

「なんで殴られたお前がかばうんだよ。DV被害者の典型だぞ、それ」


 ギッと、弟は一瞬睨んだ。しかし、すぐに気まずそうに目をそらして、黙り込んでしまった。氷嚢を渡すと、彼は受け取って頬に押し付けた。

 氷を補充するために、空になったトレーに水を流しいれる。背後で、ギュ、と彼がソファから立ち上がる音がした。


「一方的に悪く言わないでくれる? いろいろあるんだからさ」

「…………はいはい」


 呆れつつ、それが声色に出ないように返事する(言葉には出てしまったが)。弟が部屋へ向かおうとして、「ごめん」と小さく洩らした。それですぐに行ってしまった。


 弟は、性善説を信じ切っている。出会う人をみんな愛して、友達だと思い込む。だから人を嫌わない。むしろ、改善させようとする。そのせいで、ゆるいやつらには嫌われて距離を置かれた。喧嘩になり何か言われても、相手が傷つかないよう慎重に言葉を選ぶせいで、それを発する前に相手に言い負かされてしまうこともあった。


 そんな彼の行動にイライラさせられてしょうがない。しかし、彼のやっていることは間違ってはいないし、陰で努力する姿は間違いなく尊敬に値した。



 で、そんな弟が彼氏とデート中かもしれない。仲睦まじいカップルに進化したのなら、こちらとしても安心だ。


「まぁ、待ってりゃ来るだろう」


 これ以上弟に電話するのはとりあえずやめた。汗ばんできたから、風呂に行くことにしよう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る