この世界に唯ひとつのもの
クララ
美し過ぎる時間1
「ねえ、お姉さま、歪んだ愛って何? それはダメなものなの?」
「まあ、どうしたのメグ。どこでそんなことを……。でも、そうね。愛なんていうものはね、みんな歪んでいる。だからこの世界にあるものは、みんなそう呼ばれていいはずよ」
「みんな……」
「驚いた? でも本当なの。だけどおかしいのよね。……大概の歪みは許されてしまう。歪みではなくなるの」
「どうして?」
「みんなが求めるからよ。大多数が同じように……。そうするとね、それは正当化されて、もう歪んだものではなくなるの。でも時々、どうしても、誰にも理解されないものがある。強いて言えば、それが歪んだ愛かしらね」
「誰にも理解されない……そんなの幸せなの?」
「幸せ……ね。確かに、認められることは喜びだわ。だけど……愛は人に理解されるためにあるんじゃない。自分のためにあるのよ。だから、多くの人にとっては歪んだものでも、自分にとって美しいものならそれでいいのよ」
姉は読みかけの本を閉じた。『春の午後』はお気に入りの詩集だ。それにしても、夏の光の中で読む春の歌なんて……、けれどそれを読む横顔は穏やかで優しくて、姉が幸せならそれでいいのだろうと感じた。
そんな彼女がこちらを向けば、青い瞳がすぐそばの湖面のように揺れた。ゆらゆらと、ゆらゆらと。まるで青い蜃気楼のようだ。まるで……遠い日の記憶のよう……。
力を増した7月の日差しは頭上に広がる大きな梢で遮られ、その熱も憩う私たちには届かない。ふと、晩春の風が頬を撫でたような気がした。
夏休みになると、私たちはこうして毎日湖畔にやってくる。普段は部屋で過ごすことを好む姉が、嬉々として出かける。ずっと寄宿舎住まいだった彼女が卒業して戻ってきた夏から始まった時間。
規則だらけの毎日から解放されて、きっと羽を伸ばしたいのだろうと私は思った。けれどそれから2年、このピクニックが終わることはなかった。
今日もバスケットにあれもこれもを詰め込んで、姉は満足げに岸辺の木陰に座っている。
「……お姉さまったら。なんだか歪んだ愛についてよく知っているみたいな口ぶりだわ」
私の言葉に姉が妖艶に微笑む。内に秘めたものがちらちら見え隠れするような気がして、どうしようもなく惹かれてしまう、そんな微笑みだ。姉は昔から誰もを引きつける大輪の薔薇のような人。年頃になってからは縁談も降るようにあった。けれど、そのどれにも首を縦に振らなかった。
学園でも良い成績を収めている。まだまだやりたいことがあるのかもしれない。私としては、大好きな姉がそばにいてくれるのなら、理由なんて何でも構わなかった。
姉がまた、微笑みながらそっとピアスに触れる。バロックパール。よほど気に入っているのだろう。帰ってきて以来、それを外したところを見たことがない。
毎年、夏前になると彼女はドレスを新調する。まるで毎日どこかに出かける予定があるかのように、あれもこれもと求めるのだ。不思議がる私に、寄宿舎時代の癖なのだとこっそり教えてくれた。
ドレスに合わせて髪型を変えれば、もちろん靴も日傘も。それでもピアスだけは変わらない。おしゃれな姉にしては奇妙なこだわりだと思ったけれど、そのなんとも言えない複雑な形は実際どんな服にも馴染んだし、何よりもミステリアスな雰囲気の姉によく似合っていた。
「そうね……、例えば私の大事なジョージとか?」
「ジョージ、さん?」
「ええ、お茶会が大好きなジョージ」
そう言うと姉はバスケットに入れてきたクッキーを1枚私に差し出した。
「このクッキーもね、ジョージの秘伝のレシピなの」
ほのかに甘く、サクサクとした歯触りのクッキーを味わいながら、私は姉の話に耳を傾ける。ジョージ。姉が卒業してから3度目の夏、それは初めて聞く名前だった。
「ジョージはね、6月には毎日お茶会をするの。時間は午後2時よ。決して遅れてはいけないわ。だって、3時半には終わってしまうもの。たった1時間半、1秒だって無駄にはできない。場所はジョージのお家のローズガーデンよ。雨が降った日はテラスね。綺麗な薔薇がたくさんあって、ジョージご自慢の場所なの」
「6月だけのお茶会?」
「ええ。ジョージの生まれた街はね、ずっと北の方で春も夏も短いの。一番素敵なのが6月。晩春ね。初夏とも言うかしら。薔薇香る美しい頃。それはね……、彼の大好きなお母さまが唯一お元気だった季節なの」
姉と同じ学園の生徒だったジョージは寄宿舎には住まず、近くにこじんまりとした邸宅を持っていて、そこから通っていたのだそうだ。お茶会の開かれる6月はもう夏休み。姉が毎年7月になるまで帰ってこなかったのは、そんな理由があったからだと初めて知った。
青い瞳を潤ませ、甘い吐息をこぼすかのように姉は言葉を紡いだ。
「テーブルも椅子も、クロスも食器も、もちろんケーキやクッキーのレシピに茶葉の種類まで、すべてがとんでもなく素晴らしかったわ。たくさんの人たちが招かれたの。入れ替わり立ち替わり。ジョージはね、天使みたいに綺麗な人なのよ。彼のお茶会に行きたいって、みんな憧れるの」
私の目の前に、むせかえるような薔薇の香りの中で開かれるお茶会が出現する。姉の言葉の一つ一つが形になって、ページをめくるが如く鮮やかに展開されるシーン。私はいつしかその物語の中に紛れ込んでいった。
ある日、テーブルの隅で静かにお茶を飲んでいると、一人の女性が真っ青な顔をしてやってきた。
「なぜ私は呼ばれないのです? 昨日まであんなに楽しい時間を一緒に過ごしたではないですか」
「君は昨日、木立の間を行くときにスミレを踏んだね? だからさ」
「スミレ?」
「お母さまはスミレがお好きだった。それはそれは大事にされていたんだ。その花を気にもせず踏んでしまうなんて……君とはもうお茶は飲めないよ」
私は唖然としてしまう。はしゃぎながら歩けば無意識にそんなこともあるだろう、それなのに……。けれど泣きながらお茶会を後にしたのは彼女だけではなかった。ケーキの味に意見した人も、テーブルの花を動かした人も、ジョージに新しい茶器をプレゼントした人も、人形に触ろうとした人も、いつの間にかみんないなくなった。
そう、彼のお茶会のテーブルには、とても愛らしい人形が座っていた。それはジョージが母親の誕生日にプレゼントしたもの。そして、それを自分だと思ってほしいと遺されたもの。
人形は毎日違うドレスを着ていた。豪華なレースがついたものから、夏らしい明るく爽やかな薄物まで、その日の天候に合うものをきちんと選んで着せられていた。それはお茶会に出席した女性たちの誰もが羨ましがるほど、どれもこれも手の込んだ素晴らしいものだった。
私の横で優雅にお茶を飲んでいた姉がそっと呟く。
「みんなみんなお母さまのお好きなもの。一緒に過ごした幸せな日々のもの。ジョージはこうやってかつての時間を繰り返すのよ。誰よりも、何よりも、幸せだった時間をね」
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