第54話 決着

 開戦後二時間が経過した。

 戦況が暗転しつつある。

 志願兵の一斉突撃は人間軍に優勢をもたらしたが、それも長くは続かなかった。無尽蔵の兵力を持つ野豚との戦闘は泥沼の消耗戦と化し、人間軍の勢力は徐々に削ぎ取られた。

 ブダペスト師団長は乱戦の中でよく指揮をとり続けていたが、その頃には豚王正規軍はほとんど全滅という状況に陥っていた。師団長の周りに軍服を着た兵士の姿はすでになく、服装がバラバラな民兵だけが幽鬼の形相で戦っていた。

 この時点で彼は指揮を放棄し、一兵士として野豚の大群に突入する。彼の命は数匹の豚を斬殺することで費やされた。

 民兵にも疲労の色が濃い。剣をふるう力を失った者から脱落していき、消耗が激しくなっていた。ブダガーナ師団長は乱戦の中で戦死した。

 援軍のあてがない人間軍は、息切れが激しかった。彼らの戦いは、ただ迫りつつある死を一分一秒でも先送りするだけのものと成り果ていていた。

 消耗戦の先が見えてきたのだ。

 人間のへばりを感じ取ったかのように、野豚は勢いを盛り返していた。開戦時のような突進しか知らぬ彼らが復活していた。人間が立ちふさがっていようがおかまいなしにまっすぐ前進し、疲れ切った人間を吹き飛ばした。

 平原は人と豚の死骸で埋まり、人間軍はもう生きている者の方が少ない。しかし野豚はまだその全貌を地平線の彼方に隠している。

 野豚の大群が人間の薄い陣を突破し、彼らを蹂躙して死体の上を駆け抜けるのは、時間の問題だった。

 刻々と悪化する戦況は、最後方にいる女王と司令部の面々にも明らかに見て取れた。彼らは声を失い、なすすべもなく突っ立っていた。知恵者で知られる参謀長にも起死回生の策はなかった。

 軍務大臣が気づかわしげに女王の姿をうかがった。

 彼女は哀しげに兵士たちの死を見つめ、彼らの最期の声を聴いていた。その肩は、二百万兵士のほとんど全滅という惨禍に耐えかねて震えていた。

「負けたわね。あたしたちも行こう。せめて豚を一匹でも多く殺すのよ」

 彼女は周りの高級士官たちの目を見回して、静かに言い渡した。

 軍務大臣が彼女の前に立ちふさがり、女王を制止した。

「なりません!」

 彼は一喝した。

「豚王国はまだ負けてはおりません。大豚王国にはまだまだ無傷の兵士と国民と国土が残されています。早まってはなりません、女王陛下!」

「だって、あれを見てよ! みんな死んじゃうわ! ブダペストも滅茶苦茶にされる。もうおしまいよ!」

「そんなことはありません。陛下が生きていれば、豚王国は続くのです!」

「あたしはここで死ぬわ!」

「そんなことは私が許しません!」

 軍務大臣は今まで見せたことのない険しい顔で女王を睨み、彼女の細い手首をつかんだ。

「痛っ! 何するのっ、大臣!」

 彼はテントの裏に女王を強引に引きずっていった。

「やめてよっ、離して、離してったら!」

 彼女は大臣の背中を何度も思いっ切り叩いた。しかし彼は知らん顔をしてずんずん歩いた。

 テントの裏に、気球が用意されていた。

 女王の顔が歪んだ。

「なんなのこれ? あんまりじゃない!」

 大臣は女王を落ち延びさせようとしているのだ。彼女は怒りに震えた。

 この期におよんで逃げ出すなんて、そんなぶざまな真似は絶対にできない!

「こ、このあたしをバカにすんなよっ!」

 女王のプライドと怒りのこもった叫びにも、軍務大臣はひるまなかった。あくまでも自らの信念に従い、彼女を抱きかかえた。女王は激しく首を振った。悔し涙が散った。

「お許しを、陛下!」

 大臣はもがく彼女を無理矢理気球に乗せた。

「やめてーっ、あなたまであたしを裏切るのーっ!」

 彼女が叫んだのと、軍務大臣の腹心がもやい綱を剣で切るのとが同時だった。

 気球がふわりと浮かび、舞い上がっていった。

 上がっていくスピードが、やけに速く感じた。切り離されてしまった地上が遠くなり、涙でぼやけて見えた。

 そこはすでに、どんなに手を伸ばしても、叫んでも、嘆いても届かない世界だった。

 テントの周りの人たちが、女王がしたかったように、戦場へと突っ込んでいった。彼女は軍務大臣の姿を目で追ったが、彼は真っ先に前線に紛れ込み、すぐに他の兵士と区別できなくなってしまった。

 気球は上昇気流に乗ってさらに高く飛翔した。

 上空から俯瞰すると、細く伸び切った人間軍の線が、巨大な面となった押し寄せてくる野豚の大群をかろうじて止めている図が浮かびあがった。ものすごく頼りなくて、不安定な構図だった。

 人間の線がプツリと切れた。ブダペスト防衛軍の堤がついに決壊した。

 人間たちが豚津波に飲み込まれるのは、あっという間のことだった。一時は優勢になったのが嘘みたいにあっけなかった。

 総崩れになった人間軍は野豚の大群に踏みつぶされた。最後は勝算のまったくない玉砕だった。司令部のテントはぺしゃんとつぶれた。

 女王の眼下は野豚一色になった。気球はもうもうとした土煙に覆われて、地上のようすは霞んでかすかにしか見えなくなった。

 彼女は野豚がブダペストへ押し寄せるのを見つめ続けた。

 何かを叫んでいたが、自分が何を言っているのかわからなかった。

 彼女は野豚が首都をぐちゃぐちゃにするのを目撃した。

 押し寄せる豚が美しい街並みを砕き、壊し、逃げ遅れた人や体が不自由で逃げられなかった人を殺した。

 陽が沈み、陽が上り、その陽がまた沈んだ。その間ずっと豚は進み続けていた。

 次に陽が上ったとき、進撃する野豚の姿はなく、がれきの山となったブダペストと人と豚の死体だけが残されていた。

 女王は一部始終を見てしまった。

 気球が滞空する力を失い、ゆっくりと地上に降りていった。

 王城前広場に気球は静かに落ちた。

 女王は生き残った。虚ろな瞳で汚れた城を見た。

 堅牢な城はその形を保っていたが、彼女には意味のあるものとは見えなかった。

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