第2話


 自分でも何してるんだろうと思う。でも、その時はそれが最善だと思った。少なくとも目の前でボロボロにやつれてる女性を見てると他人事とは思えなかった。それに、そうだ、あの時はどうしようもないくらい月が眩しかったから。月の見えるところまで行かなければならなかったから。月が出てるなら、あの人のことを思おうと決めてるから。そして何よりも、あの人の命日だったから。でも、見知らぬ女性にあんな話をするつもりはなかった。ましてやオス呼びなど人前ですることになるとは。


「まあ、約束しちゃったもんはしょうがないか・・・飲み屋でオスに絡まれるより何倍もマシだ」


といってもお互い不定期な仕事らしいし、そうすぐに会うことはないだろう。酒の勢いであの女性もあのときは強引気味だっただけだろうし、冷静になった今はもしかしたら自分に関心を無くしているかもしれない。今日は今日でまた自分だって忙しいのだ。仕切り直しもしたいし、久しぶりに本屋にも行きたい。

 生きている人間とのことはわりかしどうにでもなる。問題はすでに生きていない相手のことを思うことだ。



 あの日は月が出ていた。それも随分と主張の強い明かりを伴って。月が出ていると否応なしに思い出す人がいる。恩人であり、憧れでもあり、親友でもあった人。今の自分を、この姿でここに立たせている人。自分に、筆を取らせた人。そして今はもう会えそうもない人。たった一人の男のせいで、自分はもうその人に会えなくなってしまった。それでも、今でも筆を執るのはあの人のためだった。


 清野凪せいのなぎ、ペンネーム風言ふうげんは知る人ぞ知るライターだ。普段はエッセイなどを寄稿している。和の風情と皮肉を織り交ぜた独特な筆致と、独りで生活する女性の視点から描かれた風景描写が女性に人気の字書きだ。あの日はいつものように記事のネタを求めてブラブラしていた。ほんとに、ただの偶然だった。


「あれ…もしかして凪?」


「あ”?」


男に声をかけられて思わず声音に敵意が宿る。とはいえ、名前を呼ばれたのだから一応反応するしかない。そして、厄介なことにその男の声は、まったく知らない声ではなかったのだ。


「やっぱり凪だ。髪切ったんだね…あんなに長かったのに。」


「ちっ」


馴れ馴れしく言葉を紡ぐこの男は、以前清野と恋愛関係的な交際があった人物だ。特別礼儀や清潔感を欠くようなわけでもないし、そこまで「悪人」「クソ」と呼べるような人物ではなかったが、そこらにいる男と同じように、話しかけられれば警戒心を抱かずにはいられない属性であることは事実だった。この警戒心と僅かな敵意は、この人物への印象や以前の関係とは別に存在する。言葉を尽くしても拭いきれないものだ。


「お前に関係ないだろ」


「お、お前・・・!?ってそんな言い草ないだろ、たしかに色々あったけどさ。それより随分印象変わったな?化粧もしてないし、スカートも履いてないし、髪も・・・俺のせい?」


正直、色々あったというほどこの男と何かあったわけではない。言葉にするのもはばかられるようなことがあっても、逆になんにもなくても、はたまた言語化できるほど過去を咀嚼しきれていなくても、この言葉は使えるからだ。「色々あった」という言葉は非常に日本語らしい便利な発明品なのだ。そして男が女に向かってその言葉を用いる際、自分がこの女に影響を与えられるのだという優越感も得られる。意図は関係なく、そう作用するようにできている。ましてや容姿の変化に言及してくるのなら。清野は不快に思ったが、同時に呆れもした。


「わいの髪型にあんたが影響してると思うか?思い上がらないでくれ。」


「わ、わい?」


目の前の男は明らかに目をまん丸くさせて驚いている。この反応は予想どおりだ。女性の髪型がショートになった程度で悲しむ男は、女性の一人称が「わい」になったこと程度にも、同様にたじろぐ。


「凪、ほんとどうした?イメチェンにしたってやり過ぎだろそんな態度。ジェンダーとか、俺そういうのに厳しいわけじゃないけどさ、さすがにもっと女子らしくしたほうが・・・」


「はん」


鼻で笑う。交際していた当時はそこまで不快な相手だとは思わなかった。むしろそこそこ先進的な相手だと思えていたくらいだ。だが、いざ目の前の女性が長髪と装飾を捨てたらこのざまである。この男が特別たじろぎやすいのではない。どんな男だろうと女への本音はこれなのだ。どれだけ利口ぶって知識を蓄えて上品に振る舞おうと関係ない。商品値札を外したがる女にはみな同様だ。


「わいからしたら、お前がその格好と髪型で出歩けていることのほうが引くね。男子力のかけらもないな。じゃあな。二度と現れるんじゃねえぞ!」


男からの次の言葉も待たずにその場からさっさと立ち去った。清野は、男に自分の皮肉が通じたとは思えなかった。が、そんなことはどうでもいい。なるべく男との会話に時間を割きたくはない。どんなに暇であっても。


「しかし髪切った程度でこんなんばっかりだな」


無理もないとは思っている。清野の周りの女友だちでさえ似たようなことを言うからだ。髪を切り、顔にインクを塗るのをやめ、身体を冷やしやすいブラウスをやめて裏地の温かいロングTシャツにし、スカートをやめて機動性の高いズボンにし、ヒールをやめて足を傷めないスニーカーにする。たったそれだけで、周囲は怪訝な顔をする。


”似合っていたのに。”

”かわいかったのに。”

”ダサくない?”

”失恋でもした?”

”自然体でもきれいだよね。”

”女子力は?”

”男になりたいの?”


アホらしい。かけられる言葉のどれもこれもがアホらしい。そしてそういう反応をするやつらは、自らその理由を語っていることに気が付かないのだ。


「わいが髪を切り装飾をやめたのは、まさにお前らみたいな人間がいるからだよ。」


 口に出すことはしない。言っても理解できないだろう。周りを見ろ。何が溢れている?髪の長い人間の殆どは女性だ。髪の短い人間の殆どが男だ。顔や身体を切り、体のラインを強調させ、毛穴も無い女がスカートをはいて顔にインクを塗ってわざとらしく笑いかける先は、顔になにも塗らずとも問題のない、顔を切らずとも賛美される、毛穴の存在に有罪判決さながらのプレッシャーなど感じることもない、笑顔でいることを強制されない、男たちだ。

 こんな世界では、女は”人間”の格好などしていない。あるのは、見目を楽しませるためのツールだ。そしてそれが意味するところは、「女は男の鑑賞物である」という身分だ。そして鑑賞物の行く先は、「男の所有物」という身分だ。自分がそれを着るということは、それを肯定するということだった。さらに、それの行き着く先を祝うということは・・・。

 清野は思わず吐き気をもよおした。

 自分はそんな世界に貢献したのだ。そしてその貢献が、直接的にではないにしろ、あの人を失うことにつながった。あの人を殺した直接の原因は男だが、自分の行いは紛れもなくそんな男の手伝いをしていたのだ。だから清野は、「女性身体者として人間になる」決意をしたのだった。清野の行いは、値札をはがし商品棚から降りる決意だった。


「せっかくネタ探しに出たのに、オスのせいで余計なもん思い出しちまった。」


悪態をつきながら当て所なくぶらぶらする。ふと見上げる。空にはもう月が出ていた。


「そういや、今日は・・・もうそんなに時間が経ったのか。」



 それで、あの夜に至った。本当はあの月がよく見える席は自分のお気に入りで、しかもあの人との思い出の場所でもあった。そして、あの人を結果として死に至らしめてしまった場所。

 そんな場所で、自分はあの人の命日と、満月の日には酒を飲んで喪に服すと決めていたのだった。決めていたのだったが・・・。あの長い黒髪に藤色のコートがよく映える女性がすでに飲んだくれていたのだった。正直、最初は良い気はしなかった。でも、あのバーのを思うと、そんな気は消え失せて、むしろ哀れに思えた。同時に、自分にもあんな時があったな・・・と重ねずにはいられなかった。

 綺麗に着飾り、堂々としていたと思い込んでいた自分の身の上を、「思い知らされた」時。清野は同じように泣き崩れ、吐きそうになり、罪悪感と自己嫌悪感と、そして怒りで押し潰されそうになった。


 あの女性、藤館に具体的にどんなことがあったのかは知らなかったが、清野は「同性として」藤館を見守ろうとしていた。見守っていたら、急に中国語で歌い出した。しかも漢詩を。出来心で続きをつぶやいたら聞こえてたみたいで、そこからは、二人の境界が変化した。

 しかもこのままその境界を崩してもいいかなと思ってしまったのは、自分だ。

 自分が漢詩の続きを読んだあの時から、見守りという距離も一線も崩れてしまった。オスから加害され(おそらく)酒を飲んで1人ボロボロになるという女性と、命日への哀愁とオスへの嫌悪感でぐるぐるしている女性、という図式は、次の瞬間からは「同じ女性身体保持者の共感と傷心」で繋がる図式に変わった。


 で、最終的にはなぜか連絡先の交換に至るのだった。藤館さんはそのあと無事に帰れたんだろうか。あの店で呼んだタクシーなら大丈夫だと思うが。あれが他の、男客とかもいる”ふつうの”バーで、タクシーの運転手も男だったら・・・。しかも、絡んでた相手が自分じゃなくて男だったら・・・想像するだけで背筋が凍る。


「しかし、藤館、ねえ・・・どっかで見た名前な気がするんだけど」


喉まで出かかっているのに、よく思い出せない。なんだっけ。うーん、こういうの腹立つ。特に怒りのやり場もないのでぐるぐる溜まって淀むだけだった。


 悶々としながら、清野は街を歩いていく。思い出せないまま歩を進める。今日も相変わらず「綺麗に」装飾した女性たちとすれ違うし、不衛生できったない顔面さらしたままのおっさんも、髪型をどっかのアイドルみたいに整えて化粧なんかしない(もちろん整形もしない)勘違いしたスーツの男ともすれ違う。そしてビルにかかっている広告はもちろん、何度も修正されたであろう、現実離れした肌質と異様に大きい目と良すぎる発色の唇をした女性だ。

 

「わかっちゃいるけど、結局こんなんばっかりだ。安定の規範。こんな世界で自分一人が髪切ってる、スカートはかない化粧しないからって、なんだってんだよあのクソオス」


町に蔓延るジェンダー規範と、藤館の名をどこで見たか思い出せないのも相まって清野はイライラし、心の中で毒づいた。そういや昨日の元カレ、いや元彼男とあったのもこの通りだったな。


 一瞬、どこかをあいつがうろついているのではと警戒して怯えてしまう自分がいる。

 今は昼だからあいつはここには来ないか。大丈夫だ。自分は安全だ。というかそう言い聞かせてないと、遭遇してしまいそうでこわい。

 こわい?

 こわいのか、自分。うんざりよりも、恐怖なのか・・・。

 いくら見下して、嫌悪感を発露させることができるようになっても、恐怖心までは振り払えない。どんなにオスがバカで、実際は女性たちより試験の点数が取れないとしても、身体的には恐ろしいのだ。おまけにオスは感情的だ。いつ怒るのかわからない。まるで手のつけられない生き物なのに、どうしてみんな一緒に生活できるのか不思議だ。


「考えたらおぞましくてしにたくなるな・・・よそうよそう。あーでも、オス客少ないといいな・・・」


 頭の中を忙しさを振り払うように顔の横で手を振る。清野は書店にたどり着き、店内を見回した。いつもの癖で身体を新刊コーナーの棚の上に傾ける。すると。


「あ・・・藤館、香子」


さっきまで思い出せなかった名前が書かれた本が新刊コーナーに平積みされていた。「梅見物語 藤館香子」。この前、その若さで話題になった有名受賞作家だった。

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