1-6 濁流と悪寒
ぽんと同僚に肩を叩かれる。見慣れない彼は、ダンの代わりに配置されているのだろう。
「……ああ」
肩を叩いたのがダンでないことに違和感を覚えた。彼とは休憩時間が被るので、よく声をかけてもらっていたのだ。
博物館の裏の、自販機の隣のベンチへ、タオルを敷いて座る。夏のこの時期、日よけもないこのスポットは人気がないが、ケイトは雨の日を除いて利用していた。明るいからだ。
出勤してからというもの頭の中は、ダンのことでいっぱいだ。生きていたころの記憶はもちろん、冷蔵中の死体、バッグに詰め込まれる死体、濁流にのみ込まれる死体が交互に延々と繰り返されていた。
死にたての彼は脱力していて扱い難いだろうが、木曜日には硬くなって運びやすくなっているだろう。固まった彼を、レオと二人がかりで放り投げる。どうどうと激しい濁流にのみ込まれる体。流れていくうちに石や木の枝、一緒に流れているゴミなどに削られて、自分たちが住んでいるここに辿り着くころには、人の形をしていない。
その後行方不明がわかった際でも、まっすぐケイトに疑いが行くことはないだろう。同僚であるだけだ。連絡先の交換をしていてもおかしくない。たまに部屋を訪れることもあり得る。
ただ、一つ気掛かりなのが、彼の兄弟の存在だった。
不意に、額に伝う汗にくすぐったさを覚えた。直射日光を意識した途端、頭がくらりと痛む。熱中症になってしまいそうだ。
『危ないですね、今日は。何か飲みましょうか。それにしますか』
と言い、自販機の前に立っている、ダンが見える。
生前の彼と、死体の彼が、フラッシュバックする。胃から喉にかけてぞわぞわする。
「死ね……」
ケイトは立ち上がり、彼が居たはずであろう場所に蹴りを入れた。無論、何も触れるものはない。カッと来て、その地面を踏み鳴らす。
自分しかいない空間に、甲高い革靴の音が響く。コンクリートの硬さが、ケイトの足をはじいて痺れさせる。
鳥の声がして、影が地面を横切った。ケイトが見上げたころには、跡形も無かった。表のほうから、車の往来する音が響いてくる。
「キチガイかよ……」
ふと我に返ってそう洩らす。
怖い。
今の様子を誰かに見られていやしないか。そういう恐怖と、ほかにも漠然としたもののせいで、肺が小刻みに震える。
踏み鳴らした地面を見ていると、自分の顎先から汗が落ちて、ぽつんと、黒くにじんだ。不安の象徴のようだ。虹彩に色濃く残る。
さっきより汗の量が増えていた。戻る前にスプレーをかけないといけないだろう。シャツの胸元を掴んでパタパタと扇ぐ。
額や首を手で拭い、頬を両手で叩いた。
――――落ち着け、落ち着け。
その時、スマホが鳴りだした。相手は……レオだ。
『雨が降らなかったらどうするんスか』
開口一番にそんなことを言う彼にケイトは「ああ?」と背伸びをする。
「降るから大丈夫だ」
『降るんスかね? こういう時の天気予報ってめっちゃ外れる気がしませんか』
「外れたとしてもそんなにはズレないだろう」
電話口だが、レオがやきもきしているのが伝わってくるようだ。気をもんでいるのはこちらも同じなのに、とケイトは舌打ちする。
「大体な、人を殺したのは初めてじゃない癖に緊張しすぎだあんた。一人くらいなんだ。というか電話してくんな、足がつくかもしれないだろうが。馬鹿か」
黙らせるために、あえてケイトは強めにぶつけた。実際、レオは黙り息遣いだけが聞こえてきた。
…………かなり長い間。
急にゾッとして肌がそばだった。微かな息遣いの中に、殺気を感じる。
「なぁ……言い過ぎた。実は俺も不安なんだ」ケイトは咄嗟にそう口走る。
『そうスか』即答する低い声。
「っ、ああ、ズレるとしても一日二日だろう。安心しろ、俺がどうにかしてやる。安心してくれ」
精一杯の謝罪になっていない謝罪。ケイトの口から謝罪するのは、彼のプライドが許さなかった。
『……ありが……ございま……』
最後のほう、レオの声は震えていた。何とか納得してくれたようだ。
切ってから、自分の声も震えていやしなかっただろうか、とケイトは頭を抱えて座り込む。真っ暗になったスマホの画面を眺めて、腕に立った鳥肌を撫でて落ち着かせる。
怯えていたのだ。レオに。
レオは馬鹿だが、肉体が大きい。暴走するとケイト自身の力では勝てないだろう。彼を追い詰めてはならない。すべてが終わってしまう。そう確信していた。
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