1-5 欠陥品


 ――――かん

 アパートに帰り、電気のスイッチを探して壁を伝っていると、空き缶を蹴飛ばしてしまった。点灯すると、こぼれたサイダーが床に弧を描いていた。うわぁ、と思いつつ追っていくと、机の上が散らかっていることに気が付いた。片付けずに出て行ったので当たり前の光景ではあるが、レオは違和感を覚えた。

 ぶぅん、と目の前をハエが過ぎ去る。ギョッと見ると、果物の皮や缶詰の中に残ったカスにハエが集っていた。


「あっちいけ!」


 マスカットの皮に止まっていたハエを叩き潰す。本当に潰せたかはわからない。

 肉や、缶詰、マスカットやオレンジといったものは食べたが、唯一リンゴは残っていた。普段からよく食べるので後回しにしたのだ。

 リンゴを拭いて冷蔵庫へしまうと、ケイトにもらった際の紙袋を広げた。その中にゴミを掻き込んでいく。そうしている自分の姿が、かつてのダンの姿と重なった。


『レオくん、俺が片付けるよ。座ってなさい』


 と、彼は子供をあやすような口ぶりで、レオをソファに促した。その時に背中に押し当てられた小さな手の感触を覚えている。

 違和感を覚えたのは、友人たちと会っている間にダンとの記憶を詳細に思い出したからだろう。体感が過去に戻りかけている。料理はできても掃除する能力がなかったレオを見かねて、ダンが掃除してくれた思い出がよみがえったのだ。


 ソファには、潰れてシワになった洗濯物が貼り付いている。座れないこともないが、記憶の中の片付けられたソファとは違った。

 なぜこうなった。ダンを殺したから。

 とても、細い首だった。


「ちがう……」


 わざとじゃなかった。ちょっと凝らしめてやろうとしただけだったのに。

 事故だった、事故だった、とレオは頭の中で繰り返す。

 彼はいまケイトの自宅の冷蔵庫の中にいるので、掃除に来てくれそうもない。違う、掃除には来てくれない。来れない。自分で掃除をしないと。


 レオはその場に紙袋を落とすと、ソファの服を片付け始めた。


◆◆◆



 ケイトは出勤すると、香水臭い上司との世間話を終え、更衣室へ入った。

 最近一新された藍色のロッカーは、きれいな光沢があり、職員たちの私物の匂いとミスマッチだった。

 一番奥のロッカーを開き、制服を取り出す。

 着替えていると中に取り付けられている鏡に目が行った。自分と目が合った。その表情は、今の気持ちと一致していて苛立ちに歪んでいる。あからさますぎるな、とケイトは頬を撫でて筋肉の緊張を解く。


 不機嫌なのは、先ほどの上司との会話で家族の話題が出たからだろう。ダンの有給が里帰りのためだと知ってる上司が、「家族は大事にしないと」「ケイトくんも親孝行してる?」と訊いてきた。それに加え、上司自身は自分の娘と最近うまくいっていない、といった相談のような愚痴のようなものを聞かされた。


 はっきり言って、ケイトは家族が嫌いだった。彼らに問題があったわけではない。優しい父母、頼もしく弟思いで優秀な兄。ただ、ケイト自身のプライドが、その兄に対しコンプレックスを生んでいた。ケイトも兄に劣らず優秀だったが、ほぼ同じ能力を持った兄弟だと、兄のほうが目立つのだ。ケイトは親に勧められた道を選んだ兄とは、違う道を歩んだ。一人で暮らし、家の名前を借りず自分の力で就職し、自立した。


 整髪料で形をとり、香水をプッシュする。

 更衣室を出ると、ケイトは表情をやわらげた。


「おはようございます」


 持ち場につく際にすれ違う受付嬢二人にあいさつすると、彼女らは色めき立って挨拶を返した。


 来た客に「ようこそ!」と笑顔を向ける仕事をケイトはしている。博物館の案内係だ。今日は平日ということもあって客は少ない。幼稚園団体の予約などもないため、比較的のんびり過ごせる日だ。人前に出る仕事とはいえ、いつまでも気を張っていると疲れるのだ。客がいない間は、足首をくるくる捻り、考え事に集中した。死体遺棄のシミュレーションである。


 ちなみに昨日殺されたダンは、警備員をしていた。軍学校卒だと聞いた。それなのにわざわざ、この博物館の警備員に就職したということは、何かしらの欠陥があって軍に入れなかったということだ。


 彼が入社してきた当時、成績が非常に良かったという評判を聞いていたが、小柄であることが気になった。見た目が与える印象というものは大事だ。ダンは警備員だが、小柄な警備員と大柄な警備員、どちらが安心かと聞かれると、大体は後者を選ぶのではないか。

 博物館と言えど、そうそう事件が起こることはない。しばらくは彼の実力がわからず(本当はわかる機会が訪れないほうが良いのだろうが)、どことなく不安な雰囲気が職員の間に漂っていた。


 それはそうとして、彼の振る舞いは物腰柔らかで、コミュニケーションに長けていた。気配りが利き、何事もそつなくこなす様子は、彼が優秀であることを如実に表していた。毎日明るくあいさつし、誰の会話にも相槌を打つうちに、あっと言う間に先輩社員にかわいがられる存在となった。


 ある日、彼がチンピラの腕を捻りあげている場面を目撃した時は驚いた。彼の警備員姿を舐めていたチンピラが、わざと展示物を手に掛けようとしたのだとか。その小さな体のどこにそんな力があるのだ、と言いたくなるくらい、完璧にねじ伏せていた。

 そういうわけで、ダンの実力は広まった。


 「ケイト……先輩?」


 更衣室で着替えていると、急に声をかけられた。勤務時間が違うため、たまのあいさつ以外かかわりがなかった。名前があっているのか心配している様子だ。ケイトが振り向くと、彼はホッとして話し出した。


「そのタオルとか、インナーとか、ブランドですよね?」


 嫌悪感を覚え、ケイトは目を細めた。

 その内に秘めている期待感を抑えようとしてできていない、高まった声でダンは擦り寄ってくる。


 金目当てに寄ってくる輩を、ケイトは嫌というほど見てきた。そのため職場では公言していないのだが、この目ざとい新入社員は持ち物で嗅ぎつけたらしい。昔から使い慣れている物だから、と買い替えなかったのが悪かったのか。


 次に口にするのは『お金持ちなんですか』とか『どこで買ってるんですか』とかそういったものだろうと、ケイトは踏んでいた。だから、次の言葉に拍子抜けした。


「先輩はジムとか行かれるんですか?」


 どういうわけか彼はケイトを運動好きだと思い込んだらしい。誤解は解いたものの、それから、会議で勤務時間の見直しがあり、被るようになった彼はケイトによく絡んできた。新人として緊張していた時期に、共通の話題を持てるかもしれないケイトに親近感を抱いたのだろう。


 しかし、彼は何か欠陥があった人間。今後何かあった際に、よく会話していたという理由で自分まで巻き込まれでもしたら困る。新人だから気を遣ってやって、さり気なく距離をとろうとしたが、彼はくっついてきた。

「なぜ俺に話しかける?」


 一度そう訊いてみた。するとダンはあっけらかんと、


「だって、先輩が一人でいるので」


 そう答えた。

 計算なのか、天然なのか、判断がつかなかった。おそらくどちらも、とケイトは結論付けた。自分の信頼関係を築いて安定したいのだ、と。


「ケイト、交替だぜ」

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