第55話 最終回 その後の世界

 女王は特に何も考えず、無意識的に城の中に入った。

 階段を登り、展望の間からブダペスト市街を見下ろした。街は壊滅していた。小さな家屋はぶっ壊れ、頑丈そうな建物もどこかしら壊れていた。首都はがれきの山と化していた。

 女王はうずくまり、動かなくなった。生きていていいのかな、と思った。いい筈がない。

 終日、展望の間でうずくまっていた。

 彼女はそこで放心し続けていた。


 ロンドンは地上から野豚の後塵を見つめ続けていた。戦いが終わった後、巨大な廃墟となったブダペストに入った。豚に壊された街をこれまでにいくつも見てきたが、これほど壮大な廃墟を見るのは初めてだった。世界最大の都市の廃墟だ。

 街の骨格は変わっていない。大きな道路や石造の丈夫な建物や王城の形はそのままだ。しかし細部がぼろぼろだった。あちこちが欠け、砕け、汚れていた。

 原形がわからないほど粉微塵に砕けている小さな建物が無数にあった。がれきが散乱している。彼は大盛亭の看板が落ちているのを見つけた。料理人は逃げ延びたのだろうか。ラックスマンと食べたあの旨い料理がまた食べられる日は来るのだろうか。

 ロンドンはうろうろとブダペストを歩き回った。がれきの中のところどころに人骨と豚骨が落ちていた。豚の骨は脱落した野豚のものだろう。

 人の死体の数は予想していたより少なかった。ブダペスト市民の多くは避難したのだろう。それはせめてもの救いだった。

 彼は王城の中に入った。誰の姿も見かけない。城も豚に荒らされ、ぐちゃぐちゃになっていた。彼は下の階からしだいに上の階へと進み、やがて展望の間へと至った。

 そこに、呆けたような表情の女王がいた。

 以前と変わらず美しいが、生気がなく、壁に背を預けて床に直接座っている少女。それは紛れもなく、この国の女王だった。

 ロンドンは驚いた。キャベツ姫は死んだのだろうと思っていたからだ。思いがけない再会だった。

「ひ、姫……!」

 ロンドンは叫び、彼女にかけ寄った。

「キャベツ姫、生きていたんですね。よかった……」

「ロンドン……?」

 女王は目を見開いた。彼女もこの再会に驚いているようだった。表情に喜びが垣間見えた。しかし、すぐにその喜色は消え、目を伏せた。

「生きていて何がよいものか……。あたしは死にたいんだ……」

「大惨事となりました。気を落とすのは無理もありません」とロンドンは言った。

「でもあなたが生き残ったのは、この国にとって幸いだった。あなたは国を再建する核となれる。なんといっても、女王なのですから」

「王など続ける気はないわ」

 彼女の目は暗かった。

「あたしは最悪の女王だった。たくさんの人を死なせた」

「よくがんばったんじゃないですか。あの豚の大群には勝てませんよ。煉獄盆地ではひどい目に合いました。あいつらを食い止めることはできなかった」

「煉獄盆地、戦死者は何人だったの?」

「たぶん十人ぐらいですね。火攻めと水攻めをしたんです。剣では戦いませんでした」

「たいしたものね。あたしは、二百万人死なせた……」

 女王は唇を歪めた。目に涙がにじんだ。

 ロンドンはかける言葉を失った。しばらく沈黙が続いた。

 女王はじっとうつむいていた。

「ロンドンはあたしたちの戦いを見ていたの?」

「おれが見ていたのは、豚の後ろ姿だけです。しかし、戦後の惨状は見ました。人類最強軍でも豚には勝てませんでしたね。今でも豚は、どこかを荒らし続けているんでしょうね」

「最悪ね。もう手の打ちようもないわ」

 確かに、とロンドンは思った。もう野豚を止める手段は何も残っていない。

 しかし生き残った者は、死ぬまでは生き続けなくてはならない。

「顔色がよくありませんね。何か食べますか? 塩漬けの豚肉とキャベツなら少しだけ持っています」

「食べたくない」

「この城のどこかに水と食糧は備蓄してありませんか?」

「城の地下に厳重な隠し倉庫がいくつかあるわ。野豚に食われずに残っていたら、好きに食べていいわよ」

「地下ならたぶん残っていますよ。あとでいただきます。あなたも食べてください」

 女王は何も言わなかった。

「キャベツ姫、いや、女王陛下、あなたにはまだやるべきことがある。女王をやめるのは、そのあとにしたらいかがでしょうか?」

「王を続ける気はないと言ったでしょう」

「おれは、あの戦いを生き残った者の責任というものがあると思うんです。明日から、その責任を果たしましょう。おれも手伝いますから」

「何をすると言うのよ? もう何もかも終わったのよ」

「終わってはいません。まだ人は世界にたくさん生きているんですよ。まずは死んだ人の弔いをしなければなりません」

「弔い……?」

「戦場に死者が放置されています。そのままにしてはおけません」

「それは……」

「今日はゆっくり休み、明日になったら、戦場跡に戻って、穴を掘り、遺体を埋めましょう。何日かかるかわからないけれど、やらなくてはならないことです」

 女王の表情がくしゃくしゃになり、涙が頬を伝った。

「あそこには行きたくない……。でも、みんなを野にさらしておくわけにはいかないわね……」

   

 翌日、女王とロンドンはスコップを持ってブダペスト南方へと出かけた。そこには凄まじい数の死体が転がっていた。

 二人でどうこうできる数ではなかったが、とにかく彼らは墓掘りを始めた。黙々と穴を掘り、適当な大きさになったら、そこに戦死者を埋めた。そして冥福を祈った。それをずっとくり返した。いつ果てるともしれない作業だった。

 何日も、何日も彼らは墓掘りを続けた。スコップを持つ手の皮が破れて血が流れても、豚皮の包帯を巻いて、穴を掘り続けた。何人も、何十人も、何百人も死者を埋めた。それでも、無限に思えるほどまだまだ地表に死体が残っていた。二百万人が死んだのだ。

 のどが渇き、腹が減った。女王は水を飲み、豚の肉とキャベツを食べた。墓掘りに専念している間だけは、自責の念を忘れられた。

 いつしか、墓を掘るのは二人だけではなくなっていた。ブダペストから他の都市へ避難していた人々が、三々五々首都へ戻ってきたのだ。彼らのうちの何人かは墓を掘る仕事に加わり、墓掘り人の数はしだい増えていった。

 墓掘りに加わった人は、女王が墓を掘っているのに気づいた。ある人はその姿を見て感動し、ある人は王がおめおめと生き残っていることに怒った。家族を豚との戦いで失った人は、女王にその怒りを向けた。

 石を投げる人もいた。女王は石を避けもせず、その体で受けた。顔に当たり、血が流れることもあった。当然の罰だと思った。

 流れる血を止めようともせず、彼女は穴を掘り続けた。黙々と掘った。その姿を見て、石を投げ続けられる人はいなかった。

 やがて、ブダペスト市長が避難先から戻り、女王の元へとやってきた。

「女王陛下、王国再建の指揮を執ってください」と市長は言った。

「何を言っているの。あたしには死者を弔うという大切な仕事があるのよ」

「それも大切ですが、国の再建も大事です。ブダペストだけでなく、多くの街が破壊されました。しかし大勢の生き残った者たちがいます。すべての住民が死に絶えたわけではないのです。残された国民のために、国を再建せねばなりません」

「あたしは死者を全員弔ったら、女王をやめようと思っているの。この国を導く資格など、あたしにはないから」

「陛下以外の誰にそれができるというのです。どうかお願いします」

 市長は頭を下げ、女王はとまどった。

「それも生き残った者の責任じゃないですか」とロンドンは言った。

「ここはもう軌道に乗りました。女王がいなくても、死者を弔うことはできる。しかしあなたにしかできない仕事がある。そろそろ、そちらへ移ってもいい頃だと思いますよ」

「ロンドン……」

「王にしかできない仕事があるなら、それをやるべきでしょう」

「あなたがそう言うなら、やってみるわ……。でも、一つ頼みがある」

「頼み……。何ですか?」

「あたしの側にいて、あたしを補佐してほしい」

「王の補佐なんて、おれの柄じゃありませんよ」

「国の再建が軌道に乗るまでよ。それができれば、あたしも王をやめるし」

「やれやれ、これもなりゆきか」とロンドンは言った。

 彼は旅人だ。興味本位で豚王国に来て、なんの因果か野豚と戦いもした。

 彼は豚王軍と野豚の戦いを見終わった。もう当初の目的は果たした。しかし彼の意識は変わり、今となっては、粉々になった街と人々の暮らしを放置して別の旅に出る気にはなれなくなっていた。当事者となったことで、なにがしかの責任を感じていた。ラックスマンを死なせておいて、元の気楽な旅人には戻れないという気持ちもあった。

「わかりました。あなたをささえますよ」

   

 女王とロンドンは王城に戻った。

 女王に二百万人を死なせた敗戦の責を問う声は少なくなかった。

「皆がそう言うなら、責任を取ってあたしは死んでもいい」と彼女は言った。しかしブダペスト市長らが女王を守り、彼女を死なせはしなかった。今は女王が必要だった。先王の唯一の嫡子。キャベツ姫の他に、国の中心となれる人物はいない。

「女王はブダペストを守ろうとしたのだ。まちがったことはしていない」と市長は言った。

 女王はロンドン、ブダペスト市長らと共に、豚王国再建の仕事にとりかかった。他の都市で生き残っていた王国の重要人物が協力を申し出てくれることもあった。ブダガーナ市長もやってきた。

 まずはがれきをかたづけることだった。女王は率先して街に出て、がれきを運んだ。自らやるのが、彼女のやり方だった。志願兵を集めたときと同じだ。がれきをかたづけている彼女のもとへ、さまざまな人が指示を求めてやってきた。

 救援物資の分配とか、どこから先に復興工事にとりかかるべきかとか、いろいろな指示が必要だった。

「あたしは今はがれきの撤去に集中したい。むずかしいことはロンドンに訊いて」と女王は答えた。

「おれに訊かれても困りますよ。おれはただの旅人で、なんの権限もありません」

「あなたを関白に任命するわ。よろしく」

 女王はさらっと重要な人事の決定を告げた。

「えーっ」

 ロンドンが豚王国の関白になったのは、がれきを運んでいる最中のことだった。王国ナンバー2の高官だが、特に任命式などはなかった。

 彼は関白として、王国再建の中心人物の一人となった。最初はとまどったが、ブダペスト市長やブダガーナ市長らと再建計画を練り、懸命に実行していくうちに、なんとか仕事をこなせるようになってきた。ブダペストの復興、地方都市の復興など、さまざまなことを手がけた。

 なんて奇妙な人生なんだ、とロンドンは我ながらおかしかった。旅をしていたら、いつの間にか関白になり、超大国の国政に関与している。

 女王は黙々とがれきをかたづけ続けた。華奢な体で砕けた石を持ち上げ、がれきの集積場に運んだ。疲れたら少し休んでから、また運んだ。最初、一般の市民は女王を遠巻きに見守っていたが、しだいに彼女に声をかける人が増えてきた。

「疲れませんか」

「疲れたわね。でもやらなくちゃ」

「私も手伝います」

「ありがとう」

 最低レベルに落ち込んでいた女王の人気は、再び上昇していった。彼女に石を投げる人はいなくなった。女王の周りでがれきをかたづける人が激増し、ブダペストは急速に元のようすを取り戻していった。

 ブダペスト防衛戦から半年が経った頃、首都のがれきはかたづき、戦死者の墓はほぼ完成し、首都周辺のキャベツ畑や豚牧場もかなり整備されてきた。大盛亭も復活し、営業を再開した。

 そんなとき、大きなニュースが舞い込んできた。

 野豚の大群が滅びたという知らせだった。

   

 野豚の群れは、ブダペストを蹂躙した後、なおも豚王国の国土を荒らし続けた。だが、無敵の野豚とて、無限に生き続けられるわけではない。彼らの終焉の地は、なんと遊子高原だった。野豚の大群は、どこでどうまちがったのか、移動に移動を重ねたあげく、ぐるりと遊子高原に舞い戻って来たのだ。

 そこは、彼ら自身が作り出した不毛の大地だった。豊かなキャベツ地帯を移動してきた彼らは、ここで初めて、食を失った。壮絶な共食いの末、豚の群れはこの地で終焉を迎えた。

 それが、ブダペスト防衛戦から半年後のことだった。

   

 良いニュースだった。

 野豚の脅威が失われ、豚王国の再建は完全に軌道に乗った。

 もういいだろう、と女王は思った。あたしは責任を取って王を辞任する。

 だが、女王の側近となっていたブダペスト市長がそれを押しとどめた。やめさせるわけにはいかなかった。女王にはカリスマ性があった。がれきをかたづける彼女の姿は、王国再建の象徴だった。ロンドンも関白としてよく働いていたが、女王の求心力がなければ、再建はこれほど順調には進まなかった。

 彼女には末永く王であり続けてもらわねばならない、とブダペスト市長やブダガーナ市長などの新たな国の重鎮たちは考えていた。女王に対する国民の支持も高まっていた。彼女をやめさせるわけにはいかなかった。

 キャベツ姫は、女王をやめることはできなかった。

 その頃、ロンドンも辞任を考えていた。

「おれはそろそろ関白をやめさせてもらおうと思います」

 女王の執務室で、ロンドンは言った。

「何を言っているの。あたしは王を辞められなかったのよ。あなたにも関白を続けてもらうわ」

「陛下、おれはもともと、旅人なんですよ」

 彼はへろりと笑った。

「王にしかできないことがあるように、旅人にしかできないこともあるんですよ」

「なんなのよ、それ」

「生きた化石を探すことです」

「生きた化石なんて、見つかりっこないわ」

「見つからないかもしれない。でもあきらめずに探せば、見つかるかもしれない。オセアニアという大陸には、まだ別の種が残っているという話を聞いたことがあります。嘘かもしれないし、オセアニアがどこにあるかもわからないんですけどね。だけどおれは行こうと思っています。他の大陸へ、生きた化石を探しに」

「他の大陸……?」

 途方もない話で、女王はあぜんとした。しかし、ロンドンらしい、と思った。

「今回、豚は勝手に滅びてくれました。でもまたどこかで、野豚の大発生は起こります。人、豚、キャベツだけの世界では、必ずそれは起こってしまうんです。そしていつか、人は豚に滅ぼされてしまうでしょう。それはそう遠くない日かもしれない」

 ロンドンは語った。

「豚のあとを追いながら、おれはずっと考え続けていました。どうすれば人類が生き残れるのか。唯一見つけ出した答えは、たくさんの生きた化石を発見し、豊かな生態系を取り戻すということでした。この世界を再び豊饒にするんです。不可能かもしれない。でもおれはやってみたい。だからおれは関白をやめ、旅に出ます」

 話のスケールが大きすぎて、女王はしばし呆然とした。

 できっこないと反対するのは簡単だ。だが野豚に国土を蹂躙され、数百万人の犠牲者が出た。その再発を防ぐ唯一の策がこれだというのなら、止める理由はなかった。

 ロンドンの夢。いいかもしれない、と思った。

「あたしもついていく」

「陛下には王としての務めがあります」

「そんなものどうでもいい」と女王は言った。衝動のままに。

「ロンドンと一緒にいたいの」

 彼女はロンドンのすぐそばに近寄り、彼の瞳を見つめた。

 どきん、と旅人の胸が高鳴った。

 一緒に行きましょう、と彼は言いたかった。だがそういうわけにはいかなかった。女王はこの国に必要だった。生死も知れぬ冒険に連れていくわけにはいかない。

 ロンドンは女王を抱きしめた。

 彼女は彼に身をまかせた。

 しばらくしてから、旅人はゆっくりと腕を離した。

「生きた化石を見つけて、帰ってきます。そのときはこの豚王国で、その種を増やしてください。それまで待っていてください」

「必ず帰ってきてよ。一年ぐらいで帰ってきて!」

 女王はわがままに口をとがらせて言った。

 ロンドンは苦笑した。

「一年ですか。他の大陸へ行くつもりだから、それはちょっと無理ですね」

「じゃあ三年」

「うーん……。生きた化石を見つけるの、大変なんですよ? いるかどうかもわからないし」

「三年たったら、生きた化石が見つかっても、見つからなくても帰ってきて。どこへいようと帰ってきて!」

「善処します……」仕方なく、旅人は言った。

「善処するって言葉だけじゃ、行かせられないわ。約束して!」

 女王は執拗にロンドンに迫った。

「約束、します」

 ついに彼は約束させられた。

「いいわ、ロンドン、旅に出なさい。ただし、豚王国関白のままでね。解任はしない。あなたは関白として、生きた化石を探す任務につくの。わかった?」

「わかりました……」

 この子に逆らうのは無理だ、とロンドンは思った。

「やれやれ、大変ななりゆきだな。陛下にはかないません」

「あたしのバックアップがあれば、旅もずいぶんと楽になると思うわよ」

「いや、おれは貧乏旅行が性に合っているんで、特に助けはいりませんよ」

「あはは、ロンドンらしいわね」

 女王は久しぶりに可愛らしい微笑みを見せた。

 けっしてこの顔を忘れることはないだろう、とロンドンは思った。

 こうして、吉田ロンドンはブダペストを離れ、生きた化石を探す旅に出た。

 野豚との戦いで、たくさんの人が死んだ。しかしまだ懸命に生きている人がいて、生きた化石を探すというかすかな希望も残っている。それで、ハッピーエンドということにしようではないか。

 人と豚の最終戦争はまだ途中で、これからも続く。

 しかしこの物語は、これでおしまいである。

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