第77話 許嫁と抱擁の結果
シオリが、抱き合うとストレスが軽減する、と言っていたが、どうやら抱擁の効果はそれだけでは収まらないらしい。
移動教室の際、わざと遠回りで四組の前を通る。
まだ夏季じゃない為、教室のドアは前も後ろも解放状態で教室の中が丸見えである。
今まではあんまり意識して四組の前を通らなかった。冬馬にからかわれるのも癪だし。
でも今はその程度の事がどうでも良く感じるほどに一目シオリの姿が見たい。家で何度も顔を合わせているけど、学校でシオリとの接点は昼休みしかないから、少ない休み時間でも彼女の事が気になる。
そんな恋する乙女的な感情で四組の前をスローモーションで歩く。側から見たら不審極まりないだろうがそんな事もどうでも良い。
教室の後ろのドアから見えた内部。シオリの姿を一瞬で見つけ出す事ができる。
彼女は窓際の一番後ろの席に座り、ヘッドホンをして本を読んで座っていた。
あの曲を聴きなながら、あの本を読んでいるのだろうと思うと顔が緩んでしまうと同時に、シオリの席替えに対する運が異常に良いことに驚きを隠せない。
こっち見てくれたら嬉しいのにな、なんて思いつつも、シオリの二年になっても変わらない姿にホッとしてしまう。
そんな思考の中、俺の心臓が軽く跳ねた。
だってシオリと目が合ったから。
まさか、本当に目が合うなんて思ってもいなかったので、一瞬どうして良いか分からなかった。
中に入る? 対して用もないのに入るのは気が引けるな。
そう思い、自分の中で出したベストの答えが――。
ヒラヒラヒラ――。
小さく彼女に向かって手を振った。
恋愛経験豊富な男ならもっとスマートな対応が取れるのだろうが、俺みたいな乏しい奴にはこれが精一杯である。
シオリは軽く首を傾げて無視するのかと思ったが、少し微笑んで小さく手を振り返してくれた。
それだけ――。たったそれだけの事なのに、まるでテストで花丸満点を取ったかの気分になり、今にもスキップしたい気持ちを抑えて、目的の教室へ向かった。
これも彼女と抱擁した効果なのだろう。
♢
抱擁の効果は、シオリに無性に会いたい、という効果の他にも俺にバフ効果を与える。
普段、勉強しているし、親に心配かけない程度の成績を取っているから、そこまで積極的じゃなかったけど、少ない休み時間でも教科書を開いて勉強に謹む。
それはシオリの成績に近づきたいという欲求。
彼女の平均点は俺よりもプラス十点だ。正直、シオリクラスまで行くのは至難の業だが、少しでも近づくことはできるはずだ。
そう思い、教科書を読んでいると「精が出るね」と聞き慣れた声なのにドキッとしてしまう。
顔を上げると、ヘッドホンを装着したシオリが目の前に立っており、目が合うと彼女はヘッドホンを外して首にかける。
これも見慣れた行動だが、その行動一つが愛おしく思えてしまう。
「シオリ……。珍しいな」
内心、お祭り騒ぎだが、いつも通りと言わんばかりの対応をしてしまう。
「うん。珍しい」
「どうかした?」
「あ、ええっと……」
シオリは言葉を詰まらせてアタフタとしてしまった。
そして思いついたかのように言い放った。
「きょ、教科書。そう。教科書を忘れたから借りに来たんだよ」
「うわ。まじで珍しいな。シオリが忘れ物するなんて」
「で、でしょ? あ、あはは……」
乾いた笑いを出すシオリが気になったがそこはスルーしておく。
「何の教科書忘れたんだ?」
「こく――」
「もしかして国語か? だったらごめん。次、俺ら国語なんだよ」
折角来てくれたのに申し訳ないが断りを入れるとシオリが続ける。
「――酷だよね。教科書を忘れて授業なんて。忘れたのは数学なんだよね」
かなり無理のある言葉な気がするが、ツッコむのは野暮な気がする。
「数学か。数学ね」
「そうそう。数学、数学。あはは」
俺は机の中から教科書を取り出してシオリに渡した。
「ありがとう」
そう言いながらシオリは俺の教科書を大事そうに胸に抱える。
なんか、そんな風に俺の貸した英語の教科書をやられるとむず痒くなっちま――。
――英語……だと……!?
キーンコーンカーンコーン。
「あ……。チャイム鳴っちゃった。――ま、またね、コジロー」
「ちょっ! まっ!」
シオリに俺の言葉は届かずに彼女は教室を出て行ってしまった。
すまないシオリ。こちとら緊張で数学じゃなく英語の教科書を渡してしまったよ。
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